八話【しがみつけ!】
キミコは、その小さな体に朝の光を全身に受けて、断崖から飛び降りた。
崖を駆け上がった上昇気流が、彼女の巫女装束にぶつかり、ぶわりと大きくはためく。キミコは一瞬が、自分が鳥になって空を飛ぶような感覚に襲われた。しかし現実は空しく、彼女は重力に引かれて落下を始めた。
聖山の断崖。それは、まるで巨大な包丁で真っ二つにされたかのように平らになっていた。落下する途中でどこかに引っかかったり、突き出した岩に激突することもない。ただ、真っ逆さまに落ちていくだけだ。
キミコは頭から地面に急降下していた。流れ落ちていく岩壁の景色を、ただぼんやりと眺めていた。覚悟を決めたとはいえ、これから叩きつけられる地面を見るのが怖かった。それにもし、地面に過去の巫女たちの骨や血の跡でも残っていたら、恐怖に支配されたままこの世を去ってしまうかもしれない。それならばいっそ、何も気づかないまま死にたかった。
体を風が包む。それは本当に風なのか。過去の巫女たちが、もしくは神様や天女が、自分を別の世界に招こうと手を伸ばしているのではないか。何本もの手が地面から伸び、自分を手繰り寄せているのではないか。
キミコは目を閉じた。そのままでは、あるはずのない手が本当に見えてしまうと思ったから。
目を閉じると、自分が吸い込まれていくような感覚と、ゴウゴウという風の音しか感じられなくなった。
「ああ……なんだか、落ち着いてきちゃった」
彼女の命はまだそこにあったが、その意識は薄らいでいた。別の世界へ旅立つ準備をするかのように。
「ちょっと待ったーーーーッ!」
その意識を、少年の声が引き戻した。驚き、キミコは目を開ける。
すぐ目の前。そこには、謎の旅人の少年と、その従者の少女がいた。少女は少年を背負い、岩壁をキミコと並行するように駆け下りていた。
「シ……シックザールさん!? アルメリアさん!?」
「キミコ殿、今はしゃべらないでください。舌を噛みますよ」
真っ逆さまに走るアルメリアは、軽く跳んで左腕でキミコを抱きかかえた。彼女の赤毛が朝日を浴びて、何倍もの輝きを放っていた。
「間に合ってよかったです。振り落とされないよう、わたしの背中に回って、しっかりしがみついてください」
その背中を見ると、シックザールが手招きしていた。何が何だかわからなかったが、彼の誘導に誘われ、アルメリアの背中に回り込んでしまった。彼女の体はキミコより一回り大きく、まるで子猫二匹が母猫に甘えるような構図になった。
「シ、シックザールさ……」
「おっと、話は後です。今は、振り落とされないことだけ考えてください」そう言って、彼は人差し指を口に当てた。
しかし、このままでは三人とも地面に激突だ。いったい、これからどうしようというのか?
キミコがそんなことを考えていると、アルメリアは右手に力を込めた。よく見ると、その手の中からは何本もの光る糸が生えていた。その糸は、岩壁にわずかに生えていた雑草に結び付けられている。彼女がその糸を手繰り寄せると、雑草は呆気なく抜け落ちた。しかしその反動で、三人は少しだけ岩壁に接近した。手を伸ばせば、簡単に届くほどの距離だ。
「本当は、装者の糸はこんなことに使うのではないのですが……」
「いいじゃないいいじゃない。『馬鹿と鋏は使いよう』ってね。大事なのは使い方だよ」
アルメリアは背中を振り返ると、キミコに言葉をかけた。
「少し衝撃があります。遠慮せずに、全力でしがみついてください」
そう告げると、アルメリアは左腕を撫でる。刺青の短剣が実体を持って、彼女の手に握られる。剣の柄にちりばめられた短剣が煌く。
その短剣を両手でつかむと、思い切り岩壁に突き刺した。ガリガリと岩肌を引っ掻きながら、聖山に一筋の傷が作られていく。
「わたしは、今ほどエーデルシュタインの切れ味の良さを悔やんだことはありません」
「いつも大切に研いでるしね。それより、刃が折れたりしない?」
「……きっと、大丈夫です」
「きっとかぁ……」
落下中だというのに、呑気に会話する二人。元々死ぬ覚悟のできていたキミコは、「最悪の場合は、私が盾になって……」と考え始めていた。
しかし、事態は好転した。明らかに三人の落下スピードは低下していた。さらにアルメリアは靴の裏を岩壁にひっかけ、ブレーキをかけていく。
ガガガガガガガガガガガガガガガガ――!
