第14話 微睡み
自分の手足すら判然としない闇の中に、エリックは居た。
何も見えない。聞こえない。
だが、エリックはこの闇を良く知っていた。
少し離れた、見下ろすような位置に『自分』がいるのが視える。
エリックではない。あれに居るのは、神崎 望だ。
これは夢である。靄のかかる頭のなかで、エリックはそう確信していた。
これは神崎 望としての最期。
これはエリックになる直前の、永劫の闇の中。
決して忘れることのない、神との邂逅の場。
神崎 望が闇に向かって何かを話しているのが聴こえてくる。
あまり声を荒げてない様子から、まだ話しは始まったばかりのようだ。
どうして今、この夢をまた視ているのだろうか。
浮かぶ疑問に、本当は分かっているはずだ、と誰かが囁く。
その答えが形を成す前に、眼下の様子に変化が現れる。
神崎 望が闇に向けて声を荒げ始めたのだ。
その様を眺めながらエリックは想う。
この時の怒りの気持ちは今でも忘れられない。
神の言葉など、全く聞こえなくなる程だった。
しかし、今ここに居るのはエリックだ。
だから、あの時と比べて幾分かは冷静に眺める事が出来ていた。
それは、この感覚が画面越しに動画を眺めている感覚に近いせいからかもしれない。
闇に響く神の声が、こちらのエリックにも届く。
『さて、そろそろ話も十分だろう。
一応、こちらが君を一方的に招待した負い目もあるからね。楽園へ生まれ直すにあたって、君にはいくつか祝福を授けようか。
時間が無いから説明は省くが、まあ、災い避けの類だよ。君にぴったりだろう?』
そう、災い除けだ。業腹だが、そのお陰で今までエリックとして平穏に生きてこられた。
『内容としてはだね、大きく分けて二つだ』
闇に神の声が響く。
ここからは、あの時は激高の余りに聞こえなかった内容である。
――――本当にそうかな?
何かがまた囁き、何故、と再び疑問が湧き上がる。
『一つ、災いの遅延。毎日毎日不運に見舞われるのは大変だろうから、五年に一度に纏めてあげよう』
神崎 望は怒りに身を任せて何かを喚き散らしている。
『そしてもう一つ。災いの分散。纏まった災いを君一人で背負うとあっと言う間に死んでしまうだろうからね』
こちらのエリックはその反対だった。
脈打つ心臓が魂を締め付けて、これまで楽園世界で生きてきた日々を蘇らせた。
――――そう、五歳の時だ。
ある冬の日、両親から村で風邪が流行っていると聞かされた。
だから、その日以降は殆ど外に出ずにエリックは過ごした。
しかし結局、両親も自分も風邪に罹る事は無かった。だから、大したことは無かったと思ってきた。
『周辺にいる君以外の全員に、等しくその災いが降りかかるようにした。これで君の身は安全だ』
春になって日常が戻り、そして村の数少ない子ども同士としてアリーとクーンと一緒に遊ぶようになっていった。
だけれど、だけれどだ、エリックの遠い記憶の中から、夕日の中を駆け廻る多くの子ども達の影が朧気に浮かび上がる。
――――あの子達はどこへ行ったのだろうか。
『どうだい、災い避けとしては中々のものだと思わないかい?』
満足げな神の声に、エリックは闇の中独り、己の身体を抱き寄せる。
そうだ。もし、あのいつか視た黄昏の影が幻で無かったのだとしたら――――。
ついさっき、夜に垣間見たあの幻想的な光景が、本当はまったくの別のものであったとしたら――――。
神)の声が闇の中を無機質に震わせる。
『不運そのものを失くす災い除けは運命を大きく曲げる必要があるから現実的でなくてね、どうかこれで満足してほしい』
自分に掛けられた祝福は、降りかかる不幸を失くす災い除けではなかった。
自分に降りかかるはずだった不幸を周囲に押し付けるだけの災い避けである。
で、あるならば、即ち――――。
『さ、説明としては以上だよ』
エリックは声に成らない悲鳴が、雄叫ぶ神崎 望のそれと共唱する。
神)が言っていた事。
それはつまり、自分が、ただ生きているだけで周囲に不幸を撒き散らす存在に成り下がってしまった、という事。
この世界に生まれた時に与えられた『タスク』など、初めから関係なかったのだ。
この世界に生まれてしまったその時から、神が求めた外乱を齎す『役割』を果たしてしまっていたのだ。
『それではね。もう会うことはないと思うけど、今度こそ幸多い人生を送れるよう陰ながら祈っているよ』
声が途切れて、世界に無が戻った。
何が祝福か。
何が幸多い人生か。
こんな祝福、ただの呪いではないか。
落とす視線の先、神崎 望が無より濃い闇の中へ沈んでいく。
そして独り、エリックは闇に残された。
自分はどうして、今日まで生きてしまったのか。
既に一度死んでいたのだから、もう一度死んでも問題なかった筈だ。警戒しながら生き長らえる位ならば。
それなのに――――。
いいや、違う。
――――そうだ。
お前は、本当は初めから知っていたはずだ。聞こえていたはずだ。
聞いた事の無い言葉を夢の中で聞く事など出来るものか。
ただ、ただ、エリックお前は、柔く、温かい居場所に微睡み甘える余りに、忘れた振りをしていただけだ。
闇に瞬く光のように村の様子が浮かんでは消えていく。
――それは倒れ込んだ血溜まりの赤。
――逆反りの長大な曲剣と茜色の甲冑。
――うず高く積まれた見知った大人達の死体。それを照らす炎。
――縦に裂けた通い慣れた村の道。
――血煙を上げる幼なじみ達の家。
――中程から上が消え失せた自分の家。
――胸から上の無い父。
――顔に降りかかる血潮と、そして、大好きな母の…………。
拒絶していた理解が脳へ雪崩れ込む。
嗚咽と嘔吐が繰り返され、闇に馴染む。
そうだ、村は焼かれた。斬り裂かれた。
でも、村の人達を、父さんを、母さんを殺す事になった本当の原因は…………。
ああ、ああ、僕は、ぼくは…………。
エリックは震える両の腕をゆっくりと己の首へと伸ばし、
「――っ! ――っ! ――――――――っ!」
突如、闇に亀裂が走った。
亀裂の奥から、誰かの声が響く。
それは、何処かで聞いた覚えのある声。
「――っ! ――っ!」
懐かしくも、心強い、そしてちょっとだけ怖い声。
その声が呼んでいる。誰かを。名前を。
繰り返される度に、その声は強く、深く響く。
闇に走った亀裂が大きくなっていく。
開かれた隙間から銀色の淡い光が溢れた。
そしてそこから、もう一度声が響いた。
「目を醒まさんかっ! 坊主っ!!」
呼び声に、エリックは覚醒する。