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第拾八節(その2)




「水崎……?」

「僕の為に――ありがとうございました」


 そして――識也の左腕が勢い良く引かれた。

 瞬間、音無の首からおびただしい血が噴き出した。血管を深く斬り裂かれ、飛沫は識也の顔半分を赤く染め、瞬く間に音無の足元に血溜まりを作り上げた。


「み……ず、さき……?」


 壊れた機械のようなぎこちない動きで振り返る。彼女の瞳の中には深い絶望が横たわっていた。出血の勢いは収まる事を知らず、音無の体と一ノ瀬 薫の凍った死体が見る見る間に赤く染まっていった。彼女の瞳には、朗らかに笑みを浮かべた識也の姿が映っていた。


「誰にも邪魔されることのない場所で、愛する人とお眠りください」


 彼女の瞳から光が消えていく。彼女の顔から絶望と恐怖が消え、微睡むような穏やかさが次第に広がっていく。口角が緩やかな弧を描き、嬉しそうな笑みが浮かんだ。顔は点を仰ぎ、一ノ瀬 薫の死体を抱いたまま体が傾いでいく。


「――」


 力をほぼ失った喉が微かに震えた。掠れた音が確かに空気を振動させ、だがそれも刹那。柔らかい土の上に倒れた音でかき消されて識也に届くことは無い。

 自らの血の中に沈みながら音無は薫を抱き寄せた。もう薫の感触も何も感じられないが、それでも薫は暖かかった。そんな気がした。


「薫……愛して――」


 そして、音無は一ノ瀬 薫の所へと旅立った。


「……」


 識也はその場に立ち尽くしたまま、静かに音無 望と一ノ瀬 薫の死体を見下ろした。

 やがて溜息と共に識也の口から深い溜息が吐き出される。途方も無い疲労感を覚え、何気なく額に手を当てるとぐっしょりと自身の汗、そして音無の血で濡れていた。

 力の抜けた指先から、音無が持っていたものと全く同じメスが滑り落ちて土の地面に一度真っ直ぐに突き刺さり、倒れた。

 識也は項垂れ、取り出したハンカチで顔の汗と血を拭っていく。そしてもう一度溜息を零しながら音無の死体を見下ろした。

 識也の掘った穴は彼女ら二人を送るための棺だ。真っ赤な血が黒い土に染み込んでいき、その上で並ぶ音無と薫の死体。音無の表情は今際の際に浮かべた穏やかな、何かから解放されたかのような喜びと安堵に満ちた笑みであり、両腕は強く、もう二度と手放さないとばかりに薫を抱きしめている。そして偶然の産物か、或いは神の気まぐれか、凍りついていた薫の両腕もまた音無の体を抱きしめるように柔らかく彼女の背に回されていた。

 決して識也は音無の事を想って殺したわけでない。ただ純粋に自らのエゴで殺した。だが、そんな二人の様子を見ていると何処か救われたような、羨ましいような気持ちになった。


「……これでようやく終わる……」


 落としたメスを拾い、布を巻いてポケットに仕舞う。そして手袋を装着し、音無が落とした方のメスを拾い上げると音無の腰の辺りにそっと落とした。これで音無 望の自殺死体(・・・・)が出来上がりだ。かつて、自分が殺してしまった恋人を儚んで自死を選んだ様に見えるだろう。そうであって欲しい。でなければ、ここまで慎重に事を進めた意味が無いのだから。


「……貴女が未来を選ばなければ、いつかは共通の趣味を持つ友人となれたかもしれませんね」


 そう口に出して、すぐに識也は頭を横に振った。

 識也が音無に対して波長が合うと評したとおり、彼女もまた社会不適合者(サイコパス)だった。識也が愛するように、彼女も真に愛するのは死体。違いは、愛した場所が頭部か肉体かの違いだけだ。それだけに互いを知れば趣味を同じくする無二の親友と成り得たかもしれないが、しかし決して口外できない趣味だけに自分と音無が交じり合う事は無かっただろう。


「たぶん……先生も僕と同じだったんでしょうね」


 ここからは全て識也の推測に過ぎないが、彼女が自分の異常な性癖に気づいたのは恐らく薫を殺害してしまった時だろう。識也が未来を殺されてその大切さに気づいたように、生きた一ノ瀬 薫という存在を失い自らの心の奥に秘めていた欲望を知った。薫の死が偶然の事故なのか、はたまた喧嘩の末に激昂してしまった結果かは分からない。だが後者だろうと識也は思っている。

