【四十頁のシックザール=ミリオン】
カラ――カラ――カラ――
あの日からどれだけ経っただろう。
火と暴力によって傷つけられた街は元の姿を取り戻していた。かつて巨大蟻の襲撃に遭った時以上の速さで復興を遂げた。それはまるで、人々が忌まわしい記憶を過去に置き去りにしたがっているようでもあった。
カラ――カラ――カラ――
街の大通りを歩けば、穏やかな表情の人々とすれ違う。あれだけの事件だ。無関係だった者はいないが、皆例外なく当時のトラウマを胸の奥底に押し込めている。今はまだ平穏という仮面をかぶっているが、やがてその仮面も不要になるだろう。かさぶたの下にきれいな皮膚がよみがえるように、心から安らげる日々は必ず戻ってくる。
「――――!」
「――――っ!」
「――! ――!!」
あちこちから活気のある声が響く。
営業を再開した店はまだ少ないが、それを補うようにひとつひとつの声が大きい。
なるほど、彼らもこの国を立て直しているのだなと思った。瓦礫を除去し、建物を建て直すだけが復興ではない。人々の心を奮い立たせるのもまた必要だ。そうすることで、彼ら自身もまた力をみなぎらせることができる。
「よう、シャイニーちゃん!」
大きな声のひとつがその名を呼んだ。
声の主の方へ顔を向ける。銀色のポニーテールがふわりと左右に揺れた。
「ごきげんよう、おじさま」
この日、シャイニーは久しぶりにネグロと外出していた。
かの大事件でシャイニー自身に大きな怪我は無かった。
しかし、ネグロはそうもいかなかった。片足はエスティエインとの戦いによって潰され、切断を余儀なくされた。残された片足も快復は望めず、両腕にも後遺症による痺れが残った。命が助かったのは奇跡だったが、今後装者として働くのは不可能と判断を下された。ネグロはそれを素直に受け入れた。
最強の装者にして、生きる伝説と呼ばれた男。その伝説は幕を閉じたのだ。
「――その割にはアンタ、随分晴れ晴れとした表情よね。なんかムカつくくらい」
「ん、何の話だ?」
「何でもありませーん」
シャイニーが押す車椅子に揺られながら、ネグロは穏やかな表情を浮かべていた。
ビブリアの有名人だけに、すれ違う人の多くはネグロの変わり果てた姿を見て気の毒そうに眉をひそめる。そして、彼の表情を見て目を丸くする。それが今日だけで何十回と繰り返された。
「やっぱり、アレ? “最強”の重荷が無くなった解放感なのかしら?」
「ふむ、そうかもしれないな。忘れかけていた休日を、ようやくもらえたような気分だ」
「贅沢なもんよねえ。他の装者たちは強くなるために切磋琢磨してるのに、あんたは強さを手放してせいせいしてるんだから」
「おいおい、これでも結構へこんでいるんだぞ? 誰かの助けが無ければ日常生活もままならない、非常に不自由な体だ。それに」
「それに?」
「もう、君の装者として働けない。君が本に成るのを見届けることができなくなってしまった」
「……うん」
ネグロがシャイニーの従者の任を解かれるのは自然な流れだった。じきに彼女は新たな装者と顔合わせするだろう。そうなればネグロとの関係も次第に薄れていくはずだ。
「しかし、考えれば考えるほど新たな従者を不憫に思うよ。君の相手が務まるのは俺ぐらいなものだからな。頼むから、いじめて泣かせたりしないでくれよ?」
「しないっての! ワタシを何だと思ってんのよ!」
「何って? がさつで、おてんばで、怒りっぽくて、高飛車で、暴力的で、わがままで、色気が無くて――」
「もういい。もういいですってば」
「最高のご主人様だったよ」
カラ――。
足が止まる。カアッと頬が熱くなる。体中がむずがゆくなって、グリップを握る手に力がこもる。
「おい、どうしたんだ?」
「何でもない! 何でもないから、前を向いてなさい!」
国の中心の十字路を南に。二人はネイサの居城に向かっていた。ネイサから思いがけない知らせが届いたからだ。
南へ伸びる道を歩く。幅広の石畳を挟んで広大な花畑が広がる。人通りが少なく街の喧騒から離れたこの道を歩けば、花々の香りに囲まれて夢見心地になれた。
しかし最近は様子が変わったようだ。道を歩けば必ず誰かとすれ違う。特に白本と。
理由は明確で、アンサラーの影響だった。
アンサラーによる“ネイサの秘密の暴露”という揺さぶりはいまだに影を落としていた。しかし、結局この世界はネイサがいなければ成り立たない。彼女がどれだけ残酷な目的を秘めていたとしても、この世界の住民はその依存から離れることはできないのだ。
とはいえ関係の悪化は望ましくないのか、ネイサは自分の居城を広く開け放つようになった。居城の中に広大な図書室を設け、彼女の空中図書館の蔵書の一部をそちらに移した。事前の予約は必要だが、それだけで誰もが通うことができるようになった。
居城に続く石橋を渡っていると、前から小柄な男が歩いてきた。
「こんにちは」
「やあ、どうも」
軽く挨拶を交わしてすれ違う。振り返って見た男の後ろ姿、腰のあたりから大きな針が飛び出していた。
「ヴルムがここに来るなんて、前までは考えられなかったわね」
「今やヴルムの知識と労働力は必須だからな。今後は東と西の交流も増えていくだろう。あの騒動を乗り越えて得るものがあったんだから、俺も死力を尽くした甲斐があったというものだ」
「あの戦いで死んでいった人たちも、同じことを考えてくれるかしら?」
「さあな。俺なら『のほほんとしやがって!』と怒り狂うかもしん」
「ワタシも。怒り狂ってもう一回憤死するわ」
「……せっかく拾った命だ。大事に生きないとな」
「そうね」
