十一話【ブラックアウト】
人形のように動かなくなり、地面に突っ伏したアルメリア。彼女の血を浴び、その体を抱きかかえるシックザール。
サーベルを握りながら、リュナは二人を見下ろしていた。この場面でシックザールが動き出すとは予想外だったのか、少々面食らっていた様子ではあった。しかし、もはやだれの目にも勝敗は明らかだった。リュナも既に消化試合だと決め込んでいる様子で、ふらりと散歩に来たように脱力している。
「少しだけ、ほんの少しだけ見直したぞ、坊主。おかげで、某は貴重な美人を殺さずにすんだ。そして、一ついいことを思いついた」
リュナはサーベルの峰を自分の肩に置いた。
「坊主、ミルフィーユは好きか?」
突如、この場に合わない平和な質問が飛び出した。
「某は、ミルフィーユが好きだ。特に、あのパイ生地の食感が好きなのだ。あの独特の食感は、何層にも重なった生地と、バターが溶けることによって生じる気泡が生み出している。それを噛みしめるのは至福の時なのだが、某は今、思ったのだ」
リュナは首を傾げ、切れ長の目を細めて足元の少年を見た。
「白本を斬ったら、それと同じ感覚が味わえるのではないか――そう思ってな。お前らの体の中身は、所詮は紙の束だ。それを一息に切り裂くと、サクサクとしたあの感触が手から伝わってくるのかもな。
もちろん、装者が白本を斬るなど、本来はご法度だ。しかし、某はそんなくだらないルールから外れた身。坊主を斬ることに、何のためらいもない」
右手で掲げるサーベルに左手を添える。松明の光を映して、刀身には燃えるような光が揺らめく。
「某の娯楽のために死んでくれ、坊主」
その燃えるような冷たい刃が振り下ろされた。
シックザールは、アルメリアを抱きかかえながら呆然としていた。その体に付着した血のせいで。
白本にとって、水は天敵だ。ある程度は口から摂取しなければいけないが、肌に付着した水は体の表面に染み込み、途端に体がだるくなってしまう。そのために、白本は全身を覆う服装を心掛けている。
では、水以外はどうなのか? シックザールも泥水なりジュースなりを肌に受けたことはあるが、水を被った時と同じように体がだるくなるだけだった。
しかし、体に血が付いたのは初めてだった。白本は血を流さないし、常に傍にいるアルメリアも流血するほどの傷を負うことは無い。
「血だ……」
アルメリアが折れた短剣を見下ろしていたときと同じように、シックザールもまた、自分の手のひらに付いた鮮血をじっと見ていた。
何とはなしに舌を出し、その血を舐めてみた。「血液は鉄の味がする」とは聞いたことがあったが、実際に味わってみてもその感覚は全くわからなかった。
「アルメリアの血だ……」
その頭上では、リュナがミルフィーユだの食感がどうだのと何かしゃべっている。あれほど恐ろしい存在をすぐ傍にしているというのに、曇りガラスの向こうにいるかのように、ぼんやりとした存在に感じる。それよりも、その温かい血の方が気になっていた。
「某の娯楽のために死んでくれ、坊主」
ただ、その声だけはくっきりと輪郭を持って飛び込んできた。
だから、自分の身を守るために、その右手を突き出した。
血がついていようがいまいが関係ない。白本の脆い腕など、装者の振り下ろす刃物の前には無力。それこそ口の中に入れられたミルフィーユのように、サックリと切断されるだけだ。
そのはずだった。
シックザールの視線の先には、自分の右腕と、リュナが振り下ろすサーベルの刃があった。
その右腕から、黒くて平べったいものが吹き出した。
それは紙だった。彼の細い腕から、何十何百という黒い紙が吹き出した。その黒い紙は吹き出すと同時に腕に巻き付いていき、一瞬の内に腕全体が包まれる。
「なんだそれは!」
リュナは驚愕しながらも、自分の気の迷いごと切り裂くように刃を振り下ろす。
その刃を、黒い腕は正面から受け止めた。手のひらの表面が切れただけで、痛みは無い。そして拳を軽く握ると、まるで飴細工のようにサーベルの刃が呆気なく折れた。
「何者だ……」
リュナは一度距離を取ると、再びソードブレイカーを握った。右手には折れたサーベル、左手にはソードブレイカー。両手に武器を握ると、最初に見せた以上の高速のステップで周囲を回り始める。シックザールはただ真っすぐを見るだけで、その姿を追うことすらしなかった。
「何者なのだ……」
円を描くようにステップを踏みながら、徐々にその距離を詰めていく。その半径を約五メートルにまで詰めたところで、リュナは左後方から突進した。シックザールが変異したのは右腕のみ。つまり、左後ろなら文字通り手は出せない。
そして、その読みは間違いだった。
黒い腕は自分の意思を持つかのように、シックザールの背後に回る。そして再び黒い紙を吐き出した。その紙は加速度的に増殖し、元の腕の数十倍の大きさに膨れ上がった。そして関節など存在しないように、蛇のような挙動でリュナを掴んだ。
掴まれる寸前にリュナは黒い指を斬ったが、やはり表面が切れるだけで全く効果が無い。そのまま全身を覆われる様に手の中に包み込まれ、玩具のように高く掲げられた。その高さは約七メートル。
観衆の視線が、巨大な黒い腕と、なすすべなくもがき苦しむコロシアムの王者に注がれた。
