十四話【シックザールのこれから】
シックザールはセルファに膝枕されながら眠りに落ちていた。耳には子守歌。後頭部からは彼女の体温。眠りに落ちるのはあっという間のことだった。
「ん……」
彼女の体の揺れに反応し、ようやく目が覚めた。視線は真上に向けられた。
シックザールの顔を優しく見下ろすセルファの顔……それが無くなっていた。正確には、首から上が無くなっていた。
「許さない……」
声は横から、つまり床の上あたりから聞こえてきた。
そちらを向くと、セルファの首があった。真っ平らな断面を足にして、正面から見返して来る。
「お前のせいで……あんな国に行ったせいで……アタシはこんな姿に…………!」
目を剥き、歯を剥き、彼女の顔は鬼のように歪んでいく。
血の混じった涎を吐き出しながら、首だけになったセルファが動いた。首は数センチ飛んだが、シックザールに噛みつくことは敵わず床に転がるだけだった。顔を床にこすりつけながら上目遣いで睨む。目は血走り、今にも血の涙を流しそうだった。
痛いほどの視線を受けながら、シックザールは無言で起き上がった。首を失った彼女の胴体は後ろに崩れ落ち、どすんと重たい音を響かせる。その胸には穴が開き、傷口は焼け焦げていた。
「待て! シックザァーールゥ!」
気にせず歩き出す。
そこは見たことが無い部屋だったが、外に出るであろう扉はすぐに見つかった。ペタペタと足音を立てながらそちらに向かう。
「待て! 待ってください、シックザール様! あの者の言ったことはでたらめです! お忘れですか、わたくしと過ごした日々を!? あの穏やかな日々を! あの幸せな時間を……!」
彼女の悲痛な叫びを背中に受けながらも、歩みを緩めることはない。むしろ、背中を押される気分だった。扉はもう目の前だった。
「お願い! お願いお願いお願いします! わたくしを見捨てないでください! わたくしを置いていかないでください!」
もはや彼女の懇願に意味は無かった。音声として耳に届くが、心にまでは届かない。大きなゴミがフィルターの目を通り抜けられないように、彼女の声はシックザールの心の壁に遮られていた。
「シックザール様……」
ドアノブをひねった時、彼女の最後のつぶやきが聞こえてきた。
「おとなしくアタシに利用されれば、お互い幸せだったのに」
扉を開いて外に出る。最後にシックザールは振り返り、涙に溺れる彼女の首に向かって笑いかけた。
「同感だよ。だけどそれじゃ、あいつは喜べないんだ」
扉を閉じる。意識が遠のいた。
シックザールはベッドの上で目を覚ました。ビブリアの朝日は今日も眩しく、窓から彼の顔を照らしていた。
顔を軽く洗い、髪の毛を整えてから外に出た。
郵便受けには手紙が三通ほど届いていた。届いていたと言っても、切手が貼られているわけでもなく、書いた本人が直に入れたものと思われる。
その三通の手紙は読まずに握りつぶし、ゴミ袋の中に入れた。読まなくても大まかな内容はわかる。「化け物」「殺人鬼」そういった罵詈雑言の類が書いてあるだけだから。
シックザールが再び旅に出るという情報は、瞬く間にビブリア中に広がっていた。それだけ多くの人たちが彼の動向に注目していた。
そして彼が帰ってきた時、隣に装者の姿は無かった。それはビブリアにおいて、事実上の死亡だった。
「あの装者もいなくなった! しかも、たった一度の旅で!」ビブリアの国民たちは、皆そう思ったはずだ。
彼らが再びシックザールを恐れるようになるのに時間はかからなかった。あの巨大蟻襲撃直後のように、誰もかれもが避けるようになった。好奇心旺盛な者や、嗜虐身の強い者は、再び彼を標的にした。といってもシックザール本人を直接攻撃する度胸までは無いので、陰湿ないやがらせに終始していた。
「ふわぁ……ああ、まだ眠い……」
