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100万頁のシックザール=ミリオン  作者: 望月 幸
第六章【ビブリア強襲】
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四話【侵食する衝動】

「よっと」

 シックザールはくいと力を軽く入れると、自分よりも大きいアルメリアの体を軽々と立たせた。彼女は自分の腕をつかむ黒い腕をまじまじと見つめている。恐る恐る触ろうとして、その手を引っ込めた。

「あの……この黒い腕は、一体?」

「ああ、アルメリアは見るのは初めてだったかな。そっか、あの時は確か気絶してたんだっけ」

 シックザールは、あの時のことをかいつまんで説明した。

 彼が闘技者として闘わされた国のことだ。対戦相手のリュナは、アルメリアの短剣エーデルシュタインを真っ二つに折った。どういうわけか、彼女はそのことに酷く動揺し、その場で気絶してしまったのだ。その後アルメリアの血を浴びたシックザールの体から黒いページが噴出し、巨大な黒い腕になってリュナを打ち負かしたのだ。

「――そのようなことが」

 アルメリアは目を見張っている。無理もない。これまでのビブリアの歴史の中で、そのような力を見せた白本などいないはずだ。これがどれほど異常なことなのかは、彼女の表情が雄弁に物語っていた。

「異常……か」リュナにも同じことを言われたなと思い出して、苦笑いした。

「でも、安心していいよ。あの時はボクも何が何だかわからなくて、実ははっきり覚えていないんだ。だけど、今は自分の意識もしっかりしている。それに何より」

 両の黒いこぶしを握り締める。

「力が湧いてくるんだ」

 一歩踏み出す。降りかかる雨を、再び巨大化した左腕が傘になる形で遮る。

 目の前には、巨大蟻が二匹。屋根の上にはさらに二匹。そして壁際に追いつめられた装者三人と白本五人。

 ほんの一瞬、シックザールの口の端が横いっぱいに引っ張られた。それはきっと、自分の力を全力で振るうことができる舞台に登場した時の、喜びの表情だった。


「みんな、伏せろォっ!」


 普段の何倍もの声量で叫ぶ。その場にいた全員の肌がピリピリと震えた。

 装者達は唖然とした表情を見せながらも、反射的に白本と共に体を伏せた。しかし蟻たちは、何事かとシックザールの方に振り返るだけだった。

 その二匹の蟻を、巨大な右腕が捕らえた。手のひらの中に蟻を押し込めると、そのまま映画館の壁に叩きつけた。ギチィという、悲鳴のような音と共に蟻たちは潰れ、周辺に蟻の体液が飛び散った。

「ほら。残り二匹だよ」

 右手の中で、蟻たちの体は四分の一ほどに圧縮されていた。まるで黒い鉄屑のように固められており、もはや蟻の原型は留めていない。

 二つの蟻の塊を握ったまま、黒い腕は天井の穴を通り越して拳を突き上げた。天井に貼り付いていた蟻たちは突如現れた巨大な腕に驚いている様子だった。


 ブォンッ――ブンッ――!


 腕は鞭のように大きくしなると、握っていた蟻の塊を放り投げた。二つの弾丸になったそれは、同族の体を呆気なく押しつぶした。

 シックザールが伏せろと叫んでから、僅か十秒程度の出来事だった。


 脅威は去った。少なくとも、その場に敵はいなくなっていた。

 しかし、その場にいた誰も喜んではいなかった。ただ茫然と、唐突に現れた救世主を遠巻きに見つめているだけだった。

「ハア……ハア……」

 瞬く間に五体の巨大蟻を倒したシックザールは、呼吸を荒げていた。黒い両腕は再び元の大きさに戻ったが、その腕を形成するページの一部がその場に剥がれ落ちていた。そして一瞬にして何百年という年月が経ったかのように、寸刻を置かず風化して塵になった。

「まだ、間に合うよな……」

 弱々しい足取りで、彼は倒れている一人の装者の傍に歩み寄った。蟻の毒液を全身に浴びてしまった、あの銃使いの装者だ。

「リヴァ……」

「シックザール様! それは……」

 再びアルメリアは、シックザールが再上映リヴァイヴを使おうとするのを妨げようとした。どうしてこのような場面で能力を使うことを禁じるのか、彼には全く理解できなかった。

「何だよ、ボクのやることに逆らうのか? この人は、すぐに手当てしないと危ないんだぞ」

「シックザール様の言い分はごもっともです。しかし、これは――」

「これは?」

「ネイサ様からのご命令なのです!」

 姫様の?

