三話【白い森の脅威A】
シックザールとヴァランの乗った馬車は雪の降る街道を進んでいた。ヴァランはシックザールのことを気にしているのか、馬車のスピードをゆるめている。おかげで他の馬車に追い抜かれるほど歩みは遅くなったが、雪に体を濡らされるのはかなり減った。
多少蛇行した石畳の道を北上していく。次第に建物は少なくなり、街灯も減っていく。その代わり、雪に覆われた畑が広がっていく。遠くからは牛や馬の鳴き声も聞こえてくるが、その音は雪に沈み込んでいく。
「それにしても暗いですね。やっぱり、今は夜ですか?」
「いや、まだ日が落ちる前だよ。この地方の冬は厳しいから、そう勘違いするのも仕方ないな。実際、照明は一日中必要なぐらいだからね」
「へえ~。結構大変なんですねぇ」
「そうでもないさ。幸い、資源は豊富だからね。寒さに震えることはそうそうないよ」
「なるほど。それで、北の街にはいつ着くんですか?」
「そうだな……このペースなら、明日の夜には着くだろう。とりあえず今日は、中間にある宿駅まで行きたい。そこで一泊して、私たちと馬の体力を回復させ、食料を買って進む。そういうプランだ」
シックザールは街道の先を見た。しかし雪に視界を阻まれて、とても宿駅など見えない。その代わり、何か白い塊が広がっているのが見える。
「ヴァランさん。この道の先にある、あの白いのは何ですか?」
ヴァランはそれを聞いて、ニッカリと笑みを浮かべる。
「おおっ、あれはユキシラカンバの森だよ。ユキシラカンバは建材としてだけでなく、食品や燃料、美容品にまで利用されている必需品だ。学校では、必ずと言っていいほど苗を植える野外活動が行われる。木が無くなってしまわないように、そしてその大切さを学ぶためにな。むろん、私も経験済みだ」
「へえ。こんな状況じゃなきゃ、ゆっくり見て回りたかったのになぁ」
「そうだな。まずは、君の相棒を探さないとな」
「はい!」
街道はまっすぐに森の中へ続いていく。
木々は寄り添うように密集しており、森の中に入るとあっという間に空はユキシラカンバの枝葉に覆われた。暗い空が一層暗くなり、冷たい空気が重く感じられる。
ヴァランはランプに火を点けると、馬車の屋根に吊るした。御者台の揺れに合わせて、ランプが放つ光がゆらゆらと森の道を照らす。
「ほら。上を見てごらん」
促されるままに上を見る。
先ほどは暗くてわからなかったが、この森を覆っているのは真っ白な葉っぱだった。樹皮も白いため、まるで木全体が真っ白な灰か雪に変貌してしまったかのようだ。もしも今晴れていたら、宝石のように煌いていたことだろう。
「うわあ……綺麗だなぁ」
「そうだろう!」ヴァランは自分が褒められたかのように、満足そうにうなずく。「春夏は普通の緑色の葉なのだがな、秋になると黄色くなり、冬になると完全に雪のような色になる。そうなるとすぐに葉が落ちてしまうものだから、この景色を楽しめるのは今だけなのだよ」
ヴァランは馬車の速度を落としながら、自分も木々を見上げる。その白いトンネルを、二人は長いこと見上げていた。
再び前を向いたのは、先頭を行く馬が急に止まったからだ。
これまでヴァランの手綱に従順に従っていたというのに、唐突に歩みを止めた。そして落ち着きなく、その場で足踏みをする。
「おい、どうした?」
手綱を振るって馬を叩くが、その命令と何らかの理由に挟まれて、馬は落ち着きを無くしていく。仕方なくヴァランは手を止め、周囲に視線を巡らせた。
「……まさかとは思うが」
「まさかって?」
その質問には答えず、腰の横に手を入れると金属の塊を取り出した。それは、一丁の回転式拳銃だった。銃身とグリップにはいくつもの傷が入っており、年季の入った代物であることが窺える。死角に入っていたのでわからなかったが、ヴァランは腰にホルスターを装着していたのだ。
それを構えながら御者台を降りると、周囲を警戒しながら馬車の周りを一周する。戻って来た頃には、銃を握っていない方の腕で何本かの白い枝を持っていた。
「鞄の中に、タオルと油の瓶、それとライターが入っている。タオルを枝に巻いて油を染み込ませ、火を点けるんだ」
