一話【シャイニーとネグロ】
人々が行き交う街中を、一人の少女が歩く。彼女が一歩一歩踏み出す度、後ろで結ばれた髪が左右に揺れる。涼し気な目は吊り目がちで、鼻先は高くピンと立っている。それは彼女の性格を表すようだった。ズンズンと、大人の男にも負けない速さで歩を進める。すれ違う人たちと少し肩がぶつかっても、目もくれずまっすぐ歩く。小さな機関車のようだった。
市街地を抜けて住宅街に入る。巨大な蟻たちに蹂躙された街並みも、徐々に回復の兆しを見せている。少なくとも、路頭に迷う者はいない。これほど早く復興がすすんでいるのは、ひとえに平穏を望むこの国の住民たちと、この国を治めるネイサの力に他ならない。
住宅街も外れの方になると、徐々に瓦礫の量が増えていく。全壊、半壊した函が目立ち始める。とても人が住める状態ではなかった。その気になれば、ここの街並みもすぐに元通りにすることができるだろう。しかし、そうなっていないのには理由があった。少女はその理由を考える度、苦い物が口いっぱいに広がる気分になった。
瓦礫だらけの街並みを抜けると、徐々に田畑や芝生、雑木林が目立つ緑の光景が広がり始める。家々もまばらになり、そのほとんどが倒壊してそのままにされていた。奇跡的に無事の函からも、人の気配は感じられない。彼らは例外なく、別の土地に引っ越してしまった。何かに怯えるように。
少女は一軒の函の前に辿り着いた。その函は数本の木々と芝生に囲まれているが、しばらく手入れをされていないのか、雑草が伸び始めていた。函そのものは全くの無傷だが、まるで廃墟や幽霊屋敷のような趣になっている。
その函の前で、少女は重い足取りでぐるぐる回り始める。やがて意を決したのか、玄関の扉の前に立つ。一つ深呼吸するとノックをした。コン、コンと、乾いた音が響く。それを何度か繰り返すが、この函の住民が出てくる気配は無い。
「どうした、シャイニー。シックザール君なら留守だぞ」
「んあっ!?」
ビクッと体を震わせ、青白い顔でシャイニーが振り向く。
そこに立っていたのは、褐色の大男。生きる伝説と称される最強の装者にして、彼女の従者。ネグロだった。ジョギング中だったのか、上半身はタンクトップ一枚で、素肌には汗の玉が浮かんでいる。
「何でアンタがここにいるのよ!?」
「何でって、見ての通りジョギング中だ。この辺りは随分人通りが減ったからな。俺の新しいトレーニングコースに利用している。それで話を戻すが、何をしていたんだ?」
「べ、別に何でもないわよ! 偶然この辺りに寄ったから、アイツの湿気た顔でも見てやろうかと思っただけよ!」
「ふむ? その割には、ここ数日にわたって毎日来ていたようだが? よほどこの辺りに用事が多いのだな。それとも――」
「ヒイッ!?」
青白くなっていた顔がみるみる赤く染まっていく。耳まで真っ赤に染まった頃には、ネグロの腹をポカスカと殴っていた。
「うっさいわね! 誰が、あのアホザールのことなんか! あと一回でもワタシをからかったら、アンタはクビなんだから!」
「あー、わかった。わかりました。だから、そろそろやめてくれ、ご主人様」
シャイニーはネグロに肩車してもらうと、窓からシックザールの函の中を見て回った。
庭同様、部屋の中も散らかっていた。服は脱ぎ散らかされ、食器や寝具は出しっぱなしに。掃除もまともに行っていないのか、ところどころ埃が積もっており、天井や窓には蜘蛛の巣が張っている。シャイニーは無意識に、何度も眉をひそめていた。
「酷いもんね。まるで幽霊屋敷みたい。掃除ぐらいしなさいよ」
「仕方ないかもな。急に、彼の世話をしてくれる者がいなくなったのだから」
「アルメリア、一体どうしたのかしらね?」
ある日シャイニーとネグロが異世界に行こうと混沌の炎に向かうと、炎の中からシックザールが現れた。鉢合わせしたシャイニーは、いつものようにシックザールを罵ったり、憎まれ口を叩いたりした。しかしシックザールは生返事を繰り返すばかりで、何も言い返そうとしなかった。
そして気づいた。彼の傍に、アルメリアがいなかったことに。
「ひょっとして、旅先で死んじゃったのかしら――」
「あり得ることだな。白本が一人で帰って来る時、大抵はそうだ。ただ、装者が死ぬほどのアクシデントが発生したとなれば、白本も無事では済まないことが多いのだが」
「でも、あの時のアイツは無傷だったわよね」
「そうだな。何にせよデリケートなことだ、あまり本人に訊くべきことではない。いいな? わかったな? 理解しているな、シャイニー?」
「言われなくても、それくらいの気遣いはできるわよ。相手があのアホザールとはいえ――というか、主人に対して失礼だろうが!」
股に挟んでいるネグロの頭を平手打ちする。パチンと良い音が響いた。
「それで、本当にどうでもいいんだけれど、肝心のアイツはどこに行ったの?」
「どうでもいいのなら、そっとしておけ」そう言うので、シャイニーはネグロのこめかみを指の関節を立ててぐりぐり押す。「――ヴルムの村だ」
「えっ、うっそ! マジ!?」
「ああ、マジだ。実は一度彼を尾行したことがあるんだが、間違いない。特に、マリキタと呼ばれるヴルムの元に足しげく通っているらしい」
