第2話 人生最悪の日
「起立! 気を付け! 礼!」
「「ありがとうございました!」」
一日の授業の終わりを告げる号令が教室に響くと、次いでワッと生徒たちの様々な声が教室を満たした。まだ教師が出ていって無くてもお構いなしだ。
部活へ誘う声、今日は何処へ寄り道するか話し合う声に今日出た宿題の量に溢す愚痴等々、そんな開放感に満ちた賑やかな声の中、望は荷物を手早く纏めると、一人席を立った。何人かの仲の良いクラスメートに声を掛けつつ一人教室を出ると、授業終わりの生徒たちで溢れる前の廊下を急ぎ足で進む。
別にクラスに馴染んでない訳でも、或いは嫌がらせの類を受けているわけでもない。
望はただ、自身の運の悪さが招きよせる災いのリスクを減らすために帰路を急いでいるのである。
そう、望の運の悪さは勿論人に対しても発揮されるのだ。謂れのない冤罪や他人のトラブルに巻き込まれての暴力沙汰なんて事も何度となく遭遇している。一度その事が切っ掛けでイジメの対象になりかけた事もあったが、直後に大怪我で入院したため幸いにも有耶無耶になってくれた。ただ、この時起こった諸々の出来事により、望は理不尽や不条理という言葉が大嫌いになった。
そういった事もあって、厄年の今年は特に極力リスクを減らすためにも家へ早めに帰るようにしているのだった。因みに、望が部活動に入らなかったのも中学三年で厄年に当たるのを見越しての事である。
(ふう、今日も無事に終わりそうかな)
望はまだ人の疎らな校庭を突っ切り、校門を出た所で一つ息をついた。相変わらずの曇り空だが、地面の水溜りはもう無くなっている。これならば傘が無くても問題ないだろう。
望は誰かが多分間違えて持ち去ったであろう自分の傘を頭の片隅から追い出すと、背中の通学鞄を背負い直して帰路を急ぐ。
学校前の通りを抜け、幾つかの角を曲がり交差点を越え、そして家と家の間の細い路地を進む。直ぐにやや視界が開け、片側に雑木林の山、逆側に民家裏手の塀に挟まれた小道に出た。
この道は望がいつも使っている近道だ。人通りが少なく、だけどすぐ側には助けを呼べる誰かが住んでいる、つまりトラブルに遭いづらく、何かが起きた時は助けも呼べる理想的な通学路である。
この静かな道を歩く時の望の日課は、山の斜面を観察しながら歩くことだ。岩の隙間から顔を覗かせるシダに斜面をびっしりと覆う苔、それから何だかよく分からないキノコなど四季折々に見られる様々な植物を眺めるのが好きなのだ。たまに山菜を採って帰ることもあった。
「あー……。 やっぱり傘、必要だったかぁ」
そんないつもの道を、ややゆっくり目に歩いているとポツリ、ポツリと雨粒が雲から滴りだした。空を仰ぎ見ると、いつの間にか分厚い雲が空を覆っている。山側の方はより雲が濃いようであるから、上の方は既に本降りになっているのかもしれない。
こちらも本降りになる前に早く家へ帰ってしまおうと、駆け出した時だった。突然、望の全身を粟立つような悪寒が駆け抜けた。
(なん……だ、これっ!? やばい! 何か分からないけど、兎に角やばい!)
周囲には、まだ何かが起こる兆候は無い。一瞬だけ空にも目を向けるが、相変わらずの曇り空だ。隕石が降ってくる気配は感じられない。
只々、虫の足音すら聞こえない程の不気味な静寂が辺りに満ちている。
(こっち……か? うん、こっちの方がまだマシな気がするっ!)
望は鍛えに鍛えられた勘を頼りに、元来た道を全力で駆け始めた。
直後、ずっ、ととてつもなく重く低い音が望の耳に届く。
その音に、望は冷や汗が背中を伝うのを感じた。
最初は腹に響くような重低音一色だった音に、少しずつ様々な違う音が重なり、混ざり始めている。軽い音、甲高い音、何かがぶつかり、転がる音。それはまるで輪唱のように次々と音を重ねながら大きくしていき、そして同時には濃い水気の臭いを望の鼻腔へと運んでくる。
ここに至って、望は何が起こっているのか理解した。
チラリと山側を見るが、見える範囲はまだ動いていない。だが、時間の問題だ。
望は足を動かしたまま乱れる呼吸を必死に抑えて大きく息を吸い、 望は声の限りを尽くして叫んだ。
「土砂崩れだーーっ!! 逃げろーーっ!!!」
ちゃんと家の中に居る人へ聞こえたかどうか確かめている暇はないが、それでもやらないよりは断然マシだ。
もう一度叫ぼうとした所で視界の端に幾つもの小石が流れ落ちてくるのが映った。
(来たっ! クソ、逃げ切れるか!?)
もはや聞こえてくる音は明確な振動を伴って望の元へ響いてくる。
土砂崩れの範囲から逃げ切るため、足に一層の力を込め――、
「なっ!?!?」踏み込みと同時に右足の靴紐が千切れ飛んだ。
足の甲の抑えを失った靴では右足の踏ん張りが効かず、バランスを崩し、走る勢いそのままに望は地面へと転がった。
(くっそ、この靴、先週買ったばっかりなのにっ!? こんな不条理あって堪るかよっ!?)
無様に二度三度と転がり、望は内心悪態をつく。それでも諦めまいと必死に身体を起こそうと足掻く。
あと数メートル。望の勘に拠れば、たったそれだけの距離で死なずに済む辺りまで行けるはずなのだ。
邪魔な右足の靴を振り払いながら立ち上がった時、
「…………ああ」
再び奔った悪寒に従って山側を見ると、まず目に飛び込んできたのは岩だった。次いで、その奥に遂に動き出した山の斜面が見える。上から崩れてきた土砂と木々が鬩ぎ合いながら斜面を掛け下っており、そしてそれに先行する形で巨大な岩塊が勢い良く眼前に迫っていた。
その光景を前に、両足から必死に込めていた力が抜けていく。
望は代わりに、静かに目を閉じた。
暗闇が満ち、音の洪水だけが世界に残る。
「お父さん、お母さん、僕は――」
強い衝撃が全身を飲み込む。
望が口にしようとした言葉は、この世界に産まれることが叶わなかった。