七話【最期の景色】
聖山の裏側、切り立った崖の反対側は、多少斜度はキツいが軽装でも登れるような斜面になっていた。当初は表側の険しさに圧倒されていた二人だったが、登ってみると、それほど高い山ではないことが分かった。儀式は日の出と共に行われるとのことだが、これなら老人や子供でも間に合うだろう。
一応は植物が生い茂ってはいるが、そのいずれもが干からび、葉は黄色く変色している。しかしユウタが言うには、雨が降ればすぐに元気に回復するらしい。麓の針葉樹林もそうだが、永い年月を経て独自の進化を遂げてきたのだろう。
ちょっとした観光気分に浸り始めたシックザールとアルメリアの二人だったが、その目の前で、ユウタが近くの岩場に隠れた。二人もその後に続く。
「やったぜ、姐ちゃんたち。ギリギリ追いついたよ」
アルメリアを優先したその言い方に少しムッとしながら、彼が指さす方向を身を隠しながら確認した。頭の上から、アルメリアも顔を出す。
「なるほど、あれが」
「そのようですね」
視線の先では、十数人の大人と、一台の牛車が頂上を目指していた。屋形には、地味ではあるが細かい装飾が彫られている。おそらく、その中にキミコがいるのだろう。その牛車を取り囲むように槍を持った男たちが目を光らせ、先頭では松明を持った男二人が先導している。
「さすがに厳重ですね。護衛の男たちも、満足に食べていないはずなのに足取りは力強いです。よほどの使命感に突き動かされているのか、あと少しの辛抱なのだと自分を奮い立たせているのか、何にしても簡単には行きそうにないですよ」
冷静な分析に、ユウタは歯ぎしりをする。確かに、これは普通の人間では、力づくでの突破は難しいだろう。普通の人間なら。
「アルメリア。一応訊くけど、あの護衛を全員倒すことはできる?」
「正直に言いますと、不可能ではありません。しかし、手加減する余裕までは無いでしょう。まともに戦えば、何人かの死人は出てしまうかもしれません」
その言葉を聞いて、ユウタは「ヒッ」としゃっくりのような悲鳴を上げた。
「だっ、ダメダメ! そんな荒っぽい方法、オレは認めないよ!」
あまりの大声に、急いで彼の口を手でふさぐ。キミコの一行に気が付かれないことを祈りつつ、三人は息をひそめた。幸い、気が付かれてはいないようだった。足音は聞こえてこない。
手をどかすと、ユウタはぷはっと大きく息を吐く。
「バカッ! 気が付かれたらどうするんですか!」
「ご、ごめんって……。でもさ、とにかくそういう荒っぽい方法はやめてほしいんだ……」
「しかし、生贄の巫女を助けるという時点で、多少の犠牲は仕方ないと分かっているのでしょう? どうして今になって、ためらわれるのですか?」
すると彼は、途端にばつの悪そうな顔になった。何か言いにくい事情があるのは明らかだったが、黙ったままではキミコの奪還作戦に支障があるというのは彼にも分かったのか、重い口を開いた。
「あんまり言いたくなかったんだけどさ……あの護衛の中には、オレの父ちゃんがいるんだ。『キミコと父親だけ助けてもらおうなんて、自分勝手だろ!』って思ってるだろ? 虫のいい話だっていうのはわかってるけどさ、本当に、お願いします!」
体を二つ折りにしそうな勢いで思い切り頭を下げた。
「まあまあ、今更遠慮なんてしないでください。ちなみに、君のお父さんというのはどの方ですか?」
「ああ、それは……」遠慮がちに指をさす。その指の先を視線で追いかけていく。
「ええ~、よりにもよって……」
「あの方でしたか……」
それは、二人を捕まえた張本人であり、二人の見張りを叱りつけていた、あの凛々しい男だった。確かに、ユウタほどの年頃の子供がいてもおかしくない年齢には見えた。しかしその厳しい顔つきから、所帯を持つというイメージが吹き飛ばされていた。
「あれ? 二人とも、父ちゃんのこと知ってんの?」
「まあ……」「ちょっと訳ありでして……」
「?」
ますます見つかるわけにはいかなくなった。誰よりも、シックザールたちが悪魔の遣いだと信じている男だ。見つかった瞬間に襲われる危険がある。そのうえ、隣には彼の息子がいる。場合によっては、背後から襲われかねない。
「シックザール様。あらかじめ申し上げておきたいのですが、ユウタ殿を人質に取るというのは――」
「わかってるよ、やらないよ! だから、そんな目で見るなよ!」
「ひとじち……? なんだ、それ?」
「君は気にしなくていーの!」
小さい声で騒ぎあってる三人を残して、一行は距離を離していた。見失わないようにと、再び身を隠しながら後をつけていく。
