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四大陸譚

獣憑きの聖人

作者: 灰撒しずる
掲載日:2015/08/22

『 私はとうとう、アナトーリの守護の獣を見た。見たのだ。見えた。確かに姿があった。

 雪を白く照らす、眩い朝陽の中。山道を歩むアナトーリの横にそれを見つけた。突然現れたかに見えたが、初めから其処に居たように自然に、アナトーリの僅か後ろを歩いていた。

 新雪に等しい純白の、大きな山犬。

 それはただアナトーリの傍を歩いているわけではなかった。彼に付き従い、周囲に気を巡らせ、彼を護っていた。思ったとおりだ。

 その獣の美しいこと、澄んで清らで冴えわたっていること。触れればそれだけで血を見そうなほどに、鋭く研ぎ澄まされていた。まるで鏡の如く磨いた刃の如く。まるで外れぬ白鷹の矢の如く。まるで水晶の帷子の如く。

 ああ、聖なるかな、聖なるかな。貴き百合の子の傍らに、その守護の獣が在る。

 獣の四足が雪を踏む。足跡はつかない。吠え声が聞こえたが、肩を震わせたのは私だけだった。アナトーリは何にも気がつかず、ただ私へと語りかける言葉を続けていた。やはり彼には知れぬものらしい。

 咆え声は、谷に谺して消えた。』


 割に新しい、本として綴じられても居ない紙の中に見つけたその文章は私の名前を含んでいたが、私に宛てたものではなさそうだ。騎士の割に文筆に傾倒しているところがあって、筆を揮うのが好きな性分で、こう仰々しい物書きをよくしていた友人お得意の小奇麗な文章だった。

 守護の獣とは、何だろうか。山犬という言葉が引っかかったが、後は覚えがなかった。何か妙な手触りの感じられるその紙を文箱の横へと避けて、私は一人で、彼の手記を遡った。

 幾つもの、何年分もの記録を辿るのは、時間が要った。だが、時間はたっぷりとあるのだ。ここ数年はかつての冬がそうであったように、長すぎる暇を取り戻していた。


『 神と聖女の子、聖なる落胤アナトーリ・フィー・ランデア。彼は神の篤い加護の下に生まれ、幾多向かい来る様々な害悪を退け、その水晶の輝きに満ちた魂を損なわずに生きてきた。だが、彼に与えられた加護は、神のものだけではなかったようだ。

 否、それもまた神の遣わしたものであったのかもしれないが。それが聞かれるようになったのは、先の戦のときのことだ。

 敵の兵士が語ったことには、恐ろしい吠え声を聞いたそうだ。彼らがアナトーリの居処を知り、狭い山道をどうにか抜けて奇襲を仕掛けようとしたときのこと。低い唸りが正面から聞こえたかと思えば、旋風が駆け抜けた。それはあたかも、何かが自分たちの側に駆け込んできたようだったという。そして彼らは、何か、強い力に押し倒された。引きずられ、わけも分からぬ恐怖の中、尖った物が体に食い込んだ。

 それは獣に飛びかかられたときのようだった。兵士たちは混乱の最中に、明らかな敵意を感じたという。ただ、その姿は見えない。気を飛ばしかけたとき、白い物が走り去るのを見た気がするだけで。けれど目覚めてみれば皆がその恐ろしさを覚えていて、それぞれの肩やら足やらには確かに、獣の爪痕や噛み痕のめいた傷が残ってじくじくと痛むのだ。恐れた彼らの任務は失敗した。アナトーリはその身に僅かな掠り傷さえ負うことなく、それどころか、敵兵たちを近づけることさえなかった。聖なるかな、聖なるかな。

 またある者、捕らえられていた捕虜が言うには、夜闇に爛と双眸が輝くのを見た。周囲を威圧するかのその目玉の一揃いは、捕虜の者たちの前を歩くアナトーリのすぐ横にあったという。それを見た者は皆、アナトーリが騎士と共に護身の獣を連れていると思い込んだ。やけに恐ろしかったと言い、自分たちに嗾けてくるのではと危惧し、敵の領主を罵ってやろうとしていた口を噤んだ。しかしアナトーリがその獣を連れているのは何故か夜だけで、明るいうちにはまるで見当たらない。――否、夜だろうが昼だろうが、アナトーリはそもそも獣など連れていなかった。彼が従えていたのは騎士だけだった。

