十話【その頃の二人】
「なあ、シャイニー」
「なーに?」
「君、最近やたら俺の函に来るな」
「何よ、悪い? 主人が従者の家に行くのがそんなにおかしいことかしら」
ネグロは主人が愛用する予定のゴスロリ服を縫いながら、視線を寄越さずに答える。
「別におかしいとは思わないさ。俺はまたてっきり、君が蜂を怖がってここにきてるんじゃないかと思ってね」
「……そんなわけあるじゃない。このシャイニー様が、あんなちっぽけな虫相手に」
そう言ってシャイニーは、彼の向かい側のソファーで脚を組むと、宙をデコピンで弾いた。蜂なんぞ指一本で十分だ、という意思表示だ。
「ふうん、そうか。さすが俺のご主人様だ」ネグロは手を止めると正面のシャイニーを見て、その後窓の外を見た。「おっ、蜂がガラスに止まってる」
「ヒィッ!?」
彼女の小柄な体が驚いた猫のように跳ねる。ソファーの脚が片方浮き、そのままバランスを崩してシャイニーごと倒れた。テーブルの上の裁縫道具を巻き込みそうになるが、ネグロは両足でひょいとテーブルを持ち上げることでそれを回避した。
「ああ、すまん。蜂なんていなかったよ。ところで急にずっこけて、どうしたんだ?」
「ネ、グ、ロォ~~ッ!?」
変わらず針仕事を続けているネグロに飛び掛かった。この日はゴスロリにバンクロックを混ぜ込んだ服装で、機能性の欠片もないベルトや、熊に引き裂かれたのかと思わせるボロボロの生地が、無駄に彼女の凶暴性を増していた。しかし身体能力は普通の女の子以下なので、ネグロは黙って殴られながら構わず自分の仕事を続けていた。
「――むっ?」
先に異変に気が付いたのはネグロだった。ふりふりのゴスロリドレスをテーブルの上に置くと、窓の向こう、遠くの方へ視線を飛ばした。
「な、何よっ? 蜂なんていないわよ?」
「まだ引きずってるのか。君もよく見てみろ」
ソファーから降りて窓の外を睨む。ネグロほど視力は良くないが、それでも何が起きているのかは一目瞭然だった。
「火事?」街外れにあるこの場所からでは炎は見えないが、もうもうと立ち上る煙は一目でわかる。火事、それもかなり大規模のものだ。街中が燃えていると言っても過言ではないほどの。
窓に貼り付いていると、後ろからネグロから質問が飛んだ。
「どうする? 初めに言っておくが、俺は消防士でもレスキュー隊員でもない。ここはプロに任せるのが一番だと思うが」
「そんなもの決まってるでしょ」振り返って自分の従者を見上げる。その目は正義感の炎に燃えていた。「一人でも多く助けに行くわよ!」
「そう言うと思っていた」ネグロは既に着替え終わり、両手には消火器を手にしていた。「なんせ、俺のご主人様だからな」
ネグロの函の敷地は広い。その多くは畑になっているが、庭の一角には倉庫がある。
「よっと」倉庫入り口のシャッターを開けてもらうと、暗がりに光が差し込む。倉庫の中は農機具や肥料など、農作業で使うものが大半だが、その中央には一台のバギーが鎮座している。ビブリアには数少ない自動車の一つだ。しかしネグロはこのバギーに乗ることは滅多に無く、シャイニーも乗せてもらったことは一度も無い。
「ついに、これに乗れるのね」
「急ぎだからな。ガソリン代は高いし、目立つからあまり乗りたくはなかったんだが……背に腹は代えられない。それより、君はそれを持ってきたのか」
シャイニーの頭には、先ほどまで無かったミニハットが斜めに乗っかっていた。光沢の無い黒くシックなハットに、フリルの付いた赤いリボンが眩しい。
「だって、外は蜂がたくさん飛んでるじゃない。それに、何だか胸騒ぎがするのよ」
「そうか。まあ、テストにはちょうどいいかもな。落ちないようにしろよ」
「それはミニハットのこと? それとも、このバギーからってこと」
「両方だ」
二人は並んで乗り込み、エンジンを掛ける、ドスンバスンと軽く爆発するような音と共に排気ガスが倉庫に充満していく。
「ゲホッ! ちょ、ちょっと! この車壊れてるんじゃないの!?」
「いや、大丈夫のはずだ。あまり整備していないから、最初はちょっと調子が悪いだけのはずだ」
「全然自信無いじゃない!」
高名な装者であるネグロが珍しくはっきりしない態度を取るものだから、シャイニーは気が気ではなくなった。
「よし、じゃあ行くぞ」
「待った待った! サイドブレーキ! クラッチ! スタートはゆっくり!」
中心街に向かうにつれて、予想していたよりも大きな火事に発展していることがよくわかった。まさに阿鼻叫喚。誘導に従って人々は火の手が激しい街の中心から離れているが、みな申し合わせたようにこの世の終わりが来たかのような表情を見せていた。ビブリアにおける火事とはそれほどの大災害だった。
「うげぇ……」
バギーの助手席で伸びているシャイニーも、彼らに負けず劣らずの絶望的な表情を浮かべていた。
「うっぷ……」
「おいおい、やめてくれよ。吐くなら降りてからにしてくれ」
「は、吐くわけないでしょ……このシャイニー様ともあろうものが……」
不屈の魂と女のプライドで吐き気を押しとどめると、街の惨状に目を移した。
「消火活動はあまり進んでないようね。この火の勢いじゃ仕方ないかもだけど」
「そうだな。今は人々を安全な場所に誘導するのが精いっぱいだろう。ほら、さっそくお呼びだ」
