一話【ビブリアの朝】
窓から差し込む朝の陽ざし。その光が窓から入り、散らかった室内を明るく照らす。
窓際には、一台のベッドが設置されていた。そのベッドの上、一人の少年が毛布に包まっていた。顔まで覆うように被った毛布の下から、彼の淡い金色の髪が覗く。
なかなか目が覚めない少年の耳に、小鳥たちのさえずりが届く。甲高いその鳴き声に嫌悪感を示し、毛布がもぞもぞと蠢く。そんなことはお構いなしに、小鳥たちはしつこいほどに鳴き続けた。
「…………だあ~もう! うるさいんだってば!」
少年は毛布を反対側の壁まで放り投げると、窓を開け、外に向かって大きな口を開けて叫んだ。小鳥たちは役目を果たしたかのように、呆気なくその場から飛び立った。偶然抜け落ちた一枚の羽根が彼の鼻をくすぐり、「ぶあっくしょん!」くしゃみが出た。鼻をすすりながら、少年は自分の体をポリポリと掻いた。
白本の少年シックザール=ミリオンの朝は、いつも騒がしいものだった。
「おはようございます。シックザール様」
キッチンでは、エプロンをしたアルメリアが朝食を作っていた。シックザールが目を覚ました時、彼女は必ず何らかの家事を行っている。炊事、洗濯、掃除……身の回りのことは、ほぼ全て彼女が担当していた。彼女はシックザールより遅く就寝し、早く目を覚ます。そのため、彼はアルメリアの寝顔を見たことが無かった。
「おはよう、アルメリア。ご飯はいつできるかな?」
「もうすぐです。少々お待ちください」
アルメリアがそう言うのなら、本当にもうすぐなのだろう。シックザールはあくびをしながら、自分の部屋に戻った。
彼の部屋は、基本的に散らかっている。アルメリアがいつも掃除してくれるのだが、外の世界を旅した際に、何らかのお土産や記念品を拝借してくることが多く、物が増える一方なのだ。アルメリアが不用品を捨てようとすると、たいていそれを拒んだ。
しかし自室の一角だけ、常に片付けられているスペースがある。それは、栞を作るスペースだ。栞は、外の世界を旅する際に必ず必要になる物である。そのためシックザールに限らず、白本は皆、栞の作成と保管のスペースだけは重要視している。白本によっては、一室丸ごと栞のための部屋を設けていることもある。
シックザールは吊り下げられている栞を撫でた。常に何本かストックがあり、そのほとんどは赤色だった。彼は赤が好きなのだ。しかし、そのうちの一本は日に焼けており、少しくすんだようになっていた。
「シックザール様―! 朝食が出来上がりましたー!」
新しい栞でも作ろうかなと思ったときに、アルメリアの声が届いた。彼はもう一度栞を撫でると、朝食の並ぶリビングに向かった。
それが“ビブリア”における、彼らの日常の風景だった。ビブリアとは、シックザールのような白本たちと、アルメリアのような装者たちが暮らす国だ。国といっても、天体の上にある一国だとか、どこか別の国と国境を接しているだとか、そのようなことはない。この世界には、この国しか存在しないのだ。
ビブリアは、一人の姫が治める小さな国である。そこでは日々白本が生まれ、本になるために生活し、旅に出ている。他の国との交流などはもちろん無く、その必要もなかった。この国は、この国一国で完結していた。
「ふーっ。ごちそうさま」
「お粗末様です」
アルメリアが片づけを始めたところで、シックザールは支度にとりかかった。前回の旅の疲れもすっかり無くなり、この日は新たな世界に旅立つのだ。歯磨きと洗顔を終えると、旅用の服装に着替える。雨などに弱い白本たちは、基本的に自分の肌の露出を避ける服装を心掛けている。彼の場合、厚手のマントを好んで着用していた。
「さて、今日はどの色にしようかな」着替え終わったところで、最後に栞を地毛に結び付ける。「この前も赤だったから……今日は緑にしようかな」
手早く栞を後頭部の髪に結び付けると、自分の部屋を出た。リビングでは、食器洗いと身支度を整えたアルメリアが椅子に座っていた。
「相変わらず、準備が早いよねぇ」
「シックザール様をお待たせするわけにはいきませんから」
「うん、いい心がけだ。それじゃあ行こうか」