「あっ、そっちじゃないよ」
「えっ? こっちにも道が続いていますよ?」
「頂上に続く道は一本だけだよ。間違った道を進むと、崖の方にしか進めないんだ。知らずに歩いていったら、崖から真っ逆さまだからな」
「なるほどねぇ」
登っていくうちに、そのようなやり取りが数度発生した。あの針葉樹林も装だったが、山中もちょっとした迷路になっているらしい。迷ったら元の道に戻ればいいだけだが、その時間が今は惜しい。
「とにかく、オレを信用してついてきて」
「はいはい、了解です」
シックザールは崖に続く道をもう一度見ると、ユウタの背中を追った。
深夜の山登りは、三人の体力を容赦なく奪っていった。先頭を行くユウタは、何度も足を引っかけて転びそうになっていた。シックザールはとうとう体力が尽き、アルメリアに抱っこされていた。唯一彼女だけは余裕があり、少し体に汗が浮かんでいるだけだった。
「姐ちゃん、すごい体力だな……それに比べて、お前はなんなんだよ! 女に抱っこされて、恥ずかしくないのか!?」
「アルメリアは、女である以前にボクの従者なんです。何も恥ずかしいことはありませんよ。それより、ほら。どうやらゴールみたいですよ」
「なにっ!?」
黙々と登山しているうちに、キミコたち一行と三人は山頂に辿り着いていた。山頂はちょっとした踊り場のようになっており、家の一軒程度なら問題なく建てられそうなスペースがある。シックザールたちから見て奥の方、断崖のすぐ手前には、岩で作られた祭壇があった。祭壇といっても、長方形の大きな岩を組み合わせただけの、シンプルな舞台のような物だ。
「いくら手入れしにくい場所にあるからって、儀式の祭壇としてはちょっと質素すぎやしませんかね? ここからどうするんです?」
「オレに言うなよ。ここまで登ったことはあるけど、儀式は見たことなんて無いんだからさ」
山頂の手前には、まるで門のように大きな岩が二つ鎮座していた。三人はそこに隠れて様子を見ていた。
一行は休憩して息を整えた後、儀式の準備に入った。各々持っていた荷物を下ろすと、その中から金属製の道具をいくつも取り出した。それを手際よく組み立てていく。どうやらそれらは、この儀式に使用される祭具のようだ。祭壇を飾り付ける様に、それらを左右対称に設置していく。少し離れたところから、一人の男が指示を飛ばしていた。ユウタの父親だ。
「父ちゃん、カッコいいなぁ。自分より年上の大人たちに指示出してるよ」
「コラコラ。今はそんなことに感服している場合じゃないんでしょう?」
「おっとっと、そうだった……あっ、村長だ!」
牛車の陰から、一人のおじいさんが現れた。他の誰よりも歳を取っているのは明らかだが、きれいに刈り揃えられた頭髪と髭は品格がある。皺や染みは目立つが、肌の張りは遠くからでもわかる。村の長だけに、渇水に襲われても最低限以上の生活水準は保っているのかもしれない。
村長は屋形の横に立つと、静かにその扉を開けた。そしてその皺だらけの手に引かれて、一人の少女が姿を見せた
「キミコ……ちゃん……」
ユウタの口から声が漏れた。
彼女は、地面に裾が付きそうなほど長いワンピースのような装束を身にまとっていた。頭には花の冠をかぶっており、その下の少女の顔には化粧が施されている。まるで生気が感じられないように顔は白く塗られ、対照的に赤い口紅が主張している。未だ日は昇らず、闇は深い。それでも、彼女の薄い唇はそこにはっきり見て取れた。
「へえー。まるでお人形さんだね」
「ええ、お綺麗ですね」
「ああ、まったくだよ……って、見とれてる場合じゃないぞ、お前ら!」
「それはボクらのセリフなんですけどねぇ」
長老とキミコは何かを話し合い、時折彼女はこくこくとうなずく。おそらく、儀式の進行の最終確認をしているのだろ。話が進むにつれて、彼女の顔は決意に満ち、凛々しく研ぎ澄まされていく。
そして同時に、ユウタの顔はだらしなくなっていった。
「……本当に、やる気あるんですか?」
「……ハッ! う、うるせぇな! 今作戦を考えているんだよ!」
三人が山頂にたどり着くまでの数時間、結局キミコを助ける案は何一つ出なかった。ユウタはその案が浮かばなかったから二人に助けを求めたわけなので、今更良い案が浮かぶ確率は非常に小さい。シックザールに至っては、そもそも彼女を助けるつもりは毛頭なかった。隣でユウタがうんうん唸って頭を働かせている間も、「早く始まらないかな」とずっと考えていた。
それでは、アルメリアはどうなのか?
