十八話【はるか昔の話】
今よりもはるか昔、まだビブリアという世界が生まれて間もないころだった。
ビブリアのはずれにあるネイサの居城。そこに一人の白本が駆けていった。稲穂のように金色の髪を揺らしながら、その少年は居城の中に潜り込む。使用人の装者の横を通り抜け、ネイサの部屋の扉を勢いよく開け放った。
「ネイサ様! 本を読みに来ました!」
叫ぶように言うと部屋の中に転がり込んだ。その部屋は洋風の居城には似つかわしくない畳敷きの和室で、緩いTシャツにロングスカートというラフな姿のネイサが寝転がっていた。右手には本を開き、左手にはかじりかけの煎餅をつまんでいた。
「なんダ、アンサラーか。もう少し静かにしなサイ」
「いーじゃんいーじゃん! どうせ誰も口答えしないんですし」
「まあ、そうダけど。今日は何の本ヲ読みたい?」
「どうしよっかなー? めぼしいものは読んじゃったし、とりあえず“あの場所”に連れてってもらえませんか?」
「本当にお前はせっかちだナ」
ネイサはのそりと体を起こして、おもむろに右腕を掲げてパチンと指を鳴らす。すると和室は一瞬にして青空に変貌し、二人を囲むように無数の白い書架が浮かび上がった。ネイサは自分の能力に名前を付けていなかったが、アンサラーはその光景から“空中図書館”と名付けていた。
「何度見てもすごいですよね。ただ、僕には難しい本が多いのが残念ですが」
「お前には読めない文字も多いからナ。後から生まれてくる白本たちは、言葉に不自由しないように改良してやらねバ」
「いいなあ、僕の後輩たちは。まあ、僕にはネイサ様から授かった力がありますけど」
そう言うと、アンサラーの腕の皮がペラペラとめくれ始める。その一枚一枚には彼が旅先で記録してきた物語が事細かに書かれていた。
「コラ! 再上映はむやみに使うんじゃナイ」
「わかってますよぉ。こんな能力が無くっても、僕の装者は優秀だから困ることもないですしー」
「まったく……。それで、読みたい本は見つかりそうカ?」
「んー……どうでしょう? まだあの辺の書架は手を付けてないですし、ちょっと探してみたいと思います」
「そうか。それなら好きにしなサイ。ワタシはさっきの読みかけの本と、ついでにお菓子を持ってくるゾ」
「わっ! ありがとうございます!」
ネイサは左手の指をパチンと鳴らすと、アンサラーを置いてその場から消え去ってしまった。さすが僕たちのお姫様はすごい、とアンサラーは自分のことのように誇らしく思った。
「……まっ、それはそうと本を探さなくちゃ」
空中図書館の移動は簡単で、水中を泳ぐようなものだった。ほんの一掻きするだけで、何メートルという距離をふわりと移動できる。そうして普段あまり寄り付かない書架に向かった。
「うっわ……やっぱり難しそうな本ばかりだなぁ」
寄り付かない理由は単純で、その書架には難しい内容の本が大量に収められていたからだ。複雑な数式と図形が大半を占めており、仮に文字が読めたとしても内容を理解することは難しいだろう。そんな本が数十冊も収まっていた。
「まるでわからん。宇宙人用の本じゃないのかな……」
そんなことを考えながら整然と並んだ背表紙を撫でていると、指の爪が一冊の本に引っ掛かった。怪訝に思って見てみると、その本は他の本と同じに見えて、わずかにサイズや材質が異なっていた。アンサラーは無意識のうちにその本を手に取ると、硬い表紙をめくってみたい衝動に駆られた。
「アンサラー? どこ行っター?」
びくりと小動物のように体を震わせる。ネイサの声だ。
「は、はいっ! ここにいます!」
慌てて書架の横から手を出して振ると、元いた場所に宙を泳いでいく。ネイサの後ろにはちゃぶ台と紅茶と茶菓子を持つ使用人。ちゃぶ台を置く(その場に浮かせる)とピタリと停止し、その上に食器を並べていく。
ネイサはちゃぶ台の下で胡坐をかくと、アンサラーに顔を近づけて尋ねた。
