四話【変化の兆し】
この日、シックザールが目を覚ましたのは昼前だった。普段なら窓から差し込む光と小鳥たちのさえずりが目覚ましになっていたが、今日はそれだけで起きることはできなかった。
「ああ……ダルい……」
普段より長時間ぐっすりと眠っていたはずなのに、全身に脱力感が残る。激しい運動を終えた後のようだった。
何か違和感があるなと思って布団の中を探ると、下着すら身に着けていなかった。それでようやく昨晩のことを思い出し、全身が火照りだした。昨晩のことはまるで現実味が無く、淫魔によって淫らな夢を見せつけられたような気分だった。しかし、自分の今の姿とシーツに付いた染みの跡が、現実にあったことだと証明しているようだった。
「ただいま戻りました」
玄関の扉が開く音が聞こえる。とりあえず下着を履き、声の方に向かう。
「ああ、なんだ。セルファさん……セルファか」
そこに立っていたのは、昨日自分の従者になったばかりのセルファだった。まだ彼女の存在に慣れていないためか、自分の函の中に他の誰かがいるということに違和感を覚えずにいられなかった。
当の彼女はシックザールのそんな心の内を知らないようで、片手を口に当てて頬を赤らめていた。
「まあ、シックザール様ったら。はしたないですよ」
「ああ、そうだった。慌てて出てきちゃったもんだから」
「すぐに着替えをお持ちしますので、少々お待ちください」
そう言って彼女は靴を脱ぐと、パタパタと室内を走り回る。買い物にでも行っていたのか、片方の手には大きなカゴを手にしていた。肉から野菜、米にミネラルウォーターと、大量の食材が満載されている。昨日の料理はシックザールにとっては満足のいく出来栄えだったが、やはり彼女としては不満だったらしい。きっと今日から、その不甲斐なさをぶつけるように精力的に料理を作ってくれるはずだ。胸が高鳴る。
「精が付くようなお料理を作りますからね」
そう意味深に言って彼女が作ってくれた料理は、朝食と昼食を兼ねた分豪勢なものになった。肉類をメインに据えたメニューで、レバーやハツなどもふんだんに使われている。しかし味付けはさっぱりとしており、目が覚めて間もないシックザールも残さず最後まで美味しく食べることができた。セルファの方も、シックザール以上の勢いで食事を摂る。あの栄養が、あの体を作ったのかと考えると、昨晩のことが頭にチラついて気もそぞろになる。
アルメリアと一緒だったときは、彼女が無口だったこともあり、食事中に会話をするということは多くなかった。しかしセルファは真逆で、食事中でも構わず話しかけてくる。料理が冷めないかと心配になるほど、二人は会話を楽しんだ。
「何でセルファは、そんなにおしゃべりなの?」
二人で食後のお茶に口をつけている時、シックザールはおもむろに尋ねてみた。
彼女は一瞬キョトンとした表情を見せたが、すぐに微笑みを見せた。どこかバツが悪そうにも見える。
「おしゃべりが過ぎていましたら申し訳ありません。本当はこんなにおしゃべりなわけではないのですが……」
「そうなの? 信じられないな」
「面と向かって申し上げるのも恥ずかしいのですが、早くシックザール様のことをよく知りたいと思ってのことなのです。まだ、あなたの従者になって一日ですし。それにシックザール様は……あの……色々と噂をされていますから」
「ああ……それは、そうだね」
やれ、化け物だ。やれ、怪物だ。もはや聞き飽きた言葉だった。アルメリアと別れた時も、それをダシに心無い言葉をぶつけられることもあった。それも腹立たしいことに面と向かって言うのではなく、外壁に落書きしたり、郵便受けに悪意の手紙を投函したりといった遠回しなやり方だった。
「わたくしは、まるで自分のことのように悔しいのです!」
セルファが拳を握りしめる。今にもその握りこぶしが飛んできそうな迫力を纏っていた。
「お恥ずかしいことに、あの巨大蟻の襲撃事件の後、シックザール様の良くない噂を聞いて信じかけていました。あなたの存在はよく存じ上げていましたが、実際の人となりはわかりませんでしたから。
しかし、それは愚かなことだと気づいたのです。相手のことをよく知らないのに批判するだなんて。そんな資格は誰にもありません。そもそも、この国を守ってくれた方を虐げるだなんて、常識的に考えても異常です」
「……だから君は、ボクのことを知るために従者になって、ボクのことを知ろうとしている?」
「そのとおりです!」
我が意を得たりと、彼女は大きく目を見開く。
「本当に噂通りだったら……そう考えることもありましたが、それは杞憂でした。シックザール様は謙虚でお優しい方です。一緒に歩いて、言葉を交わして、体も重ねて……わたくしはそう確信しました。あなたが本に成るまで添い遂げたい……本気でそう思えるのです」
あまりにもまっすぐな言葉に押され、シックザールは椅子に座ったまま倒れてしまうのではないかと思った。
セルファの言葉は、何度も切望した言葉そのものだった。自分が誤解され、一人ぼっちになり、挫けそうになった時ほど優しい言葉をかけてもらいたい。だというのに、自分の周りにそんな言葉をかけてくれる人は誰もいなくなっていた。ようやく仲間を見つけたと思ったら、それは夢の中の出来事だったということも、何度も経験した。その度周りの物に当たり散らし、自分の家を無残な姿に変えていった。
しかし今回は違う。頬をつねっても、目が覚める気配は無い。これはまぎれも無い現実だ。
「大丈夫ですよ」
