一話【雪の街にてA】
「これは……参ったなぁ……」
一本の街路樹の下で、シックザールは途方に暮れていた。
空には鉛色の雲が敷き詰められており、大きな雪の粒を降らせている。大雪というほどでもないが、全く止む気配はない。降り積もった雪が地面を白く染め、舗装された歩道や道路の石畳が覗く程度だった。
水に弱い白本にとっては、雪も同様に天敵だ。シックザールは頭全体を覆うようにターバンを巻きなおし、マントの中で体を縮める。
この国の天候はシックザールにとって厄介には違いなかったが、彼はそれ以上の問題に直面していた。
「アルメリアは、一体どこにいるんだ……?」
そう、いつも一緒に行動しているアルメリアが、そこにはいなかった。それも、この国で離れ離れになったのとは少々趣が異なる。
通常なら、その世界に降り立った時には白本と装者は寄り添うような形になる。しかし今回は、降り立ったその時からシックザールは一人だった。周囲を見回しても、通り過ぎる人たちに訊ねても、アルメリアの情報は得られなかった。
この国の人間は、髪の色は薄めの茶色だった。別の色へ染めている人も見当たらない。アルメリアの赤い髪色は目立つはずなのに、皆一様に「髪の赤い、刺青の女? 知らないなぁ」と答えるばかりだった。
まさに八方ふさがり。荷物はほとんどアルメリアが持っているため、シックザールは傘を差すことすらできなかった。仕方なく、道路の脇に植えられている街路樹、その下のベンチに座っていた。
それなりに人の往来は多いが、よそ者に対して警戒感でもあるのか、シックザールに声をかける人はいなかった。お金も持っていないので、カフェやホテルに逃げ込むこともできない。一般家庭に入れてもらうことも難しいだろう。顔を上げると、周囲の人間はそそくさと顔を背ける。
「この国の人間に助けを求めるのは難しそうだな……」そう結論付けたシックザールは、アルメリアが迎えに来てくれることを期待して、その場でじっとしていることしかできなかった。
マントに顔を埋めながら、目の前の道路を行く馬車を眺めていた。この国では馬車が主な交通手段のようで、十人近い人間を乗せた馬車から、荷物を満載した荷馬車が何台も前を通り過ぎてゆく。相変わらずシックザールには無関心で、馬車を引く筋肉質な馬が時折鼻を向けるだけだった。
そのまま何時間経っただろうか。空には相変わらず分厚い雪雲があるため、時間の経過が分かりづらい。
さすがにシックザールの体も冷え切ってしまい、雪が体に染み込んでくる。こうなってしまうと、アルメリアに見つけてもらうのをいったん諦め、なんとかして屋内に避難しなければ危ない。
そう考えた時だった。うなだれるシックザールの視界に、誰かの足元が入って来た。
「遅いんだよ……アルメリア……」
やっと来てくれたのか。そう思って立ち上がり、目の前に立つ相手の顔を見る。
そこに立っていたのは、精悍な顔を持つ初老の男だった。頭には艶やかなシルクハットをかぶっており、手にはアルファベットのTの字に似た形のステッキが握られている。全身は鈍い光沢を放つ黒いコートを纏っており、肩回りには同じ色のケーブが被さっている。いわゆる、インバネスコートと呼ばれるものだ。
「あっ……すいません。人違いでした」
シックザールは初老の男に一礼し、その場から去ろうとした。しかし思いのほか体に水分が染み込んでいたのか、力が入らずよろめいてしまった。足に踏ん張りが利かず、地面に積もった雪に倒れ込みそうになる。
「いかん!」
男はシックザールの体を抱き留め、その軽さに驚きの表情を隠せなかった。その場でしばし逡巡していたが、彼はシックザールを自分の馬車に乗せると、自分も御者台に乗って手綱を握った。
カタン――コトン――カタン――コトン――。
リズミカルに揺れる馬車の上で、シックザールはようやく目覚めた。
「暗い……夜……?」
自分の体を影が覆っている。それは夜の帳によるものではなく、馬車の御者台に取り付けられた屋根によるものだった。体にかかる雪を屋根が、足元にかかる雪を厚い毛布が防いでいる。雪の勢いは少し強くなっていたが、それらのおかげで濡れずに済んでいる。
