【何も無い国】
「何も無いね」
「何も無いですね」
シックザールとアルメリアの二人は、何も無い空間に立っていた。強いていうなら、どこまでも真っ白な空間と、真っ白な床と、その床に落ちる黒い影しかなかった。この影がなかったら、宙に浮いているような錯覚に陥るかもしれない。
「とりあえず歩いてみようか」
「それもそうですね」
そのまま突っ立っていても進展はなさそうなので、二人で歩いてみることにした。
初めのうちこそ歩きにくくて転びそうになったが、数分も歩けば目を閉じても問題なく歩けるようになった。そもそも何も目印になるようなものも無いのだから、目を開けていても閉じていても大した差は無いのだが。
その後も歩いたり、休んだり、携帯食料を食べたりしたが、景色に全く変化は見られなかった。どうやら、昼や夜といった概念も無いらしい。時々シックザールは、自分の後頭部から伸びる栞の長さを確認した。今のところ、これぐらいしか時間を確認できるものも無い。こんなところで栞が燃え尽き、この世界に取り残されたら最悪だ。
「これからどうしましょうか?」
そう訊かれたのは、この世界に来てから半日ほど経ってからだ。実際は正確な時間もわからないのだから、半日経過というのも体感だ。
「――ボクも迷っていたけど、とりあえず七日間粘ってみようと思う。日付の感覚も曖昧だから、栞が燃え尽きるちょっと前までになるかな」
「よろしいのですか? このまま何も起こらず、ただ時間の無駄になるだけかもしれませんが」
「それならそれで構わないよ。そりゃあ、早く一人前の本に成りたいけれど、期限があるわけでもないからね。それより、ボクはこの何も無い世界で、何かが起きる可能性を信じたい。それを見逃しちゃったら、それこそ時間の無駄になってしまうからね」
「シックザール様がそうおっしゃるのなら、わたしはそれに従うまでです」
「悪いね。その間、アルメリアは鍛錬でもしておいてよ」
「かしこまりました」
そうして二人は、各々適当に暇を潰すことにした。
結果的に、時間の無駄だった。栞が燃え尽きる直前まで粘ってみたものの、何も変わったことは起きなかった。
「何も起きなかったじゃないか!」
「そんな、わたしに言われましても……」
シックザールはひとしきりその場でわめいたり、地団太を踏んだりすると、ぐったりと倒れ込んだ。
「……もういいや。帰ろう帰ろう。何度も旅していれば、こんなこともあるよ。うん」
「そうですね。あまり、お気になさらず」
シックザールの体にアルメリアの腕が回されると、二人は白い炎に包まれ、その世界から消え去った。
「…………行ったか?」
「…………行ったね」
「……もうそろそろいいか?」
「……そろそろいいでしょう」
二人が消えた後には、その足元にあった影が依然として残されていた。
その影が、真っ白な空間を塗りつぶして、一気に広がった。床は一面黒く染まり、そこかしこから直方体や円錐形の真っ黒な建物が生えてくる。それが終わると、人間大の真っ黒なてるてる坊主のようなものが生えてくる。その丸い頭部には、青く光る二つの円が描かれている。それは彼らの目で、パチパチと眩しそうに瞬きを繰り返す。
そうして、その場には地平線まで続く漆黒の国が出来上がった。
「また来ちゃったよ。他の世界の人間」
「いや、あれは人間じゃなかったわよ。形は似ていたけれど」
「今までの侵入者の中で、最も長期間滞在していったな」
「もう少しで、こっちが根負けして出て行っちゃうところだったよ」
「バカ、そんなことしてみろ! 俺たちの国が滅ぼされるだろ!」
「わ、わかってるよ。冗談だって」
口が見当たらない彼らだが、これまでの鬱憤を晴らすかのように会話を楽しんでいた。
その中の一人、ひときわ大きいてるてる坊主が体を震わせた。体の輪郭がささくれ立ち、目が青と赤に点滅する。
「マズイぞ! また誰かやって来る! みんな、すぐに元に戻れ!」
「えっ! もう次が?」
「今帰っていったばかりじゃないか!」
「そんなこと関係ない! 早く影になるんだ!」
黒いてるてる坊主たちは不機嫌をあらわにしながらも、しぶしぶといった様子で地面に染み込んでいった。すると、建造物も同様に沈んでいく。そうして、真っ黒な地面だけが残った。
「侵入者は何人だ?」
「――二人だ。二人分の影を用意!」
「わかった!」
地面の黒い面積が急激に狭くなっていく。そしてそこには、直径五十センチメートルほどの丸く黒い影が二つ残るだけになっていた。
「侵入場所は?」
「――こっちだ。ついてこい!」
二つの黒い影は地面の上を音もなく滑っていく。たどり着いた先には相変わらず真っ白な空間しかなかったが、その一部が、吸い取られるように皺を寄せてすぼまっている。
「よし、間に合ったな!」
「次に来る奴は、さっさと帰ってくれるといいんだが……」
「そればかりは運だ。そろそろ静かにしよう」
彼らが見上げる先、皺の寄った空間から、細く滑らかな脚とゴツゴツした筋肉質の脚が生えてきた。
「何も無いわね」
「何も無いな」
シャイニーとネグロの二人は、何も無い空間に立っていた。強いていうなら、どこまでも真っ白な空間と、真っ白な床と、その床に落ちる黒い影しかなかった。この影がなかったら、宙に浮いているような錯覚に陥るかもしれない。
「とりあえず歩いてみるか?
「……いえ、いいわ」
シャイニーは少し迷った末、その結論を出した。
「いいのか? この先で、何か良いものが見つかるかもしれない。そうなれば、あのシックザールを出し抜けるかもしれないぞ?」
「『かもしれない』が二重にかかっているほど曖昧なものに、ワタシは付き合っていられないわよ。それに、あのアホザールのことなんてどうでもいいから!」
「……そうか。まあ、俺もこんなところに長居したくはないからな。お前がいいというのなら、止めはしない」
「そういうことよ。ほら、さっさとくっつきなさい」
シャイニーがそう言うと、ネグロは彼女の太ももより太そうな腕を、その細い体に巻いた。
「……毎度毎度思うけど、こんな姿、他の誰にも見せられないわね。一度、別の世界で警察を呼ばれそうになったことがあるし」
「嫌なら、お前の肩に手を置く程度にしておくぞ。ただしその場合、世界間の移動が上手くいかず、次元の迷い子になるかもしれんがな」
「わかってるわよ! 我慢するわよ!」
二人の体が白い炎に包まれ、消え去った。その後には、やはり二つの黒い影が残されていた。
「…………今の二人は、過去最速記録だったな」
「…………たぶん、今後も破られないだろうな」




