十七話【この世界の真実】
アンサラーは不機嫌だった。理由は単純で、自分の思い通りに事が運んでいないからだった。
かつてアンサラーはメルマドーレという女のヴルムに自分の能力を使い、無数の蜂を使役する能力を授けた。その蜂は発火する毒液を体内に蓄えているだけでなく、監視カメラのように目にした風景を自分の主人に送ることができる。アンサラーは蜂の目を通してビブリアの現状を見てきた。
そしてわかったことは、自分の部下であり仲間であるクーペ・クーパーとメルマドーレが敗北したことだ。特にメルマドーレの敗北は大きく、彼女に託していた蜂のコントロールを失ってしまった。消火活動をほぼ終えたビブリアの街並みを再び火の海にすることも、全域を監視することもできなくなってしまった。
加えて、ネグロたちを始末するのに時間を浪費してしまった。シャイニーの捕獲失敗に始まり、装者たちの連携、自分の主人を見捨てないネグロの気高さ。その苛立ちからすぐに勝負を決められず、相手をいたぶる嗜虐心で時間を無駄にした自分の浅はかさを恥じた。
そんな心の動きを見透かしたのか、彼を肩に乗せるエスティエインは「オォン?」と低くうなった。
「なんだい? 何か言いたそうだな」
「アオォ……ゴゥ、コオォ……ンムゥ?」
「わかってるよ。精神年齢が低いのは治りそうもない。というより、僕はそれほど悪いとも思ってないから治すつもりもないよ。そういうお前は、昔から頭の柔軟性というか、遊び心みたいなのが足りないんだ」
「ンン……ドゥドゥ……」
「バカ、そんなことで落ち込むなよ。これだけお前の体を大きくしてやっても、気の小ささは昔のままだな。お前はこれから、この国の新しい王になるんだぞ」
「ムゥ……オオォゥ!」
「そうだそうだ。気を強く持て。王たるもの威厳は必要不可欠だ。うつむいたままじゃ、誰も僕たちを認めてくれないぞ。あの頃のようにな」
巨人の肩に乗るアンサラーは右を向いた。そこには自分の身の丈もあるエスティエインの巨大な顔があり、眼孔には黒真珠のような漆黒の目玉が収まっている。その瞳は見えないが、アンサラーは自分と彼との目が合っていると認識していた。他の装者たちの何倍も生きてきた彼らには、言葉にできない心のつながりができていた。
以心伝心。アンサラーの能力による過度の改造によって言葉を失ったエスティエイン。彼はそのことを悲観することなく、進んで受け入れた。その心意気に応えてやりたいとアンサラーも覚悟を決めていた。かつてビブリアとネイサに反旗を翻して敗北した、その轍を踏むことなどしない。
ここまでにいくつかの失敗はあったが、最大の懸念事項であるネグロの動きは封じた。ネイサに続いてこの国の精神的支柱であるだけに、残された白本と装者たちの士気は大きく下がる。そうなれば支配することは容易になる。さらにアンサラーには、彼らの士気を下げるどころか、逆に自分たちの味方に引き入れる“ネタ”を持っている。
「さあ、少し早めに歩こうか」ズン……ズン……と街に響く地鳴りのテンポが速くなる。「ここからならよくわかる。あそこに人が集まっているな」
ビブリアの町はずれには小高い丘がある。風上にある丘には火の粉も煙も届かないので、装者たちはこの地に人々を避難させたようだ。安全には違いないが、自分たちが今日まで暮らしていた街の悲惨な光景を見下ろすことになるのだから、その心情は決して穏やかではないだろう。そして今、彼らは絶望を目に湛えて巨人を見上げていた。
「やあ、ビブリアの諸君。初めまして」
エスティエインの頭の上からアンサラーが軽い挨拶を送る。太陽を背にする彼の姿は、見上げる人々の目には神にも悪魔にも見えたことだろう。目の前には千を超える人々がいるが、アンサラーは彼らに反抗する気力が無いと確信していた。正確には何人かの装者が敵対心を隠しているのを感じ取っていたが、それもすぐに収められるとわかっていた。
しかし一応、釘を刺すことも忘れない。
「こんな大昔の犯罪者に、熱烈な歓迎ありがとうございました。ここに来るまでに向かってきた装者たち――五十人くらいでしたっけ? 彼らは先に旅立ったようですよ。天国か地獄か、もっと別のどこかかもしれませんが」
もともと静寂に包まれていた現場がより一層静まり返ったように感じられた。この世界から弾かれた自分たちが、この世界の一部を今支配している。その優越感に酔いしれそうになるが、それではネグロたちの戦いの二の舞だ。ネイサの対応が遅れている間に、完全に彼女を孤立させなければならない――そのための“ネタ”をようやく披露する時だった。
「時にお前たち。自分たちが何のために生まれてきたのか理解しているか?」
当然ながら、恐怖から誰も言葉を発しない。アンサラーは一つため息をつくと、目の前にいた白本の少年に同じ質問を投げかけた。
「そ、それは……」
少年はキョロキョロと助けを求めるように周りを見回した後、しどろもどろになりながらも答えた。
「ぼくたち白本が生まれてきたのは……立派な本に成るためです。たくさんの物語を経験して、それを体に刻んで、ネイサ様の本棚に並べられる……それがたった一つの目的です」
「うむ、いいぞ。装者のほうはわかるかな?」
「はい。えっと……装者は、白本を守るための人たちです。だから白本と装者は、お互いに契約して、一緒に旅をするんです」
「うむ、模範解答だ。きっと君は良い本に成れるぞ」
少年は安堵したように大きく息をついた。周りの大人たちも同じことをしている。
「彼の言ったとおりだ。白本は本に成るために、装者は白本を守るために存在する。しかしお前たち、肝心なことを忘れていないか?」
肝心なこと? にわかに場がさざめくが、答えは出ないようだった。
「わからないか、それも仕方ない。なぜなら、都合の悪いことは意識に上らないように操作されているからだ。この世界をつかさどり、すべての白本と装者の産みの親である彼女なら造作もないことだ」
――なんだって?
――都合の悪いこと?
――彼女って……まさか。
そんな声がそこかしこから挙がる。誰もかれもがアンサラーの次の言葉を待ち望んでいることが視線から伝わる。彼にとってはネグロたちの戦い以上に、この場が正念場だった。
「そうだ! 僕たちは、ネイサ姫のとある目的のためだけに生み出されたのだ! あの女の自己満足のために僕たちは生み出され、命を懸けた冒険に身を投じ、多くの白本と装者たちが苦しみに悶えてきた! それを決して許してはいけない!」
――とある目的?
――なんだそれは?
――ネイサ姫は何を隠している?
場の熱気と疑念がほのかに上がっていく。このタイミングだ。アンサラーはこの世界の真実をついに口にした。
「この世界は、ネイサ姫の『人間になりたい』という願いを実現するために作られたのだ! 僕たちはその身勝手な願いを実現するために生み出された駒に過ぎない――それがこの世界の真実だ!」




