六話【新たな旅へ】
「ああ……お腹いっぱいだぁ……」
「わたくしも、少々食べ過ぎてしまいました……」
屋台でラーメンを食べ終えた二人は帰路についていた。多くの店が閉まり、通りを歩く人もまばらになってきた。こんな夜の街の姿も久しく見ることができなかったなと、シックザールは感慨にふけっていた。万が一、今でもシックザールを酷く嫌う人物に襲われたとしても、セルファが守ってくれるという安心感もある。そういった意味でも彼女が従者になったのは大きかった。
シックザールの函周辺は、まだ瓦礫が目立っている。街の人たちが彼を恐れなくなってきたのはつい最近のことなので、作業が進んでいないのだ。以前そのことでセルファに愚痴を言ったこともあったが、彼女は「この方がミステリアスで素敵かもしれませんよ?」と軽く受け流したので、それもいいかと思うようになった。
さびれた街並みを吹き抜ける風は冷たく、食事で火照った体を冷やすのには十分だった。むしろ冷え過ぎたのか、強い風が吹くたび体が震えた。
「今日は冷えますから、ほら」
震えるのを目ざとく見つけたセルファは、自分の左腕をそっと差し出した。シックザールは無言で右腕を絡めると、ついでに彼女に寄り添った。少し歩きにくくなったが、代わりにとても暖かい。片腕から熱が全身に伝わるようだった。
「ねえ、セルファ」
「はい。なんでしょうか?」
彼女は軽く首を傾げ、シックザールの顔を見下ろす。揺れる前髪からは、彼女の髪色と同じ桃色の香りが漂う。
「ボクはそろそろ、もう一度旅に出ようと思う。本に成るための旅に」
「そうですか……」
それきり、彼女の声は途絶えてしまった。しばらくの間、靴と砂利がこすれ合う音しか聞こえなかった。
何か不快にさせるようなことを言ったか? いや、今の短い一言で、一体何を怒らせるようなことを言えるだろうか……。
そんなことを考えながら、おそるおそる彼女の顔を覗き込む。すると驚いたことに、彼女は涙を流していた。月の光を浴びて、いつも潤んでいるような瞳には涙が溜まっており、頬には微かに涙が垂れ落ちた筋が見て取れる。
「あっ……申し訳ありません。お恥ずかしい所をお見せしましたね」
「いや、そんなことはないけれど……どうして急に泣き出したんだ?」
内心ドキドキしながら彼女の返答を待つ。そうして返ってきたのは、思いがけない言葉だった。
「嬉しかったのです。シックザール様が、やっとご決心されて……」
「ああ……そうか。そうだったね」
アルメリアと別れ、ヴルムの村で腐っていること一か月。セルファが新しい従者となり、共に過ごした時間が三か月。合計四か月の間、シックザールは一度も異世界に行くことは無かった。
理由はいくつかある。単純に、か弱い自分一人では危険な異世界に行くことはできず、新たな従者が見つかるまで足止めを食らっていた。十万ページという途方もない量のページを埋めることや、このビブリアという国の在り方に懐疑的になっていた。旅の準備を始めたくても、街の人たちが協力的ではなかったなど……それらが足かせになっていた。
しかし何より大きかったのは、セルファの存在だった。新たに主従の関係を結ぶ際、互いのことを知るためにビブリアで共に暮らすのが通例だ。その期間は人にもよるが、せいぜい一か月程度。シックザールも初めのうちは、それで切り上げる予定だった。
誤算だったのは、彼女が予想以上に尽くしてくれたことだった。肌寒い日の陽だまりのように心地よい時間を、少しでも長く味わっていたかった。異世界で彼女が危険な目に遭ったり、再び別れるような事態に陥りたくなかった。そんなことを考えるうちにずるずると期間が延び、三か月に達した。
そろそろ、もう一度旅に出ようとは思っていた。加えて、シャイニーの言葉が引き金になった。
アルメリアは、自分のかつての主人がいつまでもくすぶっていることなんて望んでいない。彼女が今の姿を見たら、きっと幻滅し、「やっぱり、ヴェラード様と一緒に残って大正解でした」と無表情で言うだろう。それでは、遠く離れた彼女に合わせる顔が無い。
セルファも涙を流して喜んでくれた。この選択は間違いではない――そのはずだ。
「でも、悪かったよ。こんなことなら、もっと早く決断するべきだった。お前の気持ちも知らずに遊んでばっかりいてごめん……」
「そんな! 遊びに誘ったのはわたくしの方ですし、あなたがご決心されなければ、わたくしはいつまでもお待ちするつもりでした。三か月と言わず、一年でも、十年でも……!」
セルファは手を離すとシックザールの正面に回り、地面に両膝をついた。自分の主人を見上げるその目には、今にも零れ落ちそうな涙が溜まっていた。
「いや……もう一度だけ言わせてよ。ごめんね、セルファ……」
片膝をつき、彼女の細い肩を抱く。耳元からはすすり泣く声が聞こえる。
泣き終わるまでそっとしておこう――そんなことを考えた時、自分の体が宙に浮かんだ。実際は、セルファに抱っこされただけだった。少し目が赤く腫れているが、いつものおおらかな笑顔を浮かべていた。