 唐突に出てきた人物の名前に、少なからず心を乱した。しかしそれは一瞬のことで、ふっと鼻を鳴らした。自分の胸が、冷たく凍るような感触がした。

「悪いけれど、今は、姫様がどうとか考えたくないんだ」

「いけませ――」

「リヴァイヴ!」

 彼女の声を払いのけるように、自分の能力を告げた。

 自分の体験した物語を消費する代わりに、一時的にそれを再現する能力。今再現したのは、人間が使用していた薬だ。人間ではないシックザールには無用の長物だったが、その効き目には目を見張るものがあったことを覚えている。

 掲げる両手の上に、突如薬壺が現れた。周囲の者たちの口からは驚きの声が漏れていた。

 そんなことは意に介さず、薬壺の中に手を入れた。中にはとろりとした濃い緑色の液体が詰まっており、それを掬い取って、装者の体に塗り始めた。痛むのか、薬が肌に触れる度に苦痛に顔を歪めたが、それは彼が生きている証でもあった。

 痛みに苦しむ装者の体に薬を塗り終えたころには、薬壺の中身は空になっていた。早くも毒による苦しみが治まってきたのか、男はこちらを向くと、少々キザな笑みを浮かべた。

「あ……りがと、よ……」

 男の白い歯の隙間から、そんな感謝の声が絞り出された。その囁くような声に、シックザールは笑顔を返した。


「ねえ、アルメリア」

「……は、はい。何でしょうか?」

「この人たちをよろしく頼むよ。ボクは、他の人たちを助けに行かなくちゃ」

 その発言に驚いたのは、アルメリアだけではなかった。シックザール自身もだった。

 あれ、おかしいな。ボクって、こんなことを言う性格だったっけ?

「しかし、危険です。外には、こんな蟻たちがまだいるかもしれません」

「いるだろうね。だから、他の人たちを助けに行くんだ。見ての通り、装者でも苦戦するような相手だからね」

「そうです。装者でも苦戦するような相手です。だからこそ、シックザール様が戦いに行くだなんて、そんな無茶は……」

「お前も見てただろ? 今のボクは、装者より強いんだ。たぶん、アルメリアよりも強いよ。

 それに、聞こえないかな? さっきから耳が痛いんだ。聞こえてくるんだよ。みんなが助けを求める声が。悲痛で、苦しくて、恐怖に怯えて。ボクの頭に、心に響いて来て、ボクまで痛いんだよ」

「しかし……」

「ああもう……うるさいな!」

 業を煮やしたシックザールは一歩引くと、タンッと軽やかに跳んだ。空中で一回転し、天井の穴を通り抜け、屋根の上に着地した。いつの間にか彼の足は、その両腕と同じように漆黒を帯びていた。

「いいか、アルメリア! これはご主人様の命令だ。他の装者達と協力して、白本たちを安全な場所まで避難させるんだ。もちろん、そこで倒れている装者もだ。ボクの後をついてくるのなら、それが終わってからにしろ!」

 何かを言いたそうな表情で彼を見上げていたが、やがて観念したのか、何も言わずに、倒れている装者に肩を貸してやった。そして壁際で縮こまっている他の装者や白本についてくるよう指示を出した。彼らは一様に、背中を丸めながらそそくさと出口に向かっていった。一瞬だけシックザールの方を見上げ、すぐに視線を落とした。

 全員が映画館から出たのを確認すると、その場から跳んだ。


 ボクは、何をやっているんだろう。

 ボクの目的は、本に成ること。立派な本に成ること。すべての白本の目標。

 いや、違う?

