七話【カラコロちゃんがやって来る】
「ハッ――ハッ――。なんだって――なんだってこんな――」
武志は布団の中でうずくまっていた。
窓からは赤い日差しが鋭く差し込んでくる。真夏の熱気は彼の部屋の中にも充満していた。加えて布団にくるまっているにも関わらず、彼の体は雪原に放りだされたかのように小刻みに震えていた。体の表面はぷつぷつと鳥肌が立ち、歯と歯がカチカチと打ち鳴らされている。布団の中は流した汗でじっとりと湿っていたが、それでも震えは止まらない。
「そ、そうだ! 警察――交番へ――!」
布団の中から亀のように顔を出すと、周囲を見渡すように首を振る。何の変哲の無い、いつもの自分の部屋。わかっているはずなのに、何度も確かめてずにはいられない。
「ニャア」
「ひっ!?」
自分の主人が出てくるのを待っていたのか、武志の飼い猫が寄り添った。半ばパニックに陥った武志は、布団を跳ねのけ部屋の隅に後ずさりした。驚いた猫も、飛び跳ねるように机の下に逃げ込んだ。
「ハア――ハア――。なんだ、お前か。驚かすなよぉ……」
涙目になりながら立ち上がると、汗に濡れた服のまま、靴を履いて外に出た。真っ赤に染まっていた町には静かに闇の帳が下り始め、暗がりが支配し始める。西の空だけが宵闇に抵抗するように赤く燃えている。
「ちくしょう。なんで、よりにもよって“この時間”なんだよぉ」
やっぱり、明日にするか? 踵を返そうとして、やめた。もう、恐怖に怯えて過ごすのは嫌だ!
その思いが、彼を突き動かしてしまった。
ちょっと暗いだけで、いつもの町だ。慣れ親しんだ駄菓子屋に八百屋に魚屋。目をつぶっていても訪れることができる。すれ違う人たちも、名前を知らない人も含めて、もはや顔なじみだ。この町全体が自分の庭のようなものだった。
「交番って、どこだっけ?」
しかし、どうしても交番に行くことができない。場所はわかっている。しかし、この日に限っては妙に人通りが多い上に、車の往来も激しい。走ろうとする度、誰かが自分の目の前に現れる。そんなことが何度も繰り返される。まるで沼の中を歩かされているかのようなもどかしさだった。
ようやく交番に辿り着いた時には息を切らしていた。普段ならそんなことは無いというのに。
「お、お巡りさん! 助け――」
交番の中に踏み込むなり助けを求める。もはや、なりふり構っていられない。子供が必死の形相で飛び込んで来れば、あの頼もしい大人たちが匿ってくれるはずだ。
武志は絶句した。そこには、誰もいなかった。
「嘘だろ……見回りにでも行ってんのか……?」
がくりと肩を落とし、膝も崩れ落ちる。
そうして気付いた。地面はすっかり影に覆われている。夕日はほぼ沈み切っていた。高い所にでも登らなければ、もはや夕日を拝むことはできない。それもあと数分だけのことだろう。もうじき完全な夜が始まる。
「そ、そうだ……雄太郎の家が近いはずだ……」
膝を叩き、自分を奮い立たせる。雄太郎の家までは、歩いて十分ほど。少し走れば、その半分の時間でたどり着く。今はなんとしても、日没までに隠れなければ。
軽いパニックからか、脚の感覚がぼやけている。何度も躓き、転びそうになりながらも足を繰りだすしかない。
「ハッ――ハッ――ハッ――」
犬のように呼吸を荒げながら走る。人通りの少ない道を選んだおかげでスムーズに走ることができた。
いくつもの路地を抜け、町を流れる用水路の前に出た。夏になると、友達と一緒にザリガニやタニシを獲って遊べる、子供たちの人気スポットでもある。しかし、周囲には木々が生い茂り、陽の光も届かないので、黒くのっぺりとした泥が敷き詰められているようにも見えた。
「あいつの家は、左――じゃなくて、右だな」
丁字路の右方向に雄太郎の家がある。視線を遠くに向ければ、平屋のこじんまりとした民家が見える。間違いない。何度も遊びに行った、雄太郎の家だ。窓から明かりが漏れているので、雄太郎一家がそこにいるのは間違いない。彼らとは顔なじみだった。
足が自然と動く。光に向かう羽虫のように、本能的に引き寄せられる。
カラン――コロン――