そして到着。
二人の衛兵の間にある門は、以前は固く閉ざされていた。それが今開放されているのは、やはりネイサの意向なのだろう。図書室の解放は人々に好評だが、一部のひねくれ者は「あんなものは『私にはもう隠し事がありませんよ』と思わせる演出だ」とひそかに思っている。シャイニーはその両方だった。
衛兵に手を挙げて挨拶し、中に入る。普段なら来客を捌くために雇われた新たな使用人が出迎えてくれるはずだ。
「おお、待っておったぞ!」
二人は虚を突かれて目を丸くする。出迎えてくれたのはネイサ本人だった。
「なんじゃ? 二人そろって間抜け面になって」
「い、いえ……! まさか、ネイサ様が直々に……」
「そう驚くことか? 呼んだのは私のほうだからな。客人を迎える礼儀を示すのに、地位も立場もないじゃろう」
いや、ありますよ! そういうのは使用人にでもやらせなさいよ!
そうつっこみたくなるシャイニーだったが、さすがに思いとどまった。彼女も彼女で、信頼を取り戻すのに必死なのだ。
「……こ、光栄です。ありがとうございました。それで“例の本”というのは?」
「私の部屋に置いてある。後日図書室に収めるつもりだが、その前にお前に読んでほしかったからな。シックザールと一番仲が良かったのは、シャイニー、お前だろう?」
「え!? そっ、そんなこと……!」
慌てて、フリルで飾られた袖をブンブンと振り回す。
「わ、わからないですよ。アイツの交友関係なんて把握してませんし……」
「そうか? 確かな筋から仕入れた情報なんだがなぁ。
まあ、よい。お前も早くあの本を読みたいであろう? ついてまいれ」
さっさと話を切り上げると、ネイサは豊かな金色の髪を翻して前を歩き始めた。
「確かな筋って、どんな筋よ。変な噂を流してる奴がいるなら一発ぶん殴ってやりたいわ!」
ぷりぷり怒りながらついていくシャイニーの後ろで、ネグロが意地悪そうににやついていた。
洋風の居城の中にある一室だけの和室。そんな異質な空間がネイサの自室だった。普段の彼女は、ここで寝転がりながら本を読むのを趣味にしているらしい。
部屋の中心には木目が美しい無垢材の座卓。艶のある天板の上に一冊の本が置かれていた。その本に吸い寄せられるように正面の座布団の上に正座する。「何か飲み物を持ってこさせるか?」というネイサの声もほとんど聞こえなかった。
シックザールの冒険
それが、卓上に置かれた絵本のタイトルだった。
「これが……そうなんですよね?」
ネイサからの招待状には「お前に読んでほしい特別な本がある。早く来てほしい」という旨の内容しか書かれていなかった。絵本ということすら知らなかったのだ。
「ああ、そうじゃ。
知ってのとおり、あの子はアンサラーを追って混沌の炎に飛び込み、そして帰ってこなかった。結局、本に成るという夢を叶えることはできなかった。
その夢を違う形で叶えたのが、コピィだった」
「コピィが?」
シャイニーたちも知っている。シックザールの弟分で、彼と一緒にいる姿を何度も見てきた。
「なんでも、あの子はコピィに自分の旅の思い出を語って聞かせていたそうじゃ。幼い白本が、先輩の白本から土産話を聞くのは珍しいことではないしな。
普通と事情が違うのは、コピィが“絵本”の素質を持った白本だったということじゃ」
白本にはそれぞれ“素質”というものがあるのは、シャイニーも当然知っていた。彼女自身、従来の白本とは一線を画す“電子書籍”という素質を持っている。
素質は白本の運命に大きな影響を与える。たとえば、ランダムに選ばれるはずの異世界に一定の傾向が表れる。自然豊かな世界ばかりに飛ぶ白本もいれば、何度も戦争に巻き込まれる白本もいる。
さらに、本に成った時の形態にも影響を与える。ある者は文庫本に、ある者は分厚い辞書に、ある者は大判の写真集に。コピィの場合、それが絵本だったということだ。
「なるほど。絵本ならページ数が少ないから、こんなに早く本に成ることができたのね」
「驚くことに、コピィは一度しか異世界に出たことがなかったそうだ。つまり、シックザールの話を聞いただけで本に成ったということじゃな」
「えっ!? そ、そんなことが……」
そんなのは前代未聞だ。よほど足しげく彼の家に通っていたのだろう。もしくは、シックザールの話がよほど濃密だったのか。
「――読んでみてもいいですか?」
「ああ、もちろん。そのために呼んだのだからな」
視線を絵本の表紙に落とす。
表紙に描かれているのは、もちろんシックザール。そして従者のアルメリア。背景はおそらく、今まで彼が訪れた国々の一部だろう。いつも見ていたあの憎たらしい顔が、妙に可愛く描かれていることにシャイニーは噴き出さずにいられなかった。
「それじゃ、失礼します」
横から顔を近づけるネグロと共に表紙をめくった。
【天女の国】
そこは砂と岩だらけの国でした。
日差しは強く、乾いた風がたまに吹きます。
「うん。けっこう快適だね」
だけど、シックザールは平気でした。
シックザールとアルメリアが歩いていると、一人の女の子と出会いました。
その女の子は、乾いた土地に雨を降らせるための生贄でした。
シックザールとアルメリアは、女の子に乱暴したと勘違いされて捕まってしまいました。
夜になり、女の子を送り出すお祭りが開かれました。
お祭りの後に、二人は女の子を助けたいという男の子と出会いました。
三人は村を抜け出し、女の子を助けに行くことになりました。
女の子はとうとう崖の上から身を投げ出しました。
しかし、シックザールとアルメリアは彼女をキャッチして着地!