後ろ手に枝を渡しながら、そう指示を告げる。要は、松明を作れということだ。本来は松明を持つなど白本のシックザールには考えられなかったが、ヴァランの凄みに押されて言われたとおりに行動する。ようやく火の点いた松明を、恐る恐る両手で握る。
「よし! そのまま、そこでじっとしているんだ」
御者台には、松明を握るシックザール。目の前には、依然として落ち着かない様子の馬。その横で、拳銃の引き金に指を掛けるヴァラン。静かすぎる白い森の中に、松明の炎が揺らめく音だけが広がる。
パキッ
枝の折れる音。それは、馬車から数メートル先から聞こえてきた。
跳ねる様に、ヴァランは拳銃の先を音の発せられた方に向ける。シルクハットの下から、一筋の汗が流れ落ちた。
その照準の先に現れたのは、オオカミだった。白い樹皮の陰から、銀色に輝く毛並みを持った美しいオオカミが現れた。
「あれは、オオカミですよね?」
「ああ。正確には、ギンイロオオカミと呼ばれる種類だ」
その名のとおり、ガラス細工かと見紛うような毛並みを持っている。木々の隙間から差し込む僅かな光を受けて、波打つように光沢がうねる。
そして驚くことに、オオカミは二頭出てきた。一頭目は体長が二メートルに達しようかというほど大型で、二頭目は若干小さいが、それでもシックザールと同じかそれ以上の体格だ。
その二頭のオオカミは、低い唸り声を轟かせながらじわりじわりと近づいてくる。ピンク色の歯茎が露わになるほど、思い切り牙を剥いている。その明らかな敵意に、二人は身を震わせた。
「なんということだ……。街道周辺のギンイロオオカミの駆除は済んでいるはずだ。新たな縄張りも形成されていないという報告もあったのに……役所は適当な仕事をしていたのか?」
「ヴァランさん。このオオカミ、やっぱり危険ですよね?」
「ああ。普段は、人間を襲うことは滅多にないんだがな。この時期は獲物が少ないものだから、自分の体より大きな動物を襲うことも多い。縄張りの外には滅多に出ないから、街道周辺の縄張りは全て狩り終わっているんだ。通常はな……」
ヴァランの舌打ちが聞こえる。緊急事態ということはよくわかった。
拳銃とオオカミたちとの距離は五メートルも無い。拳銃は、まず外れないだろう。しかし、先にオオカミが跳びかかれば弾が命中しても怪我を負う危険がある。
まさに一触即発。緊張の糸という物が目に見えるようだった。
バァン!
先に動いたのはヴァランだった。
引き金を引く。耳をつんざく轟音――響く振動――弾き出される弾丸――!
その弾丸は、オオカミに命中しなかった。野生の勘とでも言うのか、引き金が絞られると同時にオオカミは斜めに跳んだ。その肉を抉るはずの弾丸は、毛皮をかすめただけで、地面にめり込んで消えた。
その巨体に似合わない俊敏かつ柔軟な動きで、瞬きする間にオオカミはヴァランの横に体を潜らせる。
ヴァランは撃鉄を上げて二発目の準備を整える。その動きも素早かったが、オオカミの方が上だった。彼の脇腹に食いつかんと、ぞろりと並んだ牙がぬめって光る。
「危ないっ!」
反射的に、シックザールは松明を前方に突き出してオオカミに跳びかかる。
オオカミは一瞬怯み、体を翻して炎を避ける。
いったん距離を置いたオオカミは、視線をシックザールに向けていた。
「えっ? いや、ちょっと待って……」
オオカミの中で、攻撃の優先順位でシックザールが上位になった。満月のような黄金の瞳が彼の体を貫き、完全に体がすくんでいた。体の力が抜けていく。
「しっかりしろ、シックザール君!」
カタカタと震える指が止まらない。あっと思った時には、松明は手から抜け落ち、その先から地面に積もった雪に埋もれた。ジュワッという音と共に、呆気なく炎が消え去る。
それを合図に、再びオオカミが牙を剥いて跳びかかる。こん棒のように太い前足が振り下ろされ、その小さな体をなぎ倒そうとした。
「させるかあっ!」
シックザールの体が浮き、視界が目まぐるしく回転する。
