八話【リュナという男】
大歓声の雨の中、ついに最後の闘いが始まった。
シックザールと対峙するリュナは、意味深な笑みを浮かべるだけで動こうとしない。体の前で腕を組み、値踏みするかのようにじっくり見つめるだけだった。
シックザールも、次第にリュナから放たれる圧力に慣れ始めていた。彼もまた、この闘技大会や別の世界で危機を潜り抜けてきた。虚弱な白本ではあったが、状況への対応力に関しては並の物ではない。闘技台を踏みしめる足に力がこもる。
シックザールの右手が上がる。もはや自分自身にとっても、観客たちにとってもおなじみになりつつある動作だ。その動作と共鳴するように、観客たちの約七割が同じように右手を上げた。リュナの存在感に支配されつつあるコロシアムでも、その効果はまだ健在のようだ。
さすがのリュナも面食らったのか、観衆たちの同調に目を丸くしている。
これなら行ける! 闘技開始前から委縮してしまっていたシックザールの胸に、勝利への確信がみなぎってきた。天を突き刺すその人差し指に力が入る。
「リュナ、覚悟せよ! この手が振り下ろされるとき、お前はコロシアムの王者から転落するだろう!」
リュナの片眉がピクリと動く。明らかに不快感をにじませているが、警戒しているのかその場から動こうとしない。実際に、これまでの闘技者の中にも警戒を強める者がいた。しかし、そのような相手ほどアルメリアの恰好の餌食となる。
シックザールの口角が上がる。「勝った!」心の中で勝利を確信する。
そして敗北を突きつけるように、今までで最も勢いよく右手を振り下ろした。真似をする観客たちも、一斉にリュナに向けて手を振り下ろした。
ヒュン――
シックザールが目にしたのは、リュナを囲うように煌いた光の軌跡だった。そして、額に何かが刺さる感覚。
額に手をやってみると、そこには針が刺さっていた。間違いない。アルメリアが対戦相手を狙撃する際に使用してきた裁縫針だった。それがなぜかリュナではなく、シックザールに突き刺さっていた。
「なるほどな。これまでの相手は、これにやられていたのだな。実にくだらない」
ここに来て初めてリュナが口を開いた。大人の男性らしい低さと渋さを含みながらも、遠くまで届きそうな澄んだ声。シックザールが人間の女性だったら、その声に胸を弾ませていたかもしれない。
多くの人間が聞き惚れそうな声を出す男の手には、一振りの得物が握られていた。それは、いわゆる洋刀――サーベルだった。
手を保護するための大きな鍔は金色で、非常に細かい装飾が彫られている。しかし最も目を引くのは、弓のように湾曲した銀色の刃だった。松明の熱い光を滑らかに反射するその刃は、まるで血が滴っているかのように錯覚する。
シックザールは、このサーベルこそが“三日月の剣士”という異名の元になっているのだと理解した。先ほどリュナの周囲を走った光の軌跡は、このサーベルを高速で一振りした光だったのだ。そして、自分を狙う針を的確に弾き飛ばしたのだ。
「無理だよ……。あれに対応できる相手に、勝てるわけないじゃないか……」
勝利の確信から一転、力の差を一瞬で見せつけられる結果に終わってしまった。少し気を抜けば、その場に膝から崩れ落ちそうになる。
観衆たちは何が起きているのかわからなかっただろう。わかったことは、リュナがいつの間にかサーベルを抜いていたこと。何事も無く立っていること。そしてシックザールが絶望の表情を浮かべていることだけだった。これまではこの流れで確実に決着がついていただけに、一部の観客たちも動揺している。しかし中には、「リュナなら大丈夫なんだろう」と納得している人間も見られる。初対面ゆえ仕方なかったとはいえ、シックザールは完全にリュナの実力を見誤っていた。
「坊主、命がけの勝負の場に、随分とつまらない戦い方を持ち込んできたな」
リュナの澄んだ声に気迫がこもる。サーベルを握り直し、一歩踏み出す。ごく普通に歩みだしただけだというのに、まるで巨人の一歩のように空気を震わせる。
「坊主の協力者も切り刻んでやりたいところだが、仕方ない。まずはシックザール、お主をこの場でバラバラにしてやるとしようか」
直後、リュナが消えた。
「えっ?」
シックザールは慌てて周囲を見回す。しかしいくら明るいとはいえ、松明の光は不安定だ。ゆらゆらと照らされる闘技台の上で、リュナの軽やかなステップの音だけが聞こえる。的確にシックザールの死角と松明の光が届かない場所を選び、じわじわと距離を詰めていく。