「シックザール様、少しよろしいでしょうか。大事なお話があります」
いつの間にか彼女は少し離れた茂みに身を隠しており、シックザールにちょいちょいと手招きしていた。
「どうしたの? トイレ? 悪いけど、ボクの紙はあげられないよ」
「冗談はいいので、こちらに来てください」
渋々といった感じで彼が歩き出すと、ユウタもその後についていこうとしたが、それを彼女は目で制した。その結果、大岩のそばにはユウタが一人、茂みにはシックザールとアルメリアの二人という位置関係になった。
「それで、どういう話なんだ? もうすぐ儀式が始まりそうなんだから、手短に済ませてよ」
「その、儀式について問題があるのです」
「……なんだって?」彼女の顔をにらみつける。「手短にっていうのは、無しだ。詳しく話してよ」
「ええ、かしこまりました。実は、シックザール様が彼女のお家でお目覚めになられる、少し前の話なのですが……」
(ああ……これが、私が最後にゆっくり見られる景色なのですね)
キミコは、祭壇の上で正座していた。体は断崖の方に向けられている。その正面、地平線の先では一足先に夜が明けている。蒼い天蓋の端を、橙の光が淡く照らしている。
もうすぐ、そこから眩い太陽が姿を見せる。そしてその時が、キミコが神に捧げられる時なのだ。
彼女の後ろでは、長老が神に捧げる言葉を述べている。長々と言葉を紡いでいるが、要約すれば「この娘を捧げるので、雨を降らしてほしい」という内容だった。ほんの数秒で言い終えられる内容を、長老は何分にもわたってしゃべり続けていた。彼女は、その言葉をぼんやりと聞いていた。まるで水の中から、人々の喧騒を聞くかのように。
彼女は、自分の人生を清算していた。記憶を映像に起こし、その映像に色と音を付け加えて、頭の中で再生していた。
彼女の最も古い記憶は、自宅の庭で、一人で毬遊びをするというものだった。両親は忙しく、彼女は一人で遊んでいるか、もしくは仕事を手伝うという記憶ばかりだった。大人からは頼りにされていたが、友達は少なかった。彼女に積極的に声をかける子供は、頭の悪そうな少年一人だけだった。
彼女はわかっていた。自分が、村の中では変わり者だったということを。だから、巫女に選ばれたのだ。同じ年齢の女の子は他にもいたが、彼女たちは友達も多く、皆社交的だった。
有り体に言えば、キミコは一五歳の女の子の中で、最も嫌われていた。多忙な彼女の両親は次第に娘への愛情も薄れていた。儀式には家族が立ち会うことも許されているが、親族は誰も来ていなかった。
本来なら、その小さな胸に恨みを抱いても仕方がない。しかし、彼女に優しくしてくれる人は少なからず存在し、彼女もまた、その人たちのためにできることをしたいと考えていた。
結局彼女は、生贄になる以外選択肢は無かったのだ。
(わかりきっていたことなのに、なんであんなこと言っちゃったんだろう。生贄にならない方法なんて、無茶なこと言っちゃったなぁ……。悪いこと、言っちゃったよね……)
(そういえば、ユウタ君にお別れ言ってなかったなぁ。あの子、悲しんじゃうよね……やだ、私ったら、ここまできて未練ばかりじゃない……)
周りに聞こえないほど小さい声で、彼女はフフッと笑った。
その微笑みを見届け、地平線から朝日が顔を見せた。太陽を正面に見据える彼女の白い顔に、朝日が差し込む。彼女は瞬きもせず、ただ「眩しいなぁ」と呟いていた。
「さあ、キミコ様……」
長老の声と、地面に跪く音。それに続いて、護衛の男たちが一斉に跪く音が耳に届く。それが合図なのだ。
彼女は立ち上がり、祭壇の端へと歩む。彼女の頬を、乾いた風が撫でていく。その風を少しでも湿らせるために、彼女は自分の命を捧げる。
両足のつま先は、すでに宙に浮いている。少し体重を前に掛けるだけで、彼女の命は神の元へと飛んでいく。
ふと、声が聞こえたような気がした。女の子の声。それも一人や二人ではない。何十人という女の子たちの声が、足元から風に乗って届いた。キミコは、その声が歴代の巫女たちの声だと悟った。
「私も、今から向かいます……」
風にはためく純白の巫女装束。聖山の山頂から、一人の少女が身を投げた。
そして、男たちは見たのだ。
降りしきる雨の中に佇む、一人の天女の姿を。