「貴様は一体、何者なのだ……ッ!」
それがリュナの断末魔となった。
黒い腕は鞭のように一度大きくしなると、その勢いのまま、リュナを地面に叩きつけた。そのときリュナは悲鳴を上げたのかもしれないが、闘技台が砕け散る音が彼の声をかき消した。代わりに、彼の口からは大量の赤い泡が吹き出した。白目を剥き、体はビクビクと電気を流されているかのように痙攣している。これほどの衝撃を受けても即死しなかったのは、さすが歴戦の装者といったところか。
一連の光景を、シックザールは座り込みながら黙って眺めていた。目の前には、何十倍にも膨れ上がった自分の右腕。それは役目を終えたことを悟ったのか、大きくなった時の巻き戻しのように、黒いページがペリペリと剥がれては腕の中に収納されていく。数秒後には、元の細く白い腕に戻った。
遠くから司会者の男の声が聞こえる。それはシックザールの優勝を告げるものであったが、その声の方へ視線を向けることさえ無かった。
「――あれ、わたしは……?」
「ああ、気が付いたんだね。アルメリア」
錯乱し、気を失っていたアルメリアがようやく目覚めた。いつまでもシックザールが抱えているわけにもいかないので、今は代わりにバルダードが彼女をおぶっている。
闘技台には数人の男が集まり、円形の台やトワルコロシアムのシンボルが描かれた旗を用意している。優勝者の表彰式が始まるのだ。シックザールはその光景をつまらなそうに、腕を組んで眺めていた。その後頭部に結び付けられた栞は、既に髪の毛に隠れて見えなくなっている。
「シックザール様! こちらへどうぞ!」
男たちの一人が呼ぶ。どうやら準備が終わりそうだ。
しかしその声には反応せず、逆の方向、闘技台の中心へ歩いていった。周囲の人々はその様子を怪訝そうに見つめていたが、アルメリアだけはその意図を察したようだった。自分を背負うバルダードに、彼から少し離れるよう指示を出す。
「再上映――」
シックザールの体が光に包まれ、体中のページがめくられていく。そのページに書かれていた文字がふわりと離れ、羽虫のようにコロシアムのいたるところへ散っていった。
なんだなんだと、観衆たちがざわめきだす。突如少年の体が発光し、本のようにめくれ出したのだから驚くしかないだろう。
しかし徐々に静かになり、その代わりに、彼らの目が充血していく。呼吸が荒くなる。体を掻きむしり始める。
再上映を終えて一息ついているシックザールに、アルメリアとバルダードが近寄った。
「シックザール様。今のは、何をされたのですか?」
その質問に笑顔で答えた。
「ただの憂さ晴らしだよ。ほら、この前矛と盾を渡した国で、戦争を見たでしょ。肝心の矛と盾は使ってもらえなかったけどさ」
そう言って、観客たちの座っていた雛壇を見回した。
「小一時間見ていただけだからさ、ボクの中でも大した“物語”になっていないけど。ただでさえ興奮している観客たちに使ったら、ほら」
指を指す先では、スキンヘッドの男とパンチパーマの男が取っ組み合いを始めていた。その隣一つ下の段では、一組の男女が口喧嘩を始めた。反対側を見れば、大柄の男が細身の男を持ち上げて放り投げた。
あちらこちらで飛び交う怒号、罵声、悲鳴、叫び。トワルコロシアムは阿鼻叫喚の地獄に化していた。
「いい気味だよね。人の命を見世物にして、自分たちは安全なところから飲み食いして見下ろして。自分たちも当事者になれっていうんだ」
視線を上げると、全ての元凶、司会の男が隣に立っていた二人の女につかみかかられていた。長い爪で肌を引っ掻かれ、男の割に滑らかな肌から鮮やかな血が滲んでいた。その股間を握られたあたりで視線を戻す。ただ、鶏のような悲鳴は聞こえてきた。
「おいおい、なんじゃこれは……」
絶え間な悲鳴が轟くコロシアムにおいて、正気を保っている者はほとんどいなかった。バルダードは数少ない、正気のままの一人となっていた。
「ボクの能力で、皆さんの暴力性を強化したんです。バルダードさんがなんともないのは、そういう風に調整したからです」
「の、能力? シックザール坊よ、お前、何を言っておるのだ?」
「まあ、こんな話されてもわけ分からないですよね。とにかく、バルダードさんは早く逃げてください。子供たちが待ってるんでしょ?」
シックザールは傍に近づくと、ひったくるようにアルメリアの体を引き寄せた。まだ体はうまく動かせないようで、彼女の体重がのしかかる。
その体を上手く抱きかかえると、シックザールの体が白い炎に包まれた。ビブリアに帰るため、栞を燃やしたのだ。
「なんとか間に合ったね。ほら、帰るよ」
「申し訳ございません。このような姿で……」
「いいって、いいって。あっ、そうだ!」
アルメリアを抱いたまま、卒倒しているリュナの傍に歩み寄る。その傍には、折られた短剣の刀身が落ちていた。それを拾うと、リュナの顔を一瞥する。
「装者にも、いろいろいるんだね」
二人の全身が炎に包まれる。最後にもう一度だけ、コロシアムを見回した。
ただただ暴力を振るう人間たち、オロオロしながら背を向けるバルダード、血の気の失せたリュナ。
「……疲れたね」
「まったくですね」
トワルコロシアムの新たな王者とその武器は、その国から姿を消した。