「ちょ、ちょっと! 急に何するんだよ!?」
「善は急げです! 旅の準備は早いに越したことありません! 明日にでも出かけられるようにいたします!」
「落ち着けって! 確かにもう一度旅に出る決心はしたけれど、明日は早過ぎ……!」
そんなシックザールの言葉も届かないのか、セルファは彼を抱っこしたまま駆け足気味で帰路に就いた。それでも腕の中の主人を揺らさないように、上手く自分の腕をクッションにしているのは流石でもあった。
「さんざん待たせたんだし、ここは我慢だな……案外快適だし」そんなことを思いながら、揺れる腕の中で夜空を見上げていた。飾り物の星々は、いつもよりも輝いているように思えた。
結局、出発の日は三日後になった。しばらく旅に出ていなかったことから、道具をいくつか新調しなければならなかったからだ。また、それに併せてセルファの刺青も彫り直す必要があった。腕の良い刺青師なら水や空気のように流動的なものまで収納できる刺青を彫ることができるが、それでも目の前に実物が無ければ上手くいかないのだ。
そして出発の日の朝。
朝食と後片付けを終えると、シックザールはおよそ四か月ぶりにアルメリアと旅をしていた頃の服に袖を通した。埃を被っていたはずの深緑の外套も、セルファが洗ってほつれも直してくれたのか、みすぼらしさは無くなっている。
「さて……あとは」
全身着替え終わると、自室の一角に歩み寄る。そこには、外の世界に出るのに必要不可欠な栞が何本も吊り下げられている。色とりどりの栞が並んでいるが、中でもお気に入りの赤い栞が半数を占める。
シックザールはその中の一本を手に取った。赤い栞――ではなく、桃色の栞。一昨日作ったばかりの栞で、日にかざせばつやつやと光沢が現れる。三日前に旅の再開を宣言した時、この色の栞を作ることを決めていた。ただの桃色ではなく、セルファの髪の色と寸分違わぬ色合い。これには彼女に対する謝罪や、もっと単純にご機嫌取りの意味合いがあった。
その栞を後ろ髪の根元に結び付ける。薄い金色の髪の中に、桃色の栞が映える。ちょっと女の子っぽいかなと思いながらも、その色合いがすぐに気に入った。
「シックザール様。準備はよろしいですか?」
扉をノックする音と共にセルファの声が届く。扉を開けると、そこには旅支度を整えた彼女の姿があった。シックザールやかつてのアルメリアと比べると、街にお出かけにでも行くようなオシャレな洋服だった。そのことに若干の不安を覚えたが、彼女の腕前はよく知っている。たとえ屈強な人間の男百人に囲まれたとしても、鞭一本で楽々切り抜ける。それだけの強さだ。
「やはり、少しラフ過ぎましたか? あまり無骨な服や鎧は好きではないのですが……」
「そんなことないよ。セルファが攻撃を受けるなんて想像できないし、身軽なのは武器になる」
シックザールのフォローに、彼女は笑顔でうなずいた。
「それでは、行きましょうか」
「そうだね」
ビブリアの北方で生い茂る森を抜け、混沌の炎の前に出る。この場所に来るのもやはり四か月ぶりだったが、そんなことは関係ないと、偉大な炎は変わらずシックザールを迎えてくれた。
ここに来るまでに三組ほど白本と装者の二人組と出会った。少々よそよそしさはあるものの、三組ともシックザールの再出発を祝ってくれた。やはり白本は旅に出るべき存在なんだ。そう思わずにはいられなかった。
セルファとつないでいる左手が震えている。セルファの奴、どうしたんだと思ったら、それは自分の体の震えだった。
「どうされましたか?」彼女もそれに気づいていた。
「さあ、わからない。今更、混沌の炎で焼かれることなんて怖くもないのに……」
「それはきっと」彼女の手に力が込められる。すると途端に震えが収まってきた。「武者震いです。シックザール様は、心のどこかで強く願っていたのですよ。『絶対に舞い戻ってやるぞ!』と」
「そうだね……うん、そうに違いない」
認めると、ついに震えは完全に止まった。これは不安だとか、恐れだとかによる震えではない。心が奮い立っているのが、体を震わせているのだ。
「行こうか」
「はい」
二人そろって一歩を踏み出す。すぐに体は白い炎に包まれ、つなぎ合った手から離れた場所から燃え始める。背中の栞の先にも火が灯った。
「シックザール様、ありがとうございます」
全身をゴウゴウと炎が燃え盛る音で包まれる中、セルファの涼やかな声が流れ込んできた。
「急にどうした? ありがとうだなんて」
「その栞です。わたくしの髪の色と揃えてくださったのですよね」
「せっかくだからさ。今のボクの従者はお前だ。今のうちに機嫌を取っておきたいと思っただけだよ」
「あら、そうですか」
彼女の顔を見ると、意味ありげな大人の女の笑みを浮かべていた。しかしそれも、すぐに白い炎が覆い隠してしまった。体の感覚もほとんど失われている。
さあ、新たな旅の始まりだった。




