十二話【わがまま】
ビブリアの北側で燃え盛る混沌の炎。ビブリアと別の世界との門。
その中から、旅を終えたシックザールとアルメリアが出てきた。アルメリアを背負う形で出てきたのだが、疲労と筋力の限界でその場に倒れ込んだ。石橋を形作る石の感触がひんやりと冷たくて気持ちいい。
「アルメリア、重いよ……」
「あっ、すみません」
彼を下敷きにしていたアルメリアが横に転がり、二人で石橋の上に寝そべった。
二人は仰向けになって空を眺めた。ビブリアの空はいつも青く澄み渡っている。昼と夜はあるが、雨は降らない。この世界は白本たちが中心のため、その弱点である雨は降らないのだ。
「このまま疲れが取れるまで、ここで寝ていようか?」
「それでは、他の白本様と装者の邪魔になってしまいます」
「それもそうか。でも、ボクはもう動けないよ」
「ご安心ください。わたしはもう動けますので」
混沌の炎を離れ、二人は森の中を進んでいた。歩けないシックザールのために、アルメリアは彼を背負って森の中を突き進む。時折枝やクモの巣が顔に当たりそうになり、そのたびに体を反らしたり、丸まるように彼女に密着する。汗臭さの中に、女性らしい甘い匂いが混じっていた。
「どうかされましたか?」
「いや、別に……」そう言いかけて、軽く咳払いした後訊ねてみた。「実際のところ、どう思ってるの?」
「どう思ってる……とは?」
「アルメリア、言っていたじゃないか。リュナの考えが理解できるって。ていうことはさ、ボクに対して、何か不満があるってことじゃ……」
言いながら、声が消え入りそうにフェードアウトする。最後の方の言葉は、口の中でもごもごとこもっているだけだった。
結果的に、アルメリアは助けてくれた。リュナの考えに理解はできても共感はできないと、シックザールを守るために闘ってくれた。しかし、それは本心だったのだろうか? 実はただ、ビブリアに戻ってくるために闘ったに過ぎないのではないか?
シックザールは初めて、アルメリアの立場になってものを考えてみた。も
しも立場が逆で、自分が装者として白本を守る存在だとしたら。あらゆる危険から守り、命令を忠実にこなして、時には理不尽な要求をされて――。
想像すればするほどに、不快感がこみ上げてきた。その想像は一分と持たず、自分の気の短さに苦笑した。
アルメリアはしばらく黙って考え込んでいた。その沈黙が逆に恐怖を煽っていた。シックザールが耐えきれなくなって「やっぱり、今の質問は無し!」と前言撤回しようとしたところで、ようやく沈黙が破られた。
「不満はありません。わたしは全て納得したうえで、装者としてシックザール様に仕えていますから。そもそも装者に生まれたのですから、当然と言えば当然ですが。リュナが特殊だったのです」
「うん」
「でも……」
ドキリとした。何事にも忠実なアルメリアが「でも」なんて言うことは滅多にないからだ。
「せっかくですから一つだけ、わがままを申してもよろしいでしょうか?」
「わがまま? 珍しいね」
平静を装うが、内心は気が気ではない。紙でできた心臓が激しく脈打ち、その鼓動が伝わりそうで少し体を離した。
「本日のご飯は、シックザール様が作っていただけないでしょうか」
「……んっ?」
あれっ、そんなこと? 拍子抜けしてしまって、一瞬聞き間違いかと考えてしまった。物騒なわがままを予想していただけに、静かに恐れていた自分が恥ずかしくなってしまった。しかし、それ以上にホッとした。
「なんだ、そんなことか……」
「はい。申し訳ありませんが、傷がふさがるまでにはまだ時間がかかります。この体で料理を作ったら、中に血が入ってしまうかもしれません」
「うわあ、それは勘弁だね」
「はい。そういうわけで、本日だけお願いしてもよろしいでしょうか?」
アルメリアが首を傾けて振り返る。その瞳の中に、自分の顔が映って見えるほど近い。
シックザールは軽く笑った。アルメリアが自分を裏切るはずがない。根拠もないのに、なぜだかそう確信できた。
「任せなよ。料理のレシピだって、体中に記録してるんだからさ。ササッと作ってやるよ」