ザザザザザザザザザザザザザザザザ――!
短剣の刃と靴の裏が岩を引っ掻く。キミコの手が痺れ始めるが、ここまできたのならと、振り落とされないように腕全体でしがみついた。アルメリアの腹部は普通の女性のように細かったが、がっちりとした筋肉が芯となって、彼女の力を受け止めた。
「シックザール様! キミコ殿! もうすぐ着地です、衝撃に備えてください!」
アルメリアの檄が飛ぶ。二人はぎゅっと目を閉じ、最後の力を振り絞った。
――ストン。
思いのほか軽い衝撃。恐る恐るキミコが下を見ると、岸壁にしがみついていたアルメリアのお尻がちょうど地面についたところで、落下の勢いがゼロになったようだ。
キミコはついに力尽き、地面に倒れこんだ。その隣に、同じようにシックザールが倒れこむ。二人は乾いた地面に寝ころびながら顔を見合わせた。
「結構面白かったでしょ?」
ニッと笑う少年に、彼女は言ってやった。
「本当、死ぬかと思ったわ」
「死ぬつもりだったくせに」
服の砂を払うと、キミコは自分を助けに来た二人の顔を見た。アルメリアは相変わらずの仏頂面だったが、シックザールの方は先ほどの笑顔はどこへやら、一目でわかるほどむくれていた。
「え、ええと……」
キミコはその場でオロオロし始めた。
言いたいことはたくさんあった。「どうしてこんなところに?」「どうして儀式の邪魔を?」「どうして、私を助けたの?」しかしその言葉を口にできないほど、目の前の少年は不機嫌を露わにしていた。
「えっ……と。どうして」
「どうして嘘なんてついたんですか!?」
シックザールは彼女に詰め寄り、その細い両肩をつかんだ。力こそ弱いが、その指は怒りで震えていた。
「う、嘘って? 昨日連れ去られたときに、悪魔の遣いじゃないって伝えなかったこと?」
「そんなのはどうでもいいんです! いざとなったら、アルメリアがどうにでもしますから」
「じゃ、じゃあ、何のことでしょうか? 私は嘘なんて何も言っていませんよ?」
シックザールはわざとらしく大きなため息を吐くと、腕を組み、彼女を上目遣いに睨みつけながら口を開いた。
「本当はこの国に、天女なんていないんですよね? いや、それだけじゃない。そもそも儀式を行ったところで、滅多に雨なんて降らないらしいですね?
アルメリアから聞きましたよ。昔は天女を見た人がいたものの、ここ十年以上は儀式が意味を成しておらず、ほとんど形骸化しているって。ボクがあの家で目覚める前に、アルメリアにそう話していたらしいじゃないですか!」
キミコは、ただポカンと口を開けたままその言葉を聞いていた。
正直に言うと、彼女はそんな話をしていなかった。シックザールが目覚める前にはアルメリアとろくに会話もしていない。天女を見た人は今も昔も存在しないし、雨は儀式の翌日までには必ず降っている。
要は、今彼が口にしたその話は、全くのデタラメだったのだ。
助けを求める様に、キミコはアルメリアに視線で助けを求める。しかし彼女は仏頂面のまま、一度ウインクしただけだった。
「それで、ボクらは話し合って決めたんです。このままキミコさんを死なせるのには、何の意味もない。それよりも、嘘をついた“償い”をしてもらおうと」
償い? その言葉に一瞬怯えたキミコだったが、すぐに気を取り直した。本来、自分はとっくに死んでいる存在だ。それを不本意とはいえ助けられたのだから、彼らの言うことを聞く義務があると感じた。
「……よくわかりませんけれど、わかりました。こんな私に、一体何を望まれるのですか?」
その言葉を待っていたのか、シックザールはニヤリと笑った。
「天女がいないのなら、作ればいいんです。キミコさん。あなたには、これから天女になっていただきます」