視線を前にやると、焦げたような茶色の毛並みを持つ馬がのっしのっしと歩いている。まるで牛のような巨大な体躯だ。
「おお、目覚めたかね!」
右側から、どこかで聞いたような声。
視線を向けると、高級そうなコートに身を包んだ男が手綱を握っていた。男が手綱をくいっと動かすと、まるで機械仕掛けのように馬は進行方向とスピードを微調整する。
「あの……ボク……」
「ああ、心配しないでいい。別に、取って食ったり、奴隷商人に売り飛ばすわけでもない。とりあえず、これでも食べなさい」
そう言って男は、脇に置いていたバスケットをシックザールに手渡した。中には、湯気を立てている温かいパンが五つ入っていた。
「さっき買って来たんだ。お腹が空いていたのでね。君もお腹が空いているんだろ? 食べておきなさい」
そう言って、男は力強い笑みを浮かべる。口の端に深い皺が寄った。
「は、はい。ありがとうございます」
実際はそれほど空腹でもなかったが、勧められるがままにパンに手を伸ばした。
丸っこいパンで、表面はパリッとしている。二つに割ってみると、濃厚なバターの香りと湯気の塊がボワッと広がる。一口かじってみると、表面のサクサク感と内部のふわふわ感が心地よい。いつの間にか、二個を平らげていた。
「ハッハッハッ! やっぱりお腹が空いていたんだな。遠慮せず、全部食べなさい!」
少々恥ずかしかったが、シックザールは言葉通りに遠慮せず三つめに手を伸ばした。
「さて、そろそろ元気も出てきたようだし、自己紹介をしておこう。私の名前は、ヴァランだ。運送会社の社長で、今は休暇を利用して故郷に戻っているところだ」
シックザールは口の中のパンを飲み込み、自分も自己紹介する。
「ボクは、シックザールといいます。この世界……この国には、旅の途中で偶然訪れました」
「ほう。こんなに若いのに、旅人とは……」
ヴァランは目を丸くしている。やはり、この世界では旅人はかなり珍しい存在のようだ。おまけにシックザールは十代前半程度の容姿なのだから、何か訳ありなのではないかと人が遠ざかっていったのは自然な流れとも思えた。
「私はてっきり家出少年かと思っていたよ。しかし随分と持ち物が少ないが、誰かに盗られたのかい?」
「……いや、違うんです! 違うんです!」
全力で否定するシックザール。その剣幕に、ヴァランも思わず目を丸くしていた。
「おじさん! いや、ヴァランさん! 赤い髪の女の子を見かけませんでしたか? ボクより少し年上で、体に刺青があるんですが!」
「お、落ち着きなさい。赤い髪の女の子……そんな目立つ子がいれば、忘れるはずは無いのだが……」
ヴァランは顎に手を当てて、自分の記憶を探っているようだ。今回もダメかと諦めそうになったが、ヴァランは何か思い当たる節があったのか、自分の両膝を叩いた。
「そういえば、パンを買いに行ったときに聞こえてきたな。『赤い髪の見かけない女の子が、北に行く馬車に乗った』と……」
「それです! きっとそれですよ、ヴァランさん!」
「そ、そうかもしれんな。とりあえず、落ち着きなさい」
まさに、捨てる神あれば拾う神あり。先ほどまで絶望的な状況だったというのに、その状況は一気に好転に向かっている。
「あっ! でも、北に行く馬車って情報だけじゃ、流石にわからないかな……」
前を見るだけでも、別の馬車が三台連なっている。人口も交通量も少なくない。アルメリア一人を見つけるのには、情報が少なすぎるのではないか。
「いや、かなり絞り込めるかもしれない」
再び落ち込みそうになっているシックザールに、ヴァランは声をかける。
「この街は、大陸のほぼ北端にある辺境の街でな。これ以上北となると、少し小さい街が一つあるだけだ。
そして、その街こそ、今私が向かっている故郷なのだよ」
「えっ? それじゃあ……」
「うむ。街に入る直前か、それが無理でも街の中で見つけられる確率が高い。一応、道中でも赤い髪の女の子を見なかったか訊くようにしよう」
「ありがとう、ヴァランさん!」
シックザールは思い切り抱き着く。ヴァランは一瞬戸惑ったが、その小さな体を抱き留めて、軽く頬を撫でた。
揺れる馬車の先頭で、眠そうな目つきの馬が「ブルルン」と低くいなないた。




