二話【夕焼けの町】
ズボン! ぐしゃぐしゃと何かを潰す感触と共に、下から悪臭が湧き上がってくる。生ごみの臭いだ。
「――いや、ほんと。君の運の悪さは、俺が知っている白本の中でも随一だよ」
「誉め言葉はいらないから、さっさと出しなさいよ」
二人は丸いゴミ箱の中に尻を突っ込む形ではまっていた。まずはネグロが這い出して、シャイニーを助ける。体にまとわりつく魚の骨や野菜の皮などを放り落とす。
「うっげぇ……生臭い。こういう時、湯船に浸かれない白本ってのは不便よね。しかもワタシは、人一倍水に弱いし……」
「悪態はその辺にして、表に出ようじゃないか。どうやらここは路地裏のようだ」
二人とゴミ箱があったのは、どうやら表通りに面した路地裏らしい。他には、枯れた植木鉢や子供の遊具、給湯器や古びた洗濯機などが置いてある。換気扇の通気口からは、夕食の支度の香りと、トントンというリズミカルな包丁の音。
両側に立ちふさがる木造住宅が陽の光を遮って暗い。影はくっきりと濃く、強い日の光が降り注いでいることが窺い知れる。
二人は臭いを気にしながら表通りに出た。
「わっ、眩しい!」
「ほう、悪くないな」
二人の視界に映ったのは、血のような夕日に照らされた木造の街並みだった。
表通りには、古びて黒っぽく変色した木造住宅が立ち並んでいた。平屋、もしくは二階建ての住宅しか無いので、空が広く感じられる。空は夕焼けに染まり、町も茜色に染まっている。真夏なのか、日が暮れ始めているにも関わらず気温が高く、舗装されていない土の地面からは熱気が漂う。それが赤い景色と相まって、まるで町全体が燃えているかのような錯覚を覚える。
通りには人々が行き交う。大人たちは垢抜けない洋服を着ており、まだ“洋服のファッション”が確立されていないように感じる。お世辞にもオシャレとは言えないが、彼らはそれを楽しんでいるようにも見える。一方の子供たちは、汗や染みだらけの洋服を着て走り回ったり、親の後ろをアヒルの子のようにくっついて歩いている。シャツもズボンもつぎはぎだらけでよれよれしており、何年も酷使していることが窺える。
道を行く彼らを引き留めるように、道を挟む店舗からは威勢の良い声が響く。「今日は安くしとくよぉーっ!」
「そこの奥さん、今日は魚なんてどうだい!?」
「今流行りの“かれえらいす”買ってちょお!」
「せんべい焼きたてっすよー」
原色の派手な看板を前にして客を呼び込む彼らは夕日にも負けないエネルギーに満ち溢れていた。
気を良くした婦人がお店の前で足を止めたり、鼻を垂らした子供たちが駄菓子屋に駆け込んでいく。誰かの家の前では主婦たちが話に花を咲かせ、首輪の無い野良犬が電柱の根元に小便を引っかける。
「お世辞にも、洗練された町とは言えないわね」夕日の眩しさに目が慣れたシャイニーがようやく口を開く。その言葉にネグロは首を縦に振って応えた。
「ああ。だが、こういう街並みも悪くない。最近はどうにも、俺好みの世界に出会えなかったからな」
「えー。アンタ、こういう町並みが好きなの? 田舎っぺー」
「そう、露骨に顔をしかめるな。この町の人間たちに失礼だろう」
「いいじゃない。こんな明らかに文明レベルの低い人間たちなんて。ネグロ、帰り支度を」
「君は、嫌なところで決断が早いな。そう選り好みせずに、少し見て回ればいいじゃないか。あまり好き嫌いが激しいと、シックザール君に追い抜かれるぞ」
「むっ?」カチンと来た。頭を金槌で軽く小突かれたような気分だ。
「しゃーないわね。この世界の人間たちに、シャイニー=スリーセブン様の美貌を見せつけてやろうかしら」
「そうだな、それがいい。是非そうするべきだ」
どこか腑に落ちないなと思いながら、シャイニーはネグロ製のゴスロリ服を翻して表通りに躍り出た。
「ひやー、ひい町ね! ワタヒ、この町大ふひ!」
彼女は小さな両腕で、町の人たちからもらったお菓子やお土産を抱え込んでいた。さらに口には、湯気を立てる饅頭が咥えられている。
「君のような奴を“現金な奴”って呼ぶんだ。覚えておくといい」
シャイニーの姿は、この町の人間たちの価値観からかけ離れたものだった。無数の雑草が小さく雑多な花を咲かせている中で、唐突に一本の黒いバラが咲いたような。加えて、その隣に身長二メートルに達するほどの、褐色の肌を持つ大男が付き従っているのだから目を引かないはずが無い。
幸いだったのは、彼らが友好的だったということだ。明らかにどこか遠くの国からやってきた二人を目の当たりにして、初めは戸惑いの表情を浮かべていたが、すぐに心の中で受け入れる体制が整ったようだ。これがチャンスだと言わんばかりに、各々自慢の商品を売り込もうとする。お金が無いという旨を伝えると、それなら別の町や国に広めてくれと押し付けてくる。無料で大量の戦利品を獲ることができた。
ごくりと饅頭を飲み下したシャイニーは、満面の笑みを浮かべていた。彼女の結んだ後ろ髪がぴょこぴょこと景気良く揺れる。
「いやー、この町の人間も見る目あるじゃない。聞いてた? みんなして『可愛いね~』とか、『お人形さんみたい』とか!」
「ああ、言っていたな。『ちょっと臭う』とか」
「それはアンタだけよ。ワタシの香しい高貴な香りは、生ごみ程度で薄れないのよ」
「――こりゃ、今は何を言っても無駄だな」ネグロはわざとらしくため息をついた。