一つ大あくびすると、外行の服に着替え、大きなゴミ袋を抱えて外に出た。
街の復興が進んだことと、シックザールへの恐怖心が和らいだことから、ゴミ出し場が近所にできていた。収集の時間も曜日も決まっているので、そこに向かえば必然的に誰かと遭遇する確率が高まる。
この日も、割と近所に住んでいる白本の男性と出会った。二回り年上で、もうすぐ本に成ろうという男だ。優しい男で、本来なら装者にやらせる仕事も自分から買って出ているらしい。
「やあ。おはようございます」
軽く手を上げ、ごく普通の朝の挨拶。
しかし相手の男は「あ、ああ。どうも」と、それだけ言うとゴミを収集所に放り投げ、そそくさとその場から立ち去ってしまった。少し前までは「おはよう、シックザール君!」と元気に挨拶してくれたものだ。
ハアとため息をつくと、持ってきたゴミ袋を放り投げた。既に積まれていたゴミ袋に命中し、ボスンと心地いい音と共に嫌な臭いが漂ってきた。
自分の函に戻ってきたシックザールが最初に行ったのは、朝食を作ることだった。これまではアルメリアやセルファに作ってもらうことがほとんどだったが、元々装者を付き従えるまでは自分でやっていたうえに、彼女らの後ろ姿は長い間見てきた。簡単な料理なら、材料さえそろっていれば問題なく作れるのだ。
一人で朝食を片付けると、すぐに食器を洗い、函の中の掃除を始めた。ほぼ毎日のように軽く掃除しているので、目立った汚れも無い。セルファと過ごしていた時と何ら変わらない。
ただし、彼女の私物は先ほどのゴミ袋に入れて捨てた。持ち主が戻ってこない以上、それは不要な物だ。売ろうにも、買い取ってくれる人物を見つけることもできない。
「――よし。こんなもんかな」
ホウキを元の場所に戻し、パンパンと手を叩く。自分の手で綺麗にするのは、面倒だが達成感がある。かつてのゴミ屋敷に近い状態が嘘のようだった。
「さて……あとは、いたずら防止用のトラップの設置か。その前に、肝心のトラップをもらってこないとな」
シックザールは自室に入ると、タンスの中から一振りの短剣を取り出した。それはマリキタの装者の武器で、宝石剣を折られたアルメリアが一時借りていたものだ。既に用無しとなった短剣は、現在シックザールが譲り受けた。
それを腰のベルトに無造作に差すと、今度はヴルムの村に向かった。
この日のマリキタは珍しく鍛冶仕事をしておらず、母屋でゆったりと茶を飲んでいた。その隣では、アリンコが茶菓子を口に入れながら彼に話しかけていた。比較的無口なマリキタは「ああ」とか「そうだな」とか素っ気ない相槌を打つだけだったが、アリンコは何が楽しいのか構わずしゃべり続ける。おそらく彼としては、ただ単に話を聞いてくれる相手が欲しいだけなのだろう。そういう意味では、確かにマリキタは適任なのかもしれない。
「……ん? 何だ、お前か」
「おうっ、シックザール君じゃねえか! いらっしゃい!」
二人は話を切り上げて歓迎してくれた。シックザールも「おはようございます」と言いながら椅子に座る。マリキタは無言で木製のコップに茶を注いでくれた。ほかほかと暖かそうな湯気が漂ってくる。
「聞いたぜ? お前さん、あの良い体のねえちゃんと別れたんだって?」
それはセルファのことだ。本来なら聞きにくい話題なのに、アリンコはテーブルの上に身を乗り出して遠慮なく尋ねてきた。その勢いで落ちそうになった茶菓子はマリキタが口に放り込んだ。
「ええ、そうです。向こうの世界で色々ありまして」
「そうかそうか、それは残念だったな。いや、失礼な話、俺はあの装者と君は愛称悪いなと思ってたぜ? ああいう美人ほど、中身はどす黒く染まってるってもんよ」
「アリンコ……何か悪い思い出があるのか、お前?」
「うっせえ! 変な詮索すんな! 何もねーよ!」