 それを裏付けるのが殺害された伊藤 しずるの切断された頭部だ。顔には酷い暴行の跡があった。それは肉体の綺麗さに比べて余りにも対照的だ。

 木梨校医の話では、音無――望の両親は彼女に対して厳しかったとの事だった。家でかなり口汚く罵られたりしていたのかもしれない。それに耐えて両親の希望を叶えた望だったが、彼女の心の中でトラウマとなって残ってしまった。

 自分に向かってぶつけられる言葉の刃。それを発している口や思考する脳というのは彼女にとって嫌悪の対象でもあった。上手くいっている時は顕在化しないが、一ノ瀬 薫との間で口論となった時、きっと薫から強く感情をぶつけられ、結果発作的に薫を殺害してしまった。その推測が正しいかは最早知る由も無いが、識也の頭の中ではその時の情景が生々しく展開されていく。

 思わず恋人を殺してしまい、呆然とする望。だがそこで彼女は気づいた。気づいてしまった。


(失ってから気づくものもあるんですね)


 木梨校医に語った彼女の言葉が蘇る。あれは、一ノ瀬 薫を心から愛していたという事と、彼女の死体を生前以上に愛してしまったという事の二つの意味があったのだ。自分を傷つける事の決してない死者が、ただただ自分の求めに応じてくれる物言わぬ女性らしさだけを残した肉体が何よりも大切であったのだ。

 識也は薫の死体を見下ろした。たぶん、望はここまで何度も彼女の抱擁を受けていたのだろう。エンバーミング処理を行い、普段は冷凍保存をしているといっても「劣化」は否めず遺体のあちこちに傷がある。

 それでも薫の肉体は生前の女性らしい――母性を感じさせる体つきを保っていた。忍び込んだ望の自宅にある他の死体も、伊藤 しずるも、そして未来も共通しているのは豊かな胸を持ち、痩せすぎず女性的で柔らかさな肉感を持っていた。

 きっと望は求めていたのだ。優しくて自分を包み込んでくれるような、彼女が理想とした母親的な役割を果たしてくれる肉体を。その役割を担っていたのは薫の肉体だったが、唯一無二のそれは度重なる抱擁に少しずつ傷み、日常的に「愛情」を享受することができなくなった。

 だから望は殺人を繰り返した。彼女の代わりと成り得る女性を求めた。しかし余りにも薫のそれが理想的すぎた。他の女性では代わりにはなれず、束の間の慰めになるばかり。彼女を思うように抱けない切なさは募り、彼女を更に狂わせる。それまでは自制してきた高校の生徒にも探す対象を広げ、やがてしずるや未来に眼をつけた。

 不運だったのは、識也が時を遡ることができてしまったことだ。それさえ無ければきっと未来の肉体は望の元にあり、欲望を満たし続けていたに違いない。


 彼女が捕まることが無かったのは、確たる証拠も残していなかったということもあるだろうが、彼女が女性だったからというのが大きいと識也は思っている。

 被害者は全て女性。それも胸の大きい女性だ。未だ男性社会である警察は真っ先に男を犯人像として浮かべる事だろう。昨今、性的マイノリティーの存在は世の知る所となっているが、一度犯人を男と思い込んでしまえば犯人がレズビアンである可能性には思い至ることは無かったに違いない。それは功祐が未来の葬儀の時に発した言葉からも明らかだ。


「殺した事を謝罪はしませんよ、望さん。けれど、感謝はします。貴女のお陰で俺は自分の気持ちに気づくことができたんですから」


 ずっと自分を傷つけるだけの存在だと思っていた未来。けれども違った。識也には彼女が必要だった。

 彼女の死に顔を見た時に走った衝撃。あの光景は識也の脳裏に焼き付いて決して薄れゆくことはないだろう。メスが入っている方とは逆のポケットに手を入れると、未来にかつて贈ったかんざしが指先に触れた。

 未来を救うため識也は動いた。必死に出来る限りの事をした。今回の行動の計画を寝ずに練り、望への接触を図った。彼女を徹底的に観察し、何食わぬ顔をして会話を交わし行動の癖や好みを把握していった。

 並行して未来のスマホにGPSアプリをインストールし、未来がいつ、何処で殺される(・・・・)のかも知った。彼女が殺される瞬間も目に焼き付けた。狂いそうな、ドス黒い感情を強い意思で塗り潰し、未来が死んだ後も感情を押し殺し、何も知らぬ善良な生徒のフリを続け、望と気安い関係となるまでに親しくなり、そうして彼女のメールアドレスと自宅の場所情報を入手した。

 そして識也は再び自殺した。死の直前に手に持っていた物は一緒に時間を跳躍できる事はかんざしの件から分かっていた。だから学校内で望からキーケースを奪い取り、未来のかんざしを握りしめ、そのまま屋上から飛び降りた。

