運命の出会い
2LDKの高級マンションを二千万円で処分した玉野は、打って変わって、家賃六万八千円の1DKアパートに居を移した。
玉野は記憶を失って以来、何故だか一生懸命に生きて行く事を、誰かと固い約束を交わした様な気持ちが心の中に居座っていた。根拠はないのだが、この世を生きて行く事は容易な事ではないが、それでも諦めずに生きて行く様に契りを交わしたのだと…
二日後、初出勤の日を迎え、早朝の4時半に家を出た。早朝に公共交通機関は動いておらず、予め購入して置いた自転車に跨り、芝浦の真庭エキスプレスに向かった。
既に夏真っ盛りの気候のせいか、ムッと草熱れを感じる湿気が肌に纏わり付いた。タオルと着替えの下着を数枚、メモと筆記用具に、三時に起きて拵えた昼食の弁当と朝食のサンドウィッチを入れたリュックを背負い、薄暗い街中を急いだ。
薄暗い中のせいか、無機質にも思える建物が見えて来た。玉野にとって今日からの職場である。
「お早うございます」玉野は精一杯の元気な声で挨拶をした。支店長の矢田は、まだ出社しておらず、事務員の女が対応した。
「これ、事前に聞いていたサイズの作業服です。今日、横乗りの新見さんは、まだ出て来てないんで、更衣室で着替えたら、ここで待ってて下さい」
少々、素っ気ない態度で更衣室に案内された玉野は、ベージュ地に袖と襟がエンジ色になっているポロシャツと、エンジ色のズボンに着替え、面接の時に案内された応接室で新見たる人物を待った。
「ウィッスー、あぁ、アンタが新人さん。オレ、新見 浩太。行こうか」
素っ気ない新見の態度に玉野は(この業界の人間は皆んな愛想がないのか?)と思った。
「あの、ボク、玉野 光一郎って言います。宜しくお願いします」足早な新見の後を追って玉野は簡単な自己紹介をした。
「そんなん、どうでも良いから、時間がねぇんだよ。移動は駆け足!」新見に急かされる様に、玉野は3tトラックの助手席に乗り込んだ。
新見が運転する3tトラックは、空が少し明るくなりかけた街中を出発した。
「何?玉井だっけ?運転手の経験、無いんだって?」新見はタバコに火を付けながら聞いて来た。
「あぁ、玉野です。経験はありません。でも一生懸命に勉強させてもらいます。新見さん」タバコの煙が鬱陶しく、玉野は助手席側の窓を開けた。
「暑い、暑い、暑い、蒸すだろ?勝手に窓、開けんなよ!お坊っちゃんじゃあるまいし、タバコの煙くらい我慢しろよ!」言いながら冷房のファンを最強にする新見の言葉に、仕方なく玉野は窓ガラスを閉じた。
(我慢だ!我慢しろ、生きて行くんだ。折れちゃいけない。ボクの中の誰かが言っている。"諦めちゃイカン!ワシ等はアンタが捨てて来たモンを全部拾ってやる!だから、アンタは前へ進むんじゃ")
又、根拠の無い何かが玉野の背中を押した。玉野の失った記憶の鍵穴は、そこにあるのだろうか?
「先っきも言ったけどさ、オレ等の仕事は時間が全てな訳!時間を幾ら使っても、営業所の売り上げもオレ等の給料も上がんねぇんだよ!数を熟さなきゃ、金になんねぇんんだよ」
新見の至極、最もな意見に、一瞬、納得しかけた玉野だったが、又しても根拠の無い想いが湧き上がった。
"人の為に働けない人間は、最終的に間引かれるのだ"と…
玉野の、記憶を失う前の何かが玉野自身を揺り動かしていた。