「どうダ? 面白い本は見つかったカ?」
「う、いや……やっぱり無さそうかなぁ。辞書みたいな本しか見つからなかったですよ」
「そう? 確かに、ここには読んで面白い本は少ないカモ。ごめんね」
「ううん、いいんですよ。その代わり、いろんな世界に行けて楽しいんですから」
そう言ってはにかむアンサラーの頭をネイサの白い手が撫でた。
「じゃあね、アンサラー。また来なサイ」
「お待ちしていますよ」
「はい、ありがとうございます! それではっ!」
函に帰る頃には日が暮れ始めていた。横から照り付ける赤い夕陽は、ネイサの居城の周囲に広がる花の絨毯に濃く長い影を作る。ネイサと使用人、門番を務める二人の装者にも見送られながらその場を後にする。
石橋を渡り、背中の居城は徐々に小さくなる。
草原の中の道で、アンサラーは立ち止まると服の中に手を入れた。腰にはズボンに挟まる形で一冊の本が挟まっていた。あの時、衝動に駆られてつい手に取ってしまった本だ。ネイサに呼ばれた時に咄嗟に隠してしまい、そのまま持ってきてしまっていた。
「ヤバいな……バレたら怒られるだろうなぁ……」
やっぱり今から返しに行こうか? そう思いながらも、アンサラーは踵を返すようなことはしなかった。
「……どうせ返すなら、中を読んでからでもいいよね」
一つうなずくと、そのまま帰路につくことにした。
ビブリアの東の街。まだ人口は百人程度と非常に小さく、すべての人が顔見知りの小さな街の中心近くにアンサラーの函があった。金色の髪を持ち、さらに再上映という特殊能力を持つことは全員に知られており、その存在はネイサの次に大事にされていた。この時代は旅先で得た物の物々交換で食材などを手に入れるところを、アンサラーはただ道を歩いているだけで得ることができた。くすねてきた本を再びズボンに挟み、両手がいっぱいになる頃にはようやく函に着いた。
「……毎度毎度悪いなぁ。ビブリアの守護者って言ったって、何か特別なことしてるわけでもないし」
「良いことじゃありませんか。あなたは存在そのものが私たちの心の支えになるのです」
「そう言われてもピンとこないんだよねぇ」
「ふふ。要は、いつも通りにしてくださればいいんですよ」
「そーゆーもんか」
若干の後ろめたさを感じながらも、もらった食材を自分の装者に手早く調理してもらい手早く掻きこむ。食事の最中も、あの本のことが気になって仕方なかったのだ。
「ごちそーさま! 僕は部屋にいるから絶対に入らないでね」
「ええ、かしこまりました。しかし、改めてそのようなことをおっしゃるなんて珍しいですね」
「そうかな? ま、まあ、とにかく頼むよ」
そう釘を刺すと、自分の部屋に入って鍵を閉めてベッドの上に寝転んだ。そしてずっと服の下に隠してあった本を取り出し、にんまりと笑みを浮かべた。本来は本を持ち出すのはアンサラーも例外ではなくご法度なのだが、今は好奇心のほうが勝っていた。
「……こっそり戻せばいいよな。それより中身だよ」
落ち着いて見れば、なかなか古い本だった。あの空中図書館に所蔵されている本は新品のようにきれいなものが多いが、この本は何度も開いた痕跡がある。ハードカバーの表紙はところどころ敗れてもいる。
そして表紙には
「MY DIARY」
と書かれていた。つまり
「ネイサ様の……日記!?」
それにしては重厚だなと思ったが、やはり罪悪感が湧いてくる。人の日記を、それもネイサ姫の日記を勝手に見るなど言語道断。中を見れば、二度と正面から彼女の顔を見ることなどできなくなるかもしれない。
しかし結果的に、アンサラーの人一倍強い好奇心と知識欲が罪悪感を上回った。むしろ、背徳感に背中を押された感もあったのかもしれない。
「本を持ち帰ってきただけでも激怒モノだからな……こうなったら、とことん悪いことしてやろうじゃないか!」
震える指先で、ついにその表紙をめくった。