 人の五感とは、時に不自由な中でこそ利くものだ。このときは夜闇が、獣の姿を薄らと浮かび上がらせたのかもしれない。

 少し時間が経つと、獣の姿は幾分はっきりと、姿を結ぶようになってきたようだ。

 アナトーリの外套の裾の影に、ちらと白い尾が振られたのを見たという話がある。何かどきりとしたその一瞬後、尾を見た者は何かに外套を掴まれるようにして、後ろに引っくり返っていた。その手から刃物が転げ落ちた。愚かなその男は、アナトーリを刺そうとしていたのだった。

 獣は、アナトーリを護っているのだ。

 私は、それが、かつてアナトーリの飼っていた山犬ではないかと思う。手負いのところを救い、手懐けた。百合の子の教えあってか犬の癖に神を理解した、賢く敬虔な獣だった。かつて主君を、アナトーリを守って死んだ犬だ。思い強く、死してなおその傍らにあったとして、そう不思議でもないように思える。

 幾度かそうして獣が現れても、アナトーリはそのことを知らなかった。当人には知れないもののようだ。』


 雪を交えて館に吹き付ける風の音が、己の血の巡る音であるように感じられた。心臓が酷く煩わしく、体は冷え切っていた。

 酷く困惑して、暫く本を閉じることさえできなかった。埃が積もった友人の書斎に、私は長く居た。友人の妻子も従者たちも、誰も気遣って声をかけてこない、その静寂の中に身を置いていた。途絶えぬ風と、傾く日だけが時間の流れていることを教えてくる。

 己の名を含んだ奇妙な文を見つけてから丸三日経ち、友人の筆跡を辿る作業が十二年前の戦の資料となりうる手記に差し掛かっていたところ、私はようやく件の文章に繋がる物を見つけた。

 黒い紙を銀の箔でくまなく飾ったイルデ細工の表紙。その中に認められていたのは、やはり私のことだった。だが、知らないことだ。

 字は間違いなく友人の手蹟で、文章も何度も貰っていた手紙と似た、彼のものだ。だがこれは、何だ?

 彼が私を一人の友人として尊重してくれながらも、確かに聖人――百合の子として崇拝していたのは、知っていた。そういうものだと諦めて、私も友人をやっていた。だから私に対する礼賛が文章として残っていても、それ自体は不思議ではなかった。苦笑いはしてしまうが。

 だが、これは予想の外だ。友人が死んで一年。喪が明けて遺品の整理をしていた細君に呼ばれ、私宛に残されたという書斎の品々を検分しに来て、まさかこんな物を見つけようとは。

 獣がついている。私に。そんなことを、彼は一度も言わなかった。しかも、山犬だと?

 たしかに山犬は飼っていた。本当の獣ではないがそう呼んでいた。偶然拾った蛮族の男の、仇名のようなものだった。私を守って死んだのも確かだ。

 しかしそれが、今度は山犬の形をとって私を護っているというのは、思いもつかぬ話だった。あれがまだ私の傍らに居ることも、獣の姿になるというのも、まったく、馬鹿馬鹿しいと言ってもよい。

 私を狙ってきた敵や、恨んでいただろう捕虜や、政敵が放った暗殺者の類が、それによって退けられたというのも。

 それを友人が、見たというのも。

 努めて息を落ち着かせ、文箱の横に置いたままの一枚きりの紙を見下ろす。

 これは、いつ書いた物なのだろう。纏められていなかったのだから、最近――一年前、彼が死ぬ間際の物か?

「……」

 山犬、とかつてのように呼びかけそうになった口を噤む。応えがあるやもしれぬ、と思ってしまった。何やら恐ろしかった。応えがあったなら、私は訊いてしまうだろう。何故だと。

 お前は黒かったし、隻眼だったし、……お前は犬ではなかったではないか。だから、違うのだろうが。だが、答えが欲しかった。何故こんなことをした。何故姿を見せたのだ?

 軋む椅子に腰掛け、背凭れに身を預け。私は再び友人の遺した文章を見た。文字が、滲んだ。

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