 ボクの目的……本に成る……ビブリアを守る?

 そうだ。ボクの目的は、この国を守ること。この国の人たちを守ること。

 本に成る……守る……戦う……本に成る……本に成れる?

 ボクの名前は、シックザール=ミリオン。装者の名前は、アルメリア。

 ボクは……えっと、ボクは……ボクは――?

 

 突如現実に引き戻された。悪い夢から覚めたような気分だ。さっきまで誰かの声が頭の中を駆け巡っていたような気がしたが、なにも思い出せなかった。ということは、きっと何も無かったのだ。そう結論を出した。

 シックザールは街の中心に威風堂々とそびえ立つ時計塔のてっぺんに立っていた。尖塔の先をつかみ、街を見下ろす。このビブリアにおいて最も高い建築物である時計塔からは、街の様子が手に取るように分かった。

 

「まさか、こんなことに……」


 眼下には、白本と装者たちが暮らす“東の街”が広がっている。

 いつもなら多くの人たちの息遣いが聞こえてくるその街には、数えきれないほどの蟻が闊歩していた。

 映画館を襲った蟻なんて、ほんの一部だった。雨に濡れて妖しい光沢を放つ蟻たちは、まるで砂糖菓子を少しずつ切り崩していくように、街を少しずつ破壊していく。強靭な顎は建築物の柱を切断し、壁を崩し、その中に隠れていた住民たちに牙をむく。隙間なくきっちりと舗装された路面は、何十何百という蟻の行進によって踏み抜かれ、剥がされ、その下の土を晒す。雨に濡れてドロドロになり、それが蟻の足に付着して街を汚していく。

 外の世界を長期間旅する白本の中には、ビブリアをただの休憩地点としか捉えていない者もいる。しかしシックザールは、仲間がいて、ライバルがいて、子分がいて、愛する姫がいる、このビブリアが好きだった。それが、突如湧いて現れた薄汚い蟻たちによって汚されていく。

 我慢ならなかった。

 彼の紙の体の中で黒い水が湧き上がる。その水は沸騰し、粘度を増し、マグマのようにボコボコと苦し気な泡を吐き出す。それと呼応するように、黒く染まった四肢の表面が波打つ。うねって、ささくれ立って、膨らみ、縮む。

 そんなことを繰り返している間に雨で頭が冷やされたのか、徐々に冷静な思考が蘇ってくる。体と心を焼いていた怒りはいったん冷やされ、穴だらけの石になって心の底に沈殿した。

「――蟻っていうのは、フェロモンをたどって行動する昆虫なんだ」

 街の全方位を見下ろして、ポツリとつぶやいた。

「この蟻たちは、一見無作為に街を襲っているように見えるけれど、そうじゃない。

 流れがある。ちょうど、河川が上流から下流に向かって水が流れていくように、蟻たちは一か所から流れてきている。ボクの予想なら、その源流に――」

 女王蟻がいる。

 そう結論付けると再び跳んだ。蟻の流れに逆行するように。

 

 彼の心の中には、一抹の不安が漂っていた。

 突如降り出した雨。降るはずのない雨のせいで、この国の住民たちは函の中に隠れていた。そんな彼らを、蟻たちは実に効率的に襲っていた。

 あまりにも出来過ぎている。だからシックザールは、女王蟻の存在と共に、もう一つの結論を出していた。

 女王蟻なのかどうかはわからない。しかし確実に、想像を超える力を持った存在がビブリアを襲っている。

「何が起きているんだ……?」

 疑問が次々に湧き出して来るが、今は目の前の蟻たちを止めるしか選択肢は無い。すべてはそれからだ。

 シックザールは一陣の風となって、悲鳴を上げる街の上を吹き抜けていった。

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