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100万頁のシックザール=ミリオン  作者: 望月 幸
第六章【ビブリア強襲】
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一話【暗雲立ち込めて】

 シックザールは草原の中にただ一人立っていた。地面には膝くらいまで伸びた雑草が生い茂り、空には雲一つない青空が広がっている。風も無く、何の変化も起こらない景色の中にいて、まるで絵画の世界に入ってしまったかのような錯覚を覚える。

「――アルメリア? おーい、アルメリアー?」

 自分の従者を呼んだ。しかし返事は無い。その声は景色の中に砕けて溶けていった。仕方なく歩いてみるが、ザッザッと雑草をかき分ける音が聞こえるだけ。地平線まで全く同じ景色が広がっているのを見て、歩くのをやめてしまった。

 しばらくその場で呆然としていると、前方から風が吹いてきた。さわさわと草が涼しげに擦れる音がする。

「えっ?」

 風上が暗くなっていく。地面に、空に、黒いヒビが入っていく。ヒビが入った場所からは黒い水のようなものが噴き出し、あっという間にその場所を黒く染め上げていく。それは徐々に、こちらに向かってきていた。

 後ずさりし、やがて背を向けて駆け出した。このままでは、あの黒い空間に飲み込まれてしまうのは確実だった。

 時々雑草に足を取られそうになりながら、とにかく駆けた。背後から吹いてくる風は次第に強くなり、彼の軽い体を吹き飛ばそうとする。バランスが崩れて倒れそうになるのを必死にこらえながら、とにかく無我夢中で走った。


「……かな……ザール……」


 風の音に交じって、人の声が聞こえたような気がした。どこかで聞いたような、誰かの声。そう思いながらも、構わず走り続けた。


「愚かな……シックザール……」


 はっきりと名前を呼ばれて、意識が走ることから逸れた。そのせいで地面に躓き、雑草の上を滑るように激しく転倒した。

 その地面には、あの黒いヒビが走っていた。空も、その大半は既に黒く染まっていた。シックザールの手は、地面から滲み出した黒い水に沈み、さらに体には、黒い空から染み出した水が彼の体を濡らしていった。濡れた彼の体も、その景色と同じように黒く染め挙げ上げられていく。「ヒイッ!」と短い悲鳴を上げる。

 もがくシックザールは、ついに背後を見た。

 そこには、彼の何倍もの体躯を持つ、巨大な人型の闇が立っていた。その闇は、ゆっくりと自分の両腕を差し出した。壁のように分厚い両手で彼を覆うと、口も開かずに空気を震わせた。

「シックザール=ミリオン……僕の弟……」




「うあぁっ!」

 そこで目が覚めた。掛布団はベッドからずれ落ち、彼の着ていたパジャマも汗でぐっしょりと濡れていた。ぜえぜえと、胸を大きく上下させる。

「どうかされましたか、シックザール様!」

 隣の部屋からアルメリアが飛び出してきた。エプロンを外しているところからして、既に朝食を作り終えていたようだ。どうやら、少し眠り過ぎていたらしい。

「……シックザール様?」

 呆けている彼を見て、アルメリアはハンカチを取り出して彼の汗を拭いた。その柔らかい生地が肌に触れる度に、少しずつ現実の感覚が戻ってくる。彼女が顔の汗を拭き終えた頃には、シックザールもようやく気分が落ち着いてきた。

「ありがとう、アルメリア。もう大丈夫だから」

「何やら、うなされていたようですが」

「うん、大丈夫。ちょっと嫌な夢を見ていたみたいだけれど、目が覚めたらすぐに忘れちゃったよ」

 それは嘘だった。

 白本も人間と同じように夢を見るし、目が覚めるとその大半を忘れてしまう。シックザールもそれは同様だった。

 しかし、あの夢だけは例外だった。黒く侵食される世界、そして黒い巨人。その二つが出てくる夢は忘れることができない。思い出そうとすれば、最初にそんな夢を見た時のことも思い出せる。

「さあ。朝食はできていますので、すぐに片づけてしまいましょうか」

 気を取り直すように彼女は明るい声で呼びかけた。その声は、いつも落ち着いている彼女の割には少々弾んでいるように感じた。

「何をそんなに急いでるの? 最近ちょっとペースが速かったから、数日は別の世界に行かないはずだけど」

「――シックザール様。もしかして、お忘れになられたのですか?」彼女の凛とした切れ長の目が、ジトッと半目になった。「マリキタ殿の所へ、修理していただいたエーデルシュタインを受け取りに行く約束ではありませんか!」


「すまないね、時間が掛かって。受け取ってくれ、ほら」

 ずんぐりと達磨のような体格のマリキタは、二人に背を向けたまま修理を依頼されていた短剣エーデルシュタインを手に取った。彼の丸い背中にはテントウムシの羽が付いており、その翅は少し皺が入って艶を失っていた。禿頭のマリキタは決して若くはない。