シックザールは自分の能力“再上映”で雨を降らし、女の子を雨降らしの天女にしてしまったのでした。
【殺戮遊戯の国】
そこは人と血の臭いでいっぱいの国でした。
シックザールはアルメリアと別れると、闘技場の地下に連れ去られてしまいました。
なんと、そこで闘技者として戦うことになったのです!
シックザールは自分の能力と、こっそりアルメリアに協力してもらい、順調に勝ち進んでいきました。
決勝戦の相手は、なんとアルメリアと同じ装者でした。
彼は“三日月の剣士”と称される、コロシアムの英雄でした。
シックザールはアルメリアと戦いましたが、やがてピンチになってしまいました。
しかし、頭がカッと熱くなったかと思うと、いつの間にか優勝していました。
【偽物の国】
【剣も魔法も無い世界】
【魔導書の国】
【おもてなしの国】
それ以外にも、シックザールが回ってきたであろう数々の世界の物語が簡潔に描かれていた。
最後に描かれている国は、やはりビブリアだった。
【ボクたちの国】
そこはシックザールの故郷の国でした。
いつも平和な国でしたが、とつぜん現れた悪者たちの手で火がつけられてしまいました。
みんな一生懸命戦いましたが、悪者の親玉は、ついにビブリアの女王さまを捕らえてしまいました。
そこに現れたのは、この国の英雄のシックザールとアルメリア!
二人は悪者たちをこらしめ、別の世界に追い出しました。
だけど、このままでは安心できません。
悪者たちが、またおそってくるかもしれないからです。
二人の英雄は、悪者を追いかけてビブリアから旅立ちました。
それから二人の姿を見た人はいません。
だけど、みんなはきっと忘れることは無いでしょう。
誰よりもまぶしい二人だったんですから――。
最後のページを読み終える。ページを押さえる指が震えていた。
「ふ、ふん……バッカみたい! 面白くも何ともなかったわ! ただの子供だましの絵本じゃない!」
「おい、シャイニー。何もそんなことを言わなくても」
「何より腹が立つのわねぇ!」その絵本を仇のようににらみつける。「絵本っていうのは、普通ハッピーエンドになるもんでしょう? だけどこれじゃ、アイツが戦って戦って、最後はみんなのために犠牲になっただけじゃない! 確かにそれが事実だけど、こんな救いの無い本なんて欠陥品よ!」
一気にがなり立てる。シックザールの伝記としては正しいのかもしれないが、改めて彼の壮絶な人生を突き付けられただけとも言える。シャイニーは途中から読むのが苦痛になっていた。
「いや、そうでもないぞ?」
ネイサがゆっくり首を振る。
「裏表紙を見てみなさい」
「裏表紙……?」
それがどうしたというのか。しかし言われたとおりに、絵本を裏返してみる。
「――あっ」声が出た。
そこには、笑顔のみんながいた。
シックザールとアルメリアはもちろん、シャイニーにネグロ、ネイサ、その他数多くのビブリアの住民の笑顔だ。こんなに無邪気な笑顔は見たことが無い。
「それはコピィの願望だったんだろうな」ネイサが絵本に触れながら言う。「あの子から聞いていたよ。コピィは小さいのに、一丁前に自分のことを気にしてくれているって。
きっとコピィは、シックザールに笑顔でいてほしかったんだろうな。私やアンサラーのせいで、あの子は自分の運命に振り回されてばかりだったから……せめて自分が本に成るときは、笑顔の姿を残したかったんだ」
かわいらしいタッチで描かれた笑顔は間抜けで、底抜けに明るい。この絵を見ているだけで、自分もつられて頬が緩んできそうだ。
「泣いているのか?」ネグロが訊く。
そんなはずはない。これは人を笑顔にするものだ。
それなのに、シャイニーの目からはとめどなく涙が流れ続けていた。