玄関扉を開けて、二人は軽やかに飛び出した。
ビブリアは、東西南北の四つに区画が分かれるシンプルな構造になっている。白本と装者が暮らすのは、ビブリアの東側だ。
この国において一般的な住居や店舗などは“函”と呼ばれている。白本は必ず、函と共に生まれてくる。正確には、まず函が建ち、その中で白本が生まれるのだ。そのため、白本と函は一セットとなっている。
東の街には、そのような函が立ち並んでいた。街の規模自体は小さいが、毎日多くの白本と装者たちが行きかっている。何も知らない人間が見れば、普通の人間の街と見分けがつかないかもしれない。
その街の中を、シックザールとアルメリアは悠々と歩いていた。
「おっ、シックザール! 栞なんか着けて、今から旅に出るのかい?」
「うん! ちょっくら行って、いい物語仕入れてくるよ」
「アルメリアちゃん、シックザールちゃんをよろしくね~」
「はい、お任せください」
「ザール兄ちゃん、帰ってきたらオレん家で遊ぼうぜ!」
「ああ、そうだな。何かお土産持っていくよ」
シックザールと、その従者であるアルメリアは、この街では人気者だった。というのも、シックザールには他の白本たちと違う特徴があったからだ。それは――
「相変わらずふんぞり返っているわね、シックザールゥ……!」
「うげっ、シャイニー!?」
二人の歩みを妨げる様に、同じく白本と装者の二人組が立ちふさがった。一人は、煌く銀髪をなびかせる小さな少女。もう一人は、その少女の何倍もの体格がありそうな褐色の肌の大男だった。
「ちょっと! 女の子に向かって『うげっ』て何よ、『うげっ』て!」
「うるさいな! お前なんて、まともに挨拶する気もないよ。『うげっ』で十分だっての!」
「くあーっ! このクソガキーッ!」
「なにがクソガキだ! お前の方が、ボクよりちっこいだろ!」
「ちっこいって言うなーーーーッ!」
ポカスカと殴り合うシックザールとシャイニー。それはいつもの光景で、街の人たちは止めようとせず、逆にはやし立てていた。
残された二人の装者はというと――
「ネグロ殿。またお会いできて光栄です」
「ああ……」
「また、わたしの剣のお相手をしていただけないでしょうか? 装者として、もっと腕を磨きたいのですが」
「ああ、暇があったらな……」
「また、ネグロ殿の冒険譚をお聞かせ願えますか?」
「ああ、時間があったら……」
弾んでいるとも言い難い会話をしていた。ネグロと呼ばれた大男は生返事を繰り返すばかりだったが、アルメリアにとってはそれでも満足そうだった。経験豊富な先輩装者であるネグロは、まだ経験の浅いアルメリアにとっては憧れの存在でもあった。
装者の二人が静かな会話をしているうちに、白本の二人は胸倉をつかみ合っていた。そもそも体力の無い白本二人の喧嘩は、最終的には毎回この形に落ち着くのだ。
「ボクはな! 白本の中で唯一、姫様の腕の中で生まれたんだ! 誰とも違う、特別な白本様なんだぞ!」
「そんなの、アンタのホラ話でしょ? ワタシなんて、この国で初の電子タイプの白本なのよ! いつかワタシがお姫様として、この国に君臨してやるんだから!」
「お前が姫様になれるもんか!」
「なにをっ!? この姫コン!」
再びつかみ合いが始まろうかというところで、ようやく二人の装者が動き出した。アルメリアはシックザールを後ろから抱きかかえ、ネグロはひょいとシャイニーの小さな体をつまみ上げた。引きはがされた二人は、それでも熱い視線をぶつけて火花を散らしている。
これが、二人の喧嘩の一部始終で、毎回大まかな流れは一緒だった。
「あーあ、もう終わりか」
「今日こそは、シャイニーちゃんが勝つと思ってたんだけどな」
「いやいや。シックザールの坊主も男の子の意地を見せるさ」
勝手な感想を述べながら、街の人たちは自分たちの生活に戻っていった。野次馬連中は歩き出し、街に人の流れが戻る。
「フンッ! 今日はこのくらいにしといてやるよ。ボクらはこれから、外の世界に行かないといけないからな」
「ハンッ! 早くしないと、ワタシの方が先に本になるんだからね。せいぜい、そのアルメリアに愛想つかされないように頑張りなさいな」
ゴツン!