そう言って、目の前に座るセルファは身を乗り出すと、頬をつねる手をそっと引き剥がした。
「夢ではありません。わたくしはここにいますし、シックザール様の味方です。あなたの力になれるのでしたら、どんなこともいたします」
「――それじゃあ、いいかな。ちょっと恥ずかしいけれど」
「ええ、何なりと」
「――セルファの膝の上に座ってもいいかな? それで、後ろから抱きしめてほしい」
「ふふっ」そう軽く笑うと、セルファは椅子をテーブルからずらす。そして、自分の太ももをぺちと軽くたたく。「可愛いシックザール様。そんなことでよろしければ、いつでもどうぞ」
彼女の甘い言葉に誘われて、シックザールは彼女の太ももの上に腰を下ろす。クッションやソファーに腰を下ろすよりも心地よいのは、優しさも伝わってくるからだろうか。
要望通りに後ろから腕が回され、彼女に抱かれる形になる。背中から二つの柔らかい感触が伝わり、女の香りが脳を刺激する。
「あっ――」
注文に無い、後ろから頬ずりされた。弾力のある頬の肉が合わさり、さらに彼女の長い髪が首筋をくすぐる。艶のある桃色の髪からは、本当に桃のような甘い香りが漂ってきそうだった。
「いかがですか?」
「うん――気持ちいよ」
「それは良かったです」
ボクも生まれた時は、こんな風に姫様に抱いてもらっていたのかもしれない。そんなことをぼんやり考えながら、昼過ぎの穏やかな時間を二人で過ごしていた。
三か月後。
シックザールは姿見の前に立っていた。寝間着から新品の洋服に袖を通す。それは最近セルファが買ってきたもので、とある白本が異世界から持ち帰ってきた洋服を元にデザインされた、ビブリアで流行の服だ。服のどこかに花や動物があしらわれているのが特徴で、シックザールの場合は背中側のすそ辺りに、ちょこんと座った子犬が描かれている。
「よくお似合いですよ」
着替え終わったところで声を掛けてきたのはセルファだった。彼女も女性用の流行服を身に纏っている。こちらは子犬ではなく、曲線美が美しい成猫だ。ペアルックというわけではないが、仲の良さは外からでも見て取れる。
「なんだか恥ずかしいな。昔から、流行を取り入れるのは苦手なんだよね。ミーハーっていうか、流行に流されている感じって言うか」
「そういう時はですね、流行に流されているのではなく、流行に乗っていると考えてみてはいかがでしょうか。ほら。サーフィンだって波に流されているのと、上手く乗りこなしているのとでは全く印象が異なりますよ」
「わからないでもないけど、そういうものかな?」
「そういうものですよ。結局、適度に流行を取り入れている人が一番好かれるのですから」
「好かれる……か」シックザールは何度かうなずくと、彼女の顔を見上げて微笑んだ。「こういうことに関しては、セルファの右に出る者はいないね」
「恐縮です」
そう言う彼女の顔には、満面の笑みが浮かんでいた。
ビブリアの東側には、大半の白本と装者達が暮らす街が広がっている。かつて無数の巨大蟻に半壊された街は、今ではほぼ完璧に復興していた。何も知らない人が見れば、かつてこの街が戦場になっていたとは思えないだろう。
しかし、傷を負ったのは街だけではない。人々の心も同様だった。確実に直す術が無いという点では、こちらの方が深刻な問題だったかもしれない。
心の傷の内容も様々だった。財産を失った喪失感、大切な人を失った悲しみ、理不尽な災害に対する怒り。
その中でも異質なのは、シックザールに対する恐怖だった。結果的に、事件解決の立役者はシックザールに違いなかった。しかし、変質した黒い体で、事件の首謀者とはいえ人の形をした女王蟻を無残に殴り殺すその姿は、間違いなく多くの人たちの記憶に残った。そうして彼は、“ビブリアを守った英雄“ではなく”得体の知れない化け物“と認知されてしまった。
しかしそのイメージは、徐々に薄れてきたようだ。
「おはよう、シックザール君」
「シックザール君、ごきげんよう」
「シックザールお兄ちゃん……おはよお」
依然と比べれば固さはあるが、街の人たちは彼と挨拶を交わすようになっていた。依然として、彼の姿を見た途端目を逸らしたり、姿を隠したりする人はいたが、それも少なくなっていた。人々から見向きもされず、石やゴミを投げつけられたりしていたあの頃と比べれば、事態は大きく改善されていた。
「全部、セルファのおかげだよ」
彼女だけに聞こえるように、顔を近づけて小声でつぶやいた。
「この三か月間、お前はずっとボクと一緒にいてくれた。そのおかげで、ボクが危険な怪物じゃないってことが少しずつ理解されたんだ。ボク一人じゃ、絶対に誤解が解けることはなかった――本当に、感謝してるよ」
「そんな」彼女は軽く首を横に振って謙遜した。「わたくしは、ただシックザール様とご一緒していただけにすぎません。こうして人々の意識が変わったのは、あなたの行為が正しかったからです。みんな、ようやくシックザール様の功績を正しく理解し始めたのです」
「いや、あの時のボクは無我夢中だっただけだ。やっぱりお前のおかげ……」
「いえいえ、シックザール様自身のお力が……」
「いやいや、お前が……」
「いえいえ、あなたが……」
そんなやり取りを繰り返すうち、二人とも同時に吹き出した。
「……じゃあ、ボクらの努力の結果ということで」
「……それがよろしいですね」
二人の楽しい時間。足取りも軽く、セルファのために何か買ってやろうかという気持ちも芽生えてきた。
「うげっ」
そんな時目の前に現れたのは、シックザールの天敵と言える少女だった。