しかし悲しいかな。レシピを知っているのと、その通りに作れるのとは別問題だったようだ。
その日の晩御飯はカレーライスを作ってみた。材料は全て揃っており、作り方も完璧に覚えているのだが、これが予想以上に厄介だった。
まず、米を研ぐのが難しい。片腕をどっぷり水の中につけなければいけない。軽く手を洗う程度なら問題ないが、水に手を入れる度に手から力が抜けていく。
具材を炒めるのも四苦八苦だ。まず肉や野菜を切るが、包丁の刃を見ると手が震える。腰が引ける。ようやく柄を握れるようになるまでに五分はかかった。
切ったあとは炒める。当然火を使わなければいけないが、火は白本の天敵。初めのうちはちょろちょろとした弱火で炒めていたが、アルメリアのちょっと冷たい視線を受けて火力を強くした。熱気と立ち上る湯気が、シックザールの体力を猛烈に奪っていった。
「か、完成……」
ようやく皿に盛りつけ終わったころには、彼の体力は完全に尽きていた。「今までのどんな旅よりも疲れた……」
木製の食卓テーブルの上には、カレーライス二皿と冷たいお茶が入ったガラスコップ二つ。シックザールとアルメリアが向かい合う形で座っている。
「カレーライスは何度も食べているのに、なんだか、とても新鮮な気分です」
「それはそうでしょ。ボクがアルメリアに料理を作るのは、たぶんこれが初めてなんだから。そして、できるなら最後であってほしい……」
アルメリアはしばらくスプーンを手に取らず、しげしげと自分の前に置かれたカレーライスを眺めていた。
それにつられるように、シックザールも自分の皿を見る。いつもアルメリアが作ってくれるものと比較すると、具材の大きさはバラバラだし、ライスはちょっと水っぽい。カレーのルーも水っぽいので、カレー味のおかゆに具が浮かんでいるみたいだった。
「……なんだよ。文句があるなら、食べなくていいよ」
「ああ、いえ。そうではなくて」
「なくて?」
アルメリアが唇をぎゅっと閉じる。
「嬉しいのです。シックザール様がわたしのために料理を作ってくれる日が来るなどと、想像もしていなかったもので……」
「……それは違うよ、アルメリア」
「えっ?」
「『わたしのために』じゃない。『わたしたちのために』だ。ボクが、アルメリア一人のために料理を作るわけないだろ。ボクがカレーを食べたかったから、カレーを作った。それだけだよ」
そこまで言うと、なんだか照れくさくなってそっぽを向いた。分厚いカーテンの向こうでは、夜の闇が広がっているだろう。
「……ほら、早く食べろよ! せっかく作ってやったのに、冷めたら不味くなるだろ!」
「ええ、それもそうですね」
アルメリアは両手を合わせると、ゆっくりと「いただきます」と言った。カレーを噛みしめる前に言葉を噛みしめるなと、心の中で悪態をつく。
彼女はスプーンを握ると、ゆっくりとカレーライスに潜り込ませた。軽く香りをかいだ後、さらにゆっくりと口の中へ運んでいく。シックザールはそっぽを向きながらも、横目でその動きを瞬きもせず見つめていた。アルメリアが咀嚼するたび、自分自身の体の一部が噛み砕かれているような感覚になる。
「……で、どうなのさ?」
耐えきれず口を開く。アルメリアは二口目に移ろうというところだった。
「そうですね……」
スプーンを握ったまま、アルメリアはまっすぐに自分の主人を見つめた。シックザールの喉がゴクリと鳴る。
「とても、嬉しいです」
そう言って目を細め、頬を緩ませた。はにかんでいる程度の笑顔だったが、シックザールは、その笑顔から目を離せずにいた。紙でできた心臓が、そもそも本当に心臓があるのかわからないが、それが切なく締め付けられた。
いつの間にか、アルメリアは二口目、三口目と素早くスプーンを動かしていた。そのせいで、今の笑顔が夢や錯覚ではないかと思えてしまう。
「……まったくさ。不味いなら不味いって言えばいいんだよ。なんだよ、嬉しいって」
そうぶつくさ言い捨てて、シックザールも自分のカレーライスを口に運んだ。
やっぱり不味かった。




