第1話 辺境のエリック
「エル……。エリック、こちらへいらっしゃい」
「母ぁ?」
エリックと呼ばれた小麦色の髪をした小さな男の子が、継ぎ接ぎだらけの服を泥で汚したままポテポテと母親の方へ駆けていく。近くに寄った我が子に母親は跪くと、エリックの顔に跳ねていた泥を軽く拭う。
「ほら、お父さんの畑仕事が一段落着いたみたいだから。そろそろ帰ってお夕飯にしましょう」
母が指し示す方へエリックが顔を向けると、鍬を肩にこちらへ歩いて来る父の姿があった。エリックの青いつぶらな瞳が向けられている事に気付いた父が大きく手を振る。その動きに合わせて、エリックもまた小さな手を振り返した。
「さ、お家に帰る前にキレイキレイにしなきゃね」
母がそう言ってエリックに正面を向かせると、エリックに手をかざした。
「発動『ウォータードロップス』」
母の言葉に応えるように、その手に嵌めた木彫りの指輪が淡く光る。すると何処からともなく大きな水球が現れ、エリックの服や手に着いた泥を洗い流していく。
「発動『クリーンドライエアー』」
次いで乾いた風がエリックの濡れた服を取り巻き、瞬く間に乾かしていく。エリックはその様を、頬を撫ぜる暖かな風のくすぐったさに目を細めつつもじっと見つめていた。その様子に母が緩く笑う。
「ふふ、エリックは本当に魔法が好きね」
母親の言葉に小さく頷きながらエリックは、この世界でエリックと名付けられた神崎 望は内心で感動の声を上げていた。
(だって、こんな、ゲームやアニメみたいな事が現実で起こせるなんて、感動しない訳ないじゃないか!)
生前の望は多少人より運が悪いとはいえ、それでも普通の中学生だったのだ。帰宅部でそれなりに自分の時間も持てたので、将来の夢のための勉強の傍らゲームや漫画、ラノベ、アニメも楽しんでいた。それらの記憶が、今のエリックに大きな感動を与えていた。
「母ぁ……。僕も」
エリックはまだ扱いきれぬこちらの言葉でたどたどしく要望を述べる。しかし母親はそれに微笑みながら緩く首を振った。
「だーめ。12になるまで我慢してね」
「何の話をしてるんだ?」
「わわ……っ!?」
エリックの背後から声がしたと同時にエリックの体がふわりと宙へ持ち上げられ、ストンと何処かへ降ろされる。エリックは慌てた声を上げた後、落ちないように目の前の父の頭を掴んだ。
「ふふ、エリックが魔法を使いたいって、また言ってたの」
「むう、本当にエリックは魔法が好きだな。偶には父さんの華麗な鍬さばきにも憧れて欲しいものだが」
そんな他愛も無い両親の会話を聞きながら、エリックは高くなった視点を精一杯楽しむように周囲へ首を巡らせる。夕暮れに染まる茜の空に、疎らに立つ家の影法師が炊事の柔らかな線を描いている。
エリックの産まれた村は小さな村だった。畑は多くなく、一つ一つも小さい。家畜もいない。しかしその割に子どもの数が多いのは、労働力を期待しての事だろうか。いまだこの世界の地図を見たことが無いエリックであるが、夏が短くて冬が長いこと、また村を訪らう人がとても稀なことから、かなり北の辺境に自分はいるのだろう、とエリックは当たりをつけていた。
黄金の影絵にぽつぽつと小さな明かりが灯り、幾人もの子ども達が駆けていくのを遠目に、父の肩で揺られてエリックは家路を行く。それはこの世界に生まれてから変わることの無い、温かい見慣れた風景。父の大きな背に揺られて見えるこの景色に、今のエリックはいつも心弾んでいた。
(どうしてだろう。肩車って、こんなに楽しいものだったっけ。
……なんだか体が子供に戻ってから、心の方も随分子供っぽくなった気がするなぁ)
エリックは自然と浮き立つ自分の気持ちに少しの戸惑いを交え、そしてチクリと痛む胸に自然と視線が下がる。
(お父さん……お母さん…………)
目蓋を閉じると、エリックの脳裏に遺してしまった前世の両親の顔が思い浮かぶ。
この痛む胸の原因をエリックは、望は、よく分かっていた。
それは罪悪感だった。
エリックはゆっくりと眼を開くと、目の前にある今世の父の頭を撫でるように触る。硬くてゴワゴワとしているが、妙な安心感をもたらしてくれる感触。
(本当は、もっと甘えてみたい。でも……)
エリックは想う。神崎 望は両親が心配して止めているにも関わらず学校へ行き、そして土砂に飲まれて死んだ。そこに神の介入があったにせよ、望の両親がその事を知る由もない、ただただ一人息子の死をどれほど悲しんだのか、想像すら難しい。であるのに、当の神崎 望はエリックとして生まれ変わってしまった。そしてそのエリックは今、のうのうと新しい両親の元でたっぷりの愛情を注がれて育てられている。
エリックに何かできる事があるはすもないが、それでも悲しむ前世の両親を差し置いて自分だけ新しい幸せを享受する事がどうしても許せなかった。
(いっそ……、前世の記憶なんて残っていなければ良かったのに)
前世の両親から愛されていたからこそ、今世の両親の愛が今は鋭い刃となってエリックの心を苛む。エリックにとって前世の記憶は、もはや呪いのようなものだった。
「どうした、エリック。なんだか元気無いぞ?」
「え……っと、んーん、なんでも……ない」
不意に父から声を掛けられ、エリックは慌てて頭の中の暗い想いを端へ追いやると、こちらの言葉で拙く返す。
頭の上にいて様子など見えないはずなのにどうしてエリックの様子が分かったのだろうと、エリックは疑問を言葉にする代わりに父の髪をクシャクシャにした。
父はその感触を楽しむように軽く笑い声を上げたあと、明るい声で続けた。
「そうか? 悩み事……にはまだ早いか。何か嫌な事があったんなら、ちゃんと父さんに言うんだぞ?
エリックにはこの父さんが付いているんだ! どんな事があっても父さんの鍬でチョチョイのチョイだ!」
「ちょっと、父さん~? 誰か忘れていませんか~?」
そう言ってちょっと頬を膨らませながら、母が伸びるようにしてエリックの頬を軽く突く。
エリックはその感触のこそばゆさに笑い声を上げる。
「も、勿論忘れるはずないじゃないか! うん! この後言おうと思ってたんだ」
「へー、本当かなぁ?」
慌てて弁明する父に、後ろに手を組んで少し不機嫌そうに母が返す。
「本当だって! な、許してくれよ!」
「んー、どうしよっかな」
悪戯っぽくそう言う母の目は相変わらず半眼に細められているが、その口元は弛く弧を描いていた。
そんな他愛の無いやり取りを眺めながら、エリックは一人思うのだった。
今はまだ自分の中の罪悪感との折り合いの付け方は分からないけれど、それでもせめて今世だけでもこの優しい両親だけは大切にしよう、と。