ネグロが顎で通りの隅の方を指す。人の波をかいくぐるようにして一人の装者が走り寄ってきた。若い男の装者で、顔には煤と汗が混ざったものがこびりついている。
「ああ、やはりネグロさんだ! 酷いバギーのエンジン音が聞こえたから、やはりと思いましたが」
「その話はよしてくれ」苦い顔で話を逸らす。「何が起きているんだ? ただの火事ではなさそうだが」
「はい。信じがたいことですが、最近街中を飛んでいた蜂が火を点け始めたんです。一斉に放火が始まったようで、とても我々だけでは手が回りません」
説明を続けながらも、彼は人の流れや同僚の動きに目を光らせていた。それをあざ笑うかのように火の粉は舞い上がり、今も蜂がちらほら飛び回っているのが見える。
「ネグロさん。今は一人でも人手が欲しいところです。勝手な願いですが、我々の手伝いをしていただけませんか?」
「それは――」
ネグロがこちらを見下ろす。シャイニーは一つため息をついた。
「訊くまでもないでしょ? 行ってきなさいよ」
「ああ、そうだな」
「ごめんね、シャイニーちゃん。少しネグロさんを借りるよ」
男に引かれる形でネグロの背中が遠ざかっていく。シャイニーの倍以上もある大きな背中は、人の波に紛れてすぐに見えなくなってしまった。
「……一人になってしまった」
バギーの助手席に立ち、フロントガラスの上で頬杖をついた。すれ違う人に「君も早く逃げなさい!」と声を掛けられることもあったが、丁重に断った。ネグロがいれば安心だから。
ただ、もどかしくもあった。シックザールも、ネグロも、ビブリアが窮地に立たされた時には最前線で戦おうとする。もちろん、それだけの実力があってこそという前提もあるが、それに対して自分は何もできていない。今もこうして車の上から見ているだけだ。頭の上のミニハットに手をやる。
「ワタシだって特別なはずなのに、どうしてこんなにも差が出るんだろう」
つい口に出してしまったが、その声はあっという間に掻き消された。
思えば、異世界への旅に出始める前は自分でも恥ずかしくなるほどの自信に満ち溢れていた。自分にできないことは無く、誰よりも素晴らしい本に成れるものだと信じて疑わなかった。
しかし、その自信はいつの間にか萎えていた。何度も辛い局面や、力不足を痛感させられたせいかもしれない。今では、ライバルと勝手に決めつけていたシックザールと顔を突き合わせることができる自信も無い。
ハア、とため息をつかざるをえない。もう一度ミニハットに触れた。
いつの間にか避難はかなり進んだようだ。ネグロたちの誘導が適切だったのか、別のルートを選択したのか、バギーの横を走る人はもういない。ときおり砂埃と灰、熱風が吹き抜ける程度だ。
そろそろネグロも帰って来るかな。そう思った時だった。
――ズン
車体から大きな振動が伝わった。どこかで大きな建物が倒壊したのだろうか。そう思って視線を巡らすが、既にこの惨状なので、変化らしい変化も見当たらない。早く帰ってこないかなと、再び頬杖をついた。
――ズシン
まただ。同じ振動だ。大きさも方角も同じ。偶然とは思えなかった。
「……足音?」
頭に浮かんだのはそれだった。しかし、そんなことがあるだろうか? それこそ家一軒ほどの体格がなければ、今の足音を響かせることはできないはずだ。それほど大きな生き物はこの国には存在しない。
何? 何がいるの?
首をせわしなく動かし、周囲の景色に目を光らせる。すると、建物の屋根と屋根の隙間から、ちらりと黒い影が見えた気がした。バギーの後方だ。ほんの一瞬だが、それは巨大な人の頭のようにも見えた。
「……って、そんなわけないでしょ。何かの見間違いで……」
目を凝らすが、謎の黒い影は建物に隠れてしまった。その建物が
ゴォンッ!
突如はじけ飛んだ。躯体の木片や漆喰などが弾丸のように降り注ぐ。慌ててその場で丸まったシャイニーの背中にパラパラと細かい屑が落ちてくる。
「な、何っ!」おそるおそる座席の陰から顔を覗かせる。
シャイニーは目を見張った。建物を巨大な黒い腕が貫いていたのだ。その腕は手をグーからパーに変えると、横に引き裂くようにして建物を上下二つに分けてしまった。屋根の側は次第にずり落ちていき、路面に落ちて砕け散った。
「嘘……あれは、あれって……」
ずり落ちた分だけ建物が低くなる。そこから見えたのは、人の顔だった。全てが黒く塗られているためわかりづらいが、がっしりとエラが張り、髭もわずかに見て取れる。それ以上に目を引くのは、額から生える巨大な一本の角と、頭部を取り囲む五本の角だろう。
そしてもう一つ。カブトムシの角を頂く黒い巨人の肩に、線の細い一人の男が座っていた。
「あれって……シックザールじゃないの!」
服に付いた埃をはらい落すと、その巨人の元に駆け寄った。事情はよく分からないが、あれがシックザールというのなら、あの黒い巨人も彼の能力の一部なのかもしれない。
こんな場所で一人にされたことがシャイニーの判断力を鈍らせたのかもしれない。そもそも彼には、街をむやみに破壊する理由がない――考えなくてもわかることだった。もしくは、煙で視界が悪くなっていたせいかもしれない。
「シックザー……ル?」
巨人の足元に到着したところでシャイニーの脚が止まった。それどころか後ずさりを始めた。
「おや? お前は――そうか、シャイニーという小娘だったな」
男はシックザールと同じ金色の髪を持っていた。しかし、その声も姿も全くの別人だった。