それはオオカミの一撃ではなく、ヴァランによるものだった。彼はシックザールの背中を掴むと、渾身の力でぶん投げた。通常の人間より軽い体は、何メートルにも渡って転がっていった。
その勢いのまま、ヴァランも身を丸くして前転。彼の分厚いコートを、オオカミの鋭い爪が紙の様に切り裂いた。
「紙一重だったな。しかしシックザール君、君は妙に軽いな」
「……見た目より痩せてるんです」
二人は体勢を立て直すと、オオカミと再び対峙する。オオカミは馬には興味が無いようで、狙いは二人に絞られている。
徐々にこの緊張感に慣れてきたのか、シックザールは落ち着きを取り戻してきた。そして、その違和感を感じ取った。
「ねえ、ヴァランさん。おかしくないですか?」
「む? 何がだね?」
「何で、あのオオカミは襲ってこないんでしょうか?」
そう言って、シックザールは視線を右に移す。
その視線の先には、二頭目のオオカミがいた。一頭目は積極的に襲いかかってくるが、二頭目はその場を離れようとしない。二人から視線を離さないが、それ以上の行動を起こさない。
「そういえば、妙だな。一頭だけで狩りをすることなんて無いはずなのだが……」
「ひょっとしたら……」
シックザールは、ちょうど背後にあったユキシラカンバの木に登る。ほんの一メートルほど登ったところで、二頭目が動かない理由が判明した。
そのオオカミの陰に隠れる様に、濃い灰色の動物が隠れていた。
毛の色は異なるが、間違いない。それは、まだ小さい子供のギンイロオオカミだった。威風堂々とした大人のオオカミと違い、その表情は分かりやすいほどに怯えている。
「子供を守っていたんだね」
最初に出てきた二頭のオオカミは、おそらく親だ。子供を守るために、オスと思われる大きい方は敵の迎撃に、メスと思われる方は子供に寄り添っていたのだ。
シックザールはその眼で見たことをヴァランに伝えた。驚いた様子だったが、腑に落ちるところがあったようだ。
「おそらく、他の動物に縄張りを追われ、また新たな縄張りを探すために移動していたのだろう。他のオオカミか、もしくはクマに襲われて逃げ出すケースはある。そして運悪く、私たちと遭遇してしまったということか……」
ヴァランは一つため息をつくと、シックザールの肩を抱いて歩き出した。一頭目のオオカミを銃で牽制しながら、なんとか御者台に戻って来た。
「シックザール君、鞄の横に袋があるだろう。それを取ってくれ」
言われたとおりに取って手渡すと、ヴァランはそこから赤黒いものを取り出した。
それは、ヴァランが馬を駆りながら、時折おやつにしていた干し肉だった。
袋から全ての干し肉を取り出すと、それをまとめてオオカミの前に放り投げた。オオカミは警戒心を持ちながら、目の前に投げられた干し肉の匂いを嗅いでいる。
「事情も知らずに、拳銃なんて向けてしまってすまない。お詫びと言ってはなんだが、私の干し肉を全てあげよう。君たちには少し味が濃いかもしれないが、何も食べないよりはマシだろう。子供たちと一緒に分けてくれ」
彼の言葉が通じたわけではないだろうが、オオカミの警戒心は徐々に和らいでいた。種族を超えて気持ちが通じたのか、単に食料をくれる相手に気を良くしたのかわからないが、それがチャンスなのは間違いない。
ヴァランは手綱を握り、オオカミから離れる様に進路を取った。街道の舗装路から降りる際に、ガクンと大きな振動が襲う。雪に覆われているとはいえ、舗装されていない地面は何倍もの振動が伝わってくる。
オオカミたちに警戒心たっぷりに見送られながら、馬車は無事に危機を脱した。再び舗装路に乗り、この先の宿駅を目指す。
森を抜けた時には、すっかり夜が更けていた。広大な大地に、ぼたぼたと雪が盛大に降り注いでいる。自分たちを覆う森を抜けてきたというのに、開放感がまるで感じられなかった。
「……疲れましたね」
「ああ、まったくだよ。しかし、今日はもう休めるぞ。ほら」
ヴァランが顎を向けた先には、いくつかの明かりが見える。まだ距離はあるが、そこから団らんの声が聞こえてきそうだった。
「あれが、今晩泊まる宿駅だ。ご苦労様、シックザール君」