 四回目の十月七日の朝を迎えた識也は粛々と思い描いた準備を進めていった。

 廃ビルに穴を掘り、必要な道具を買い込む。翌八日――つまり今日には無人の音無邸へ忍び込み、自宅に隠された多くの遺体と彼女の呼び出しに使えそうな写真を撮った。そして彼女のメスと一ノ瀬 薫の遺体、その他諸々を丸一日掛けて回収し、準備を整えた廃ビルへ音無を誘い込み、ここまでの事を成し遂げた。

 これら一連の行動には随分と骨が折れた。識也の全身を強い疲労感が襲っており、この場で眠ってしまいたい衝動さえある。だがそれは出来ない。

 まだ、道は半ばだから。


「……」


 識也は一度眼を閉じた。そして穏やかな表情を浮かべて未来のところへ帰っていく。

 幼馴染の傍でしゃがみこんで拘束を解き、口に貼られていた粘着テープを剥がしてやる。途端、識也の胸に彼女が飛び込んだ。


「しーちゃん!」

「ゴメンな、未来。怖い思いさせて。それと、助けるのが遅くなってゴメン」

「しーちゃん、しーちゃぁぁん!」


 何度も識也の名を連呼し、愛しい人の体を抱きしめ未来はわんわんと鳴き声を上げた。これまで我慢していた恐怖や切望を吐き出すように、幼子みたいに号泣する。

 青年へと成長途中の、昔に比べれば厚くなった胸に強く頭を押し付け、跡が残りそうなくらいに未来は識也の背中に強く強く爪を食い込ませていく。その痛みさえ、今の識也には愛おしくて堪らない。

 識也は未来の柔らかい頬を両手で包み込んだ。指先で撫で、未来に負けじと強く頭部を抱きしめる。

 長い長い二人の抱擁。未来の鳴き声が次第に収まり、嗚咽へ、そしてすすり泣く小さな声へと変化していった。夜の暗闇に溶け込むよう静謐で、それは厳かな儀式の様でもある。

 どれだけそうしていたか。未来の声は完全に消え去り、識也は彼女から体を離した。名残惜しそうな泣き顔で見上げる彼女の姿に識也にも微かに笑みが零れた。


 そして識也はキスをした。


 柔らかく甘い彼女の唇を味わう。愛しい。甘美な悦びが胸に広がっていく。隙間だらけだった心が確かに満たされていく。

 突然の事に未来は驚き大きな眼を見開いた。だがすぐに彼女も多幸感で満たされていく。頬が闇の中でも分かる程に赤らんで、何年も待っていた想い人の感触を味わう。

 長い口付け。やがて重なった影が二つに分かれた。


「未来」

「……なに、しーちゃん?」

「お前のことが好きだ。今回の事で分かった。俺は……お前が居ないとダメなんだ」


 真剣な眼で未来を見つめ想いを口にした。すると一層彼女が愛おしく狂おしく思えた。

 未来は嬉しそうにはにかんで顔を伏せ、識也の首に腕を絡めてまたキスをして想いに応える。


「ありがとう、しーちゃん。嬉しい。たぶん、今まで生きてきた中で一番嬉しいよ。さっきまで怖かったけど、全部吹っ飛んじゃった。こんな事があったのに、きっと今日が一番幸せな日になった」

「そっか……ゴメンな。今まで待たせて」

「ホントだよー! でも、良いんだ。しーちゃんが謝る事なんてないんだよ。私が勝手にしーちゃんの事大好きだっただけだから。

 でもねでもね……やっぱり嬉しい。好きな人と気持ちが通じ合うのって、こんなに幸せなんだね。しーちゃんの事を考えるだけで楽しくて幸せだったけど、全っ然違うの。幸せすぎて、しーちゃんから離れたくない」

「俺もだ。俺もだよ、未来」


 抱き合い、互いの耳元で囁き合う。未来は識也の温もりを感じ、識也は未来の頬や髪を触り味わう。


「これからもずっと俺の傍に居てくれるか、未来?」

「うん! 私はしーちゃんさえ居れば何もいらない。ずっとしーちゃんの傍に居られるなら、それだけで幸せだから」


 ああ、と識也は溜息を漏らした。愛した人が彼女で良かった。心からそう思えた。識也も同じ気持ちだ。未来さえ居れば、他に何も要らない。

 その気持ちを表現するように未来の顔を抱き寄せる。何度目か分からない抱擁を交わし、離れて識也は柔らかく微笑んだ。

 口元が大きく弧を描く。

 それは、夜空に怪しく浮かんだ三日月と同じ形をしていた。




お読み頂きまして、誠にありがとうございました<(_ _)>

次話以降も宜しくお願い致します。

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