その言葉を聞いて、シャイニーは耳を疑った。彼がヴルム嫌いだということを知っていたからだ。
本の虫ことヴルムは、本に成る使命を捨てた白本のことだ。本に成ることを最優先するシックザールとは相容れない存在と言える。むしろ、ほぼ全ての白本がヴルムを嫌っていた。
加えて、現在はヴルムたちにとって非常に生き辛い世の中になっていた。先日の巨大蟻襲撃を行ったリーダー“女王蟻”がヴルムだったからだ。元々嫌われ者だった彼らの立場はさらに悪くなった。白本や装者が憂さ晴らしのために暴力や盗みを働く者もいた。さらに一度は、この国で最も重い罪の一つである放火まで発生した。
ビブリアの歴史の中でも、今ほどヴルムたちとの関係が悪化したことは無いと若いシャイニーでも確信していた。まるで、この国が東と西とで真っ二つに分かれた錯覚を覚える。目に見えない、しかし分厚い壁が確かに存在している。
「このタイミングでヴルムの村に行くなんて、アイツ、とうとうやけくそになったのかしら」
「かもしれんな。この国を守ったと思ったら、怪物扱い。そして事情は知らんが、従者まで失った。正常な精神状態ではいられまい」
ネグロが西の方角に体を向けたので、肩車されているシャイニーもそちらを向く形になる。肉眼では確認できないが、その先にはヴルムの村とシックザールがいるはずだ。
「さて、どうする?」
「どうするって、何がよ?」
「シックザール君に会いに来たんだろう? ヴルムの村に行けば会えるだろう。万が一村人全員が襲い掛かってきたとしても、君を守れる自信はあるが?」
「だから、アイツのことなんてどうでもいいって言ってるでしょ……」シャイニーは一度ため息をつく。西の方角から乾いた風が吹いてくる。「ワタシは、ビブリア初の電子タイプの白本。その先駆者として、立派な本に成ることを目指すだけよ」
「それを聞いて安心した。じゃあ――」
「ええ、待たせたわね。ジョギングはしばらくお預けよ」首を右に回す。北の方角には、天に伸びる白い炎が燃え盛っている。「明日出発よ。準備しておきなさい」
翌日、シャイニーとネグロは混沌の炎に続く道を歩いていた。舗装された道を挟むように枝葉を伸ばした木々が空を覆い隠す。ビブリア初となる降雨を受けた植物たちは急速に成長し、剪定の得意な者たちが連日汗を流している。
「もしも、俺がいなくなったらどうする?」
「何よ、藪から棒に」
「いや、深い理由は無いのだが。アルメリアがいなくなったからかな、少し気になっただけだ」
「ふーん」シャイニーは腕を組み、うんうん唸りだす。「別に、どうもしないわよ。アンタの代わりに、別の装者と組む。それだけよ」
「そうかい。それは寂しいな。寂しくて死んでしまいそうだ」
「そんな図体で、ウサギみたいな可愛いこと言わないでよ!」
「そうか……」どれほど深刻に捉えたのか、ネグロの声が沈む。「俺はこう見えても、君のことを結構気に入っているんだがね」
「んなっ!?」思わずネグロの顔を見上げる。今の言葉が、彼の口から出たとは到底信じられなかった。「何よアンタ! ロリコン!?」
「ほう。自分からロリと認めるか。なんだかんだ言って、まだまだ子供だと自覚しているんだな」
「話をはぐらかすな! あと、ロリ言うな!」
フリルとリボンに装飾された黒いスカートを翻し、シャイニーの蹴りが飛ぶ。それを何度も尻に受けながら、ネグロは肩をすくめて歩いていた。時折すれ違う人たちに好奇の目を向けられるが、慣れたものだった。
互いに憎まれ口を叩きながら、ようやく混沌の炎に着いた。白い炎の中に白い石橋が続いている。もはや見慣れた光景だった。
「む、ちょっと待て」
じっとしていろと言って、隣に立つネグロが背後に回る。シャイニーの髪を結んでいたリボンをほどくと、彼女の豊かな銀髪がふわりと広がる。
「栞が緩んでいたぞ。君らしくない」
「ああ、そう? それじゃ直しといて」
髪の毛を通して、ネグロの手の動きが伝わってくる。彼女の倍以上の大きさを誇る岩のような手だが、細かい作業も難なくこなす。
この日は金色の栞を結んでいた。姿見の前で栞を結んでいた時、不意に、あの憎たらしいライバルの顔が思い浮かんだ。きっと、その栞の色が、彼の髪の色に似ていたせいだ。この国で金色の髪を持つのは、ネイサとシックザールだけだから。
「よし、終わったぞ」最後にきゅっとリボンが結ばれる。自分の手で探ってみると、栞はちょっとやそっとのことではほどけないように結ばれていた。ベテラン装者らしい見事な手際だ。
「思えば、不思議なものよね。こんなちっぽけな道具一つで、世界を渡ることができるんだから」
「俺も、理屈は知らん。ネイサ様の御力としか言えないな」
そういう意味で言ったんじゃないんだけどねと、心の中でつぶやいた。栞一つで、白本と装者が簡単に、永遠の別れを迎えることもある。その寂しさや恐怖を感じていた。シックザールとアルメリアの別れが、そんなことを考えさせたのかもしれない。
「安心しろ」従者の大きな手が、主人の背を叩く。「俺は途中でいなくなったりしない。君が本に成るのを、最後まで見守る」
まるで心を読んだかのような発言に面食らった。
「――そんなの、当たり前でしょ。あと、背中が痛いっての」
ネグロの耳たぶを指でつまみ、そのまま引きずるように炎の中に飛び込んだ。