 彼の皺だらけの手には、かつてアルメリアがリュナに折られた短剣が乗っていた。彼女はそれを感慨深そうに受け取ると、恐る恐るといった様子で鞘から短剣を抜いた。銀色の剣身は妖しい光を放ち、柄や鍔にちりばめられた宝石の光を引き立てている。アルメリアの愛剣にしてただ一つの宝石剣“エーデルシュタイン”は完全復活を果たした。

「それと、これ。用意したよ、弾も」

 マリキタはどっしりと椅子に腰を下ろすと、作業場の隅を指差した。そこに置かれていたのは、とある国で骸骨の狙撃手から拝借した対物ライフル“イチリヅカ”だった。マリキタに修理と弾丸の作成を依頼していたのだが、それも完了していたのだ。それなりに重量があるため、アルメリアは自分の手でそれを拾い上げた。

「何から何まで、ありがとうございます」

 そう言って彼女は頭を下げた。あまりに深々とお礼をするものだから、マリキタは手を出してそれを制した。

「いいんだよ、それは。楽しかったしな、儂も。いただいたしな、お代も」

 顔の下半分を真っ白な髭に覆われたマリキタは、相変わらず表情が見えない。しかしその声は、どこか満足げだった。本の虫ことヴルムは“本に成る”ことを辞めた存在だ。しかし、その知的好奇心や欲というものは、白本たち以上だと言われている。彼もまた、自分の鍛冶の腕前を存分に発揮できて満足なのかもしれない。

「それと、こちらの短剣はお返しいたします。重ね重ね、ありがとうございました」

 エーデルシュタインの代わりにと借りていた、マリキタの短剣を返そうとした。しかし彼は、首を振ってそれを拒否した。

「持ってていいよ、邪魔じゃなければ。そこの白本の子供にちょうど良いだろう。軽いし」

 そう言ってマリキタは、入口の壁に寄りかかっていたシックザールに視線を移した。彼はこの場所に来てから、腕を組んでずっとその場所に立っていた。

「そうですか。ありがとうございます」

 冷めた声で礼を言うと、アルメリアは申し訳なさそうに一礼して、差し出していたマリキタの短剣を引っ込めた。

 おもむろにマリキタは窓の外へ首を向けた。シックザールの態度に機嫌を悪くしたのかと思ったが、彼はポツリと「今日は暗いな、随分と」と呟いた。

 そのつぶやきに促される形で、シックザールとアルメリアも空を見上げた。

 空には、雨を降らしそうな鉛色の雲が空を覆っていた。雨が降ることは無いビブリアだが、曇ることはある。しかしこの日の空は、かなり低い位置に雲が敷き詰められていた。そのせいで、この国を押しつぶそうとするような圧迫感があった。

「初めてじゃな、こんな雲は。早く帰りなさい、二人とも……」

 マリキタは窓の外を眺めながら忠告した。その横顔は「お互い用事は済んだから早く立ち去れ」と伝えているようにも見えた。

「ほら、行こうよ」

「……はい、かしこまりました。本当にありがとうございました、マリキタ殿」

 さっさと作業場を出たシックザールに続いて、アルメリアも急いでその場を後にした。二人が立ち去ってすぐ、背後からは扉と鍵を閉める音が聞こえた。


「シックザール様。マリキタ殿に対して、あの態度はちょっと……」

 ヴルムたちの村から離れる道すがら、アルメリアはおずおずと進言した。

「白本の皆様がヴルムを嫌う気持ちはわかりますが、マリキタ殿は誠実な方です。少なくとも、わたしにはそのように思えます」

「仕方ないだろ。嫌いなものは嫌いなんだから」

 シックザールも、彼の仕事ぶりを認めてはいた。しかし、本に成ることを宿命づけられた白本と、それを放棄したヴルムの相性は決して良くは無い。本能的な問題なのだ。

 もやもやとした気持ちで歩いていると、国の中心地である十字路に辿り着いた。そのまままっすぐ東側に歩けば、白本や装者達が住む街に。南側に行けば、最も敬愛するネイサ姫の居城がある。

「せっかくですから、久しぶりにネイサ様にお会いになりませんか? 姫様も、きっとお喜びになられますよ」

 アルメリアは努めて明るい声でそんな提案をした。シックザールに気を使っているのは明らかだった。

 いつもの彼なら、そんな提案をされる前から足がネイサの居城に向かっていただろう。しかし今の彼は、なるべく近づかないように意識していた。


 ネイサ姫は、貴様を利用している。

 ネイサ姫は、貴様を本にする気など無い。

 ネイサ姫を信用するな。

 

 そんなリュナの言葉が、彼の足を姫の元から遠ざけていた。

「いいよ、今日は。それよりも久しぶりに買い物に出かけて、家でスピンを補充しなくっちゃ。ああ、そうだ。コピィのやつにもお土産を持って行ってやらないと!」

 明るい声を発しながら、街への道を駆け出した。アルメリアも一歩遅れてその後ろをついてくる。

 走りながら、一層暗さを増す空を見上げた。ほんの一瞬、空にヒビが入ったようにも見えた。

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