次々に駄菓子を口に放り込みつつ、シャイニーは上機嫌で街並みを見た。もうすぐ完全に陽が沈む。この世界に来てからせいぜい三十分ほどなのに、あれほど強かった夕日は建物の陰に隠れ、空は次第に紺に染まっていく。毒々しいまでに赤と紺のグラデーションが激しい。
「おっと、危ない」
道の中央側を歩いていたネグロが、シャイニーの肩を抱いて端による。その直後に、土煙を上げながら錆び付いた車が横を通り過ぎた。ぼすぼすと排気ガスを噴き出しながら、弱々しいライトを光らせて走り去っていく。ちょうど労働者の帰宅時間帯なのか、次第に似たようなオンボロの車の数が増えていく。
そんな車たちを、シャイニーは“お人形さん”らしくない恨めしそうな目で睨んでいた。
「何よ、アレ! 危ないわね! 他の人間たちも、注意とかしないのかしら?」
「仕方ないだろうな」ネグロは麩菓子を咥えながら、嫌な顔一つしていない住民たちを見回す。「ロクに舗装されていない土の道路。ロクに整備されていない車。信号機も横断歩道も無い。交通網が発達していないんだろうな。この町の人間たちにとっては、これが普通なんだ」
「ふーん。まあ、ここの人間たちがそれで満足なら、ワタシは構わないけれど。でも、これじゃ子供たちなんかは危ないんじゃ――ギャアッ!?」
突然横から何かがぶつかってきた。シャイニーは呆気なく転倒し、腕に抱えていた品々を地面にぶちまけた。一瞬で砂まみれになった戦利品を前に涙目になる。
「どうした、カエルのような鳴き声を上げて?」
「見りゃわかるでしょ! コイツが急にぶつかってきたのよ!」
その場で尻もちをついているシャイニーは、キッと自分の傍に立つ少年を睨んだ。薄汚れた白のTシャツに短パンという、わかりやすいほどにこの町の平均的な少年スタイルだ。
「あ……あう……」少年は怯えているのか、その場でへたり込むシャイニーを前に右往左往している。目が泳ぎ、彼女の顔を見ようともしない。何かを探すような必死さが垣間見えた。
「おいおい。あんまり睨んでやるな」ずいと、ネグロが少年の前にしゃがむ。「この女の子のことは気にしなくていい。むしろ、長くなった鼻っ柱をへし折ってくれて感謝している」
「――すっ、すみません!」
少年は早口でそれだけ言うと、すぐに駆け出した。全速力で去っていく少年の背中はあっという間に小さくなって見えなくなった。そこまで見届けて、ネグロはようやく自分の主人の手を取って立ち上がらせる。
「――精一杯優しく話しかけたつもりなんだがな」
「それでもアンタは怖いのよ」お尻の砂を払うと、彼のふくらはぎを思い切り蹴りつける。「ていうか、何よ! さっきのアンタのセリフ! しかも、せっかくの貰い物も砂だらけだし! やっぱりアンタもこんな町も大嫌い!」
「あの、すみませんでした。武志君がご迷惑をお掛けして……」
シャイニーが棒立ちしているネグロを蹴りつけている時、ふいに背後から少女の声が聞こえた。
振り返ると、そこにはおさげの少女がもじもじしながら立っていた。外見は、シャイニーよりも少し若く、十歳弱ほどに見える。自分の顔の前で指を絡ませ、せわしなく動かしている。
「どうしてアナタが謝るの? っていうか、誰?」
「あっ、申し遅れました。私、さち子と言います。武志くんは、その……私のボーイフレンドなんです」
そう言うと、彼女は恥ずかしそうに自分の頬を両手で覆う。指の隙間からは、赤く染まった丸いほっぺが覗いている。
「ふーん。武志君とやらも幸せ者ね。こんな可愛らしい彼女がいて、心配してもらえるなんて」
「そ、そんな! 私なんて、全然可愛くありませんし! そそっかしいし……あっ、そうだった。早くお家に帰らなくちゃ! ご飯が冷めちゃう!」
彼女は振り向いて自宅に帰ろうとしたが、急に動きを止め、二人の傍に近づいた。そして、くんくんと鼻を鳴らし、顔をしかめた。
「あの……失礼ですけれど、ちょっと臭いますよ?」
「やっぱりか。おい、臭いと言われたが、高貴な香りはどこに行った?」
「うっさいわね。あんなの冗談に決まってるじゃない」
「――あの。よろしければ、私のお家に来ませんか? お二人は、外国からいらしたばかりですよね? あまり見かけないお顔ですし。
お家は広くはありませんが、二人くらいなら問題ありません。大したおもてなしはできませんが、お二人がよろしければ。この辺りは宿屋もありませんし」
二人は目を見合わせた。
「それは助かるわ! 今日の宿をどうするか、まだ決まってなかったのよ」
「まさに渡りに船だ。しかし、本当に良いのか? こんな得体の知れない二人を泊めるだなんて」
「はい、大丈夫だと思います。私の家族は賑やかなのが好きですし、『困っている人がいたら、助けてあげなさい』って、もっと小さいころから教わっていますから。遠慮しないでください」
そう言って彼女は小さい胸を張る。まだまだ幼い子供だが、親の教育が行き届いているのか、礼儀正しくしっかりと芯のある女の子だった。
「――それじゃあ、お言葉に甘えようかしら」
「君がそう言うのなら、俺も賛成だ」
二人の言葉を聞いて、さち子はぱっと表情を明るくした。
「それじゃあご案内しますね! 私についてきてください!」
彼女は元気よく、少し大股で先導する。二つの三つ編みが右に左にとフリフリ揺れる。