「見えない……全く見えっ……」
首筋にひんやりとした感触。
恐る恐る視線を落とすと、首筋にサーベルの刃が当てられていた。刃はわずかに食い込み、首の皮をぷつりと裂いていた。
視線を上げれば、リュナが余裕のまなざしで見下ろしていた。その視線はシックザールの顔ではなく、なぜだか刃の方を見ていた。
「なるほどな。これで納得したぞ」
「納得? 何のことだっ?」
精一杯強がるが、リュナは全く意に介さない。そして柔らかい笑みを浮かべたまま、彼は驚くべきことを口にした。
「シックザール。お前、白本だな?」
「ど、どうしてそれを……」そう言いかけたところで、リュナが弾かれるように視線を上げ、大きく後ろに飛んだ。
そのコンマ一秒後、リュナが立っていた場所が砕け散った。
驚いて振り返ると、そこに立っていたのはアルメリアだった。足元に散った瓦礫を払いのけている。
「アルメリア! どうしてここに!」
「申し訳ありません、シックザール様。しかし、このままではあなたの身が危険だと判断しましたので」
突然の乱入者に、観衆は水を差されたかのように静まり返った。その中で最初に口を開いたのは、あの司会者だった。
「誰だね、君は! 神聖な闘技の最中に、部外者が入り込むでない!」
観客からも野次が飛ぶ。それも仕方ないだろう。闘技のルールには「闘技は一対一」というものがある。それが無ければ、いくらでも助っ人を呼ぶことができるだろう。
そのルールは目立つところに貼り出されているため、アルメリアもルールはよく知っているはずだ。ルールより、主の身の安全を優先したというわけか。
アルメリアは能面のような顔つきのままくるりと回り、騒ぎ立てる観衆を一通り視界に入れた。そして思い切り息を吸って胸を膨らませた。
「わたしはシックザール様の武器だ! 文句があるならかかってくるがいい!」
声を爆発させるように、一気に叫んだ。気迫のこもった爆風が、コロシアムの喧騒を吹き飛ばす。観客たちは気勢をそがれ、オロオロするばかりだった。
ルールには「武器の使用は自由」というものもある。おそらくアルメリアはそれを意識して発言したのだろうが、むしろ声の迫力の方に説得力が奪われていた。
「まあ、良いではないか。こういうのも」
口を開いたのは、アルメリアの急襲を躱したリュナだった。体に付いた砂埃を落として、悠然と立っていた。
「このまま坊主を斬り倒すのでは、某も観客も満足できん。武器というのなら、それで良い。持ち主もろとも、斬り伏せるまでよ」
最初の狙撃に、石の舞台を砕く蹴り。アルメリアの戦闘力の高さを目の当たりにしながらも、リュナは変わらない余裕を見せていた。
「はあ。まあ、対戦相手のあなたが、そうおっしゃるのなら……」司会の男が軽く咳払いし、服を整える。「両者の同意により、特例として二対一のまま闘技を再開いたします!」
観客たちは動揺を隠しきれないようだが、結局は「その方が面白そうだ」と結論付けたのか、歓声も元の勢いを取り戻していった。リュナはこの展開を読んでいたのか、終始薄ら笑いを浮かべてこの変化を楽しんでいた。
「感謝するのだな。コロシアムの王者の某だからこそ、このような無理が通る。それとも、いっそ反則負けが良かったかな?」
「感謝なんてするもんか。それより、どういうことなんだ?」
「どういうこと……とは?」
「とぼけるなよ! ボクが白本だなんて、どうしてこの国のお前が知っているんだ!」
アルメリアは目を丸くしてシックザールとリュナを見た。アルメリアにとっても、異世界の人間が白本を知っているというのは初めての経験だったようだ。
「さきほど、お前の首を軽く斬っただろう? そうして血が出ないのは、某は白本以外に知らぬ。そもそも、おかしいと思ったのだ。お前と向かい合った時から、白本独特の紙とインクの匂いが漂っていたのだからな」
これほど空気が澱んでいる中で、白本の放つ微妙な匂いの違いに気づいていたのか? それはもはや、人間の感覚を遥かに凌駕している。
「……いや、そうじゃない。血が出ないにしても、匂いが違うにしても、そもそも“白本”を知るのはビブリアの存在だけ――」
ハッとした。それなら辻褄が合う。しかし、そのような者に出会うのはこれが初めてであり、出会ったという話を聞いたことも無かった。
「ようやく気が付いたようだな」
リュナはサーベルを鞘に戻すと、二人に向かって一歩踏み出した。
「そうだ。某は装者だ。そこの娘と同じ、な」