額をぶつけ、超至近距離で睨み合う。再び装者の二人に引っぺがされると、アルメリアは一礼し、アグロは軽く手を振り、各々の道へ戻っていった。
「……毎回毎回大変ですね。シックザール様」
「ボクだって、好きで毎回喧嘩してるわけじゃないさ。それに、大変だっていうのなら、ネグロさんの方がよっぽど大変だろうけどね」
二人は振り返り、シャイニーとネグロの後姿を見た。シャイニーは女の子らしい、ふりふりのフリルがたくさんついた可愛らしい服装だった。
そして、ネグロも似たような恰好をしていた。色は黒色を基調としており、シックな色合いではあったが、身長二メートルにも達する大男が女の子のような服装をしていることは、滑稽を通り越して恐怖すら感じさせた。
「シャイニーのセンスに付き合わされるんだからね。せめて、女の装者なら良かっただろうに」
「しかし、シャイニー殿の命令を従順に守るその姿。装者として、わたしも見習いたいと思います」
「いや、その点はアルメリアも結構なものだと思うよ」
言うが早いか、シックザールはアルメリアの両棟を鷲掴みし、むにゅむにゅと揉み始めた。彼女の頬が若干上気するが、嫌な顔一つせず、されるがままになっていた。
「ねっ。アルメリアは自信を持っていい」
二人は街を出ると北に向かった。ビブリアの北側には広大な森が広がっており、多種多様な動植物が暮らしている。その中を、一本の石畳の道が貫いていた。白本と装者がこの先の“目的地”に行く際には、必ずと言っていいほど通る道だ。
やがて森を抜けると、その目的地は目の前に現れた。
「相変わらず、何度見ても迫力があるね。混沌の炎は――」
石畳の先は巨大な穴になっており、その穴の中で、巨大な白い炎が揺らめいていた。炎の先は吸い込まれるように天に伸びており、その先を見ようと上を向くと、首が痛くなる。
石畳は石橋につながっており、その石橋は炎の中心に向かって伸びていた。白本たちが外の世界へ移動するためには、この石橋を渡り、炎に自分の身を投げ入れなければならないのだ。
「初めてここに飛び込んだ時は怖かったけれど、慣れてしまえば函の中に入るのと変わらないね」
シックザールは、もうずいぶん前になる、初めての旅の時を思い出した。
「……さて。まだ昔に思いをはせるほど、ボクも経験を積んでいないけどね。じゃあ、アルメリア。手をつないでね」
「はい、シックザール様」
二人は手をつなぎ、石橋の上を歩き出す。時折白い火の粉が飛んできて、服や頬に当たる。反射的に目を閉じるが、全く熱くはない。混沌の炎は炎の形を成しているが、通常の炎とは全く性質の異なるものだ。しかし、それを心から理解するのは意外と難しく、白本の一部はこの時点で心が折れてしまう。混沌の炎に飛び込めず、物語を集めることができず、白本としての役割を果たせない。
白本と装者は、生まれたときから知っている。混沌の炎は、何らかの理由で旅を続けられなくなった白本や装者を“薪”にしていると。そうして、彼らがそれまで培った物語や知識が混沌のように混ざり合うことによって、混沌の炎は外の世界への扉を開くのだと。新たな世代の白本と装者は、散っていった先達の屍の上に、新しい物語を築いていくのだ。
「さあ、今度はどんな物語がボクを待っているのかな」
二人の体が白い炎に包まれる。本たちの国から、一組のコンビがまた旅立った。