下駄の音。それはこの町で滅多に聞くことの無い音だった。その音は背後から、徐々に近づいてくる。
「ワタシと一緒に、早くお家に帰りましょう?」
ぞわりと、背中の毛が逆立つ感触。氷で背中を撫でられたような悪寒が走る。
それは少女の声だった。幼く甲高い声は、小さいのによく届く。真夏の熱気の隙間を潜りぬけて、耳の中へと滑り込む。その声の冷たさに、人間の温度は感じられなかった。
反射的に武志は振り向いた。
そこに立っていたのは、まるで季節感の無い、赤い着物を身に纏った少女だった。その佇まいは人形を思わせる。うつむき気味で、前髪が長いものだから、その目や表情を窺い知ることはできない。それが二度目だったとしても。
「ワタシと一緒に――」
「う、うるせぇ! もう、こっち来んなよぉ!」
その赤い少女に背を向け、再び雄太郎の家に駆けだそうとする。しかし、その脚はすぐに止まった。
すぐ後ろに、もう一人の少女が立っていたからだ。ぶつかりそうになった武志は慌てて止まる。二人目の少女は、一人目の少女より少し小柄で、着物が桃色であることを除けば瓜二つの姿だった。
「ワタシと一緒に、早くお家に帰りましょう?」
小さな唇が、全く同じセリフを紡ぐ。声はより幼くなったが、子供らしくない抑揚の無い声が逆に恐怖心を煽った。
「や――やめっ――」
二人の少女に前後を挟まれる形になった武志は、それ以上先に進むことができなくなっていた。相手は自分より年下に見える少女。道の幅も狭くは無く、容易に横をすれ違うことができる。しかし、それがどうしてもできない。
武志の足が横に動く。先ほど自分が走ってきた道だ。雄太郎の家に行くことは諦め、もう一度交番に向かうことに決めた。町の巡回に出ていたとしても、もうすぐ戻ってくるはずだ。
「ワタシと一緒に、早くお家に帰りましょう?」
そんな彼の意志を砕くように、今まさに足を向けようとした道から声が届いた。
いよいよ涙目になった彼の目の前に現れたのは、薄紫の着物を着た女性だった。長い黒髪は結われておらず、だらりと顔や肩に落ちている。きちんと手入れすれば絹のように美しくなりそうな黒髪も、櫛ですけばギシギシと硬い感触が伝わりそうだ。その姿を見て、武志の脳裏に“幽霊”という単語が浮かんだ。
三方向を、得体の知れない三人の女に囲まれた武志になすすべは無かった。しかしそれでも、彼は諦めなかった。
「よ、用水路が――」
斜面は急だが、用水路の位置はそれほど低くは無い。足を滑らせて転んでも、少し打撲傷を負う程度だ。そう判断した彼は、残された最後の逃げ道に望みを託した。
「ワタシと一緒に、早く家に帰ろう?」
用水路から、今度は大人の男の声が聞こえた。
「あ――ああ――」
武志は言葉を失った。
彼が見ている目の前で、紺色の着物姿の男が上がってきた。それは斜面を歩いて上っているにしては不自然に滑らかだった。男は、まるで空から見えない糸で持ち上げられるように、音も無く垂直に上昇していた。武志を軽く見下ろす高さで止まる。男を吊るす糸も足場も見えはしない。
「ワタシと一緒に、早くお家に帰りましょう?」
「ワタシと一緒に、早くお家に帰りましょう?」
「ワタシと一緒に、早くお家に帰りましょう?」
「ワタシと一緒に、早く家に帰ろう?」
二人の少女はカランコロンと下駄の音を鳴らし、大人の男女は脚も動かさず滑るように。四方向から武志に近づいていた。
「やめろ、やめろ――来るな――近寄んなよぉ!」
怯える武志の眼前に赤い着物の少女が立つ。
そして、彼女の首が傾き始めた。十度――二十度――三十度――カクカクと刻むように角度が増していき、水平に達してもなお続く。試すまでも無く、人間の可動域の限界を超えていた。曲線を描く彼女の細い首の皮は、今にも破れそうなほどに張り詰めている。
彼女が首を傾けたことで、その表情を隠していた前髪が横に流れる。そこで初めて、武志は赤い着物の少女と目を合わせることとなった。
「やっぱり、お前が――!?」
カラン――コロン――カラン――コロン――
夜の帳が降りた町から下駄の音が消える。一人の少年の姿も、その場から消え去っていた。