「そうか。悪かったな……色々と」
「何か引っかかる謝り方だな……」
アリンコは蟻の複眼でマリキタを睨んだが、彼はそっぽを向いて茶をすするだけだった。
二人のやり取りを、声を上げて笑いながら見ていた。アリンコがセルファの本性を察していたのには驚いたが、おそらくそれはただの偶然だろう。彼が美人から手痛い目に遭っていたのは確実のようだが。
なお抗議しようとするアリンコの顔を手で押さえながら、マリキタは真剣なまなざしをシックザールに向けた。老齢ではあるが、その目は長い時間を生きてきた者特有の深い光を湛えていた。
「それで、どうするんだ? 新たな従者を失って、その後どうするつもりだ?」
無表情で、無感情の質問。質問している割に、本当に興味があるのか怪しい物だった。しかしマリキタは無口な反面、興味の無いことには滅多に首を突っ込まない。心配してくれているのだと、今のシックザールにはよく理解できた。
「旅を続けます。今度は装者を従えず、一人で」
シックザールは静かに、しかし力強くそう答えた。
セルファを失った直後から、心のどこかでそう考えていた。数日過ごすうちに、その考えは確固たるものになっていた。マリキタの家に来たのも、それを宣言するためという目的があった。
「お、おいおい! マジかよ!?」突っかかってきたのはアリンコの方だった。「白本が一人で旅に出るなんて、自殺行為だぜ!? ネイサ様に言って、新しい装者を用意してもらえばいいって! 何で急にそんなこと言い出すんだよ!」
「……何かあったのか? あの女と」
マリキタも口を挟む。この数日間、ずっと考えていたことを口にする。
「セルファとの一件で、ボクは自分の身の程を知りました。今のビブリアには、ボクを怖がる人と、利用しようとする人しかいないんですよ。ねえ、アリンコさん?」
「そ、そこで俺の名前を出すなよ……」
「ははっ、冗談ですよ」
「――つまり、装者が信用できなくなったということか?」
「それもあるんですが……ボクは強くなりたいんです。弱いままじゃ、誰かに頼ることしかできないし、頼った相手が悪人という場合もある。それに、弱いままのボクじゃあいつに顔向けできないんです」
「“あいつ“って?」
「秘密です」
キョトンとするアリンコに、シックザールはいたずらっぽく笑った。
「……なあ、シックザール君よぉ。俺は確かに君の力を当てにしてるが、心配してるってのも本心なんだぜ? 考え直してくれねえか?」
「大丈夫ですよ。みんなが知ってる通り、ボクは化け物なんです。“再上映”を使えば、ほとんど何でもできますし、黒いページを身に纏えば凄い力が発揮されるんです。簡単には死んだりしません。あとは、力の遣い方を覚えるだけです」
「そうは言ってもよぉ。せめて、もう少し落ち着いて考える時間をだな――」
どうにかして引き留めようとするアリンコの口を、マリキタの皺だらけの手が塞いだ。
「行ってこい」
短い言葉だが、力強い。何百人という仲間に背中を押された気分だった。
どうしてマリキタの言葉に、それだけの力がこもっていたのかはわからない。ただ、彼が笑みを浮かべていたのには驚いた。豊かな髭に覆われてよく見えないが、それは初めて彼が見せる笑顔だった。
「はい! 行ってきます!」
シックザールは力強く頷いた。マリキタも頷き、アリンコは窒息寸前になってその場に倒れ込んだ。
「――でもその前に、お茶をいただいていきますね。それと、いたずらっ子を懲らしめるトラップも大量にお願いします」
「……たくましくなったな、本当に」
「げほっ! ゴホッ! 何も、鼻ごと塞がなくてもいいじゃねえか……」
こうしてシックザールは新たな旅立ちの決意を整えた。その顔は、初めて旅に出た時よりも大人びて見えた。




