表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/60

第一章 雪どけの旅立ち (1)

 ――この家を、出て行ってもらうよ。

 

 雪どけの季節が近づきつつあった、その日の夜。なんの前触れもなく、リーザはシャーロにこう告げられた。

 一瞬、何を言われたのか、リーザは理解することができなかった。

 みなが寝静まってから、二人分のお茶を入れて、いつものように“騎士遊戯”で対戦した。これはマス目のついた盤上で騎士や兵士の駒を動かす陣取りゲームで、庶民の娯楽として人気がある。

 一勝一敗となったところで、その日の勝負は終了。お茶のお代わりを入れた。目の前の兄がティーカップに口をつけて、それからおもむろに切り出された言葉。


「春の自由市場が開かれたら、リーザにはこの家を出て行ってもらうよ」


 空色の瞳をいっぱいに見開いて、リーザは硬直した。

 思わず呼吸が止まる。ついで、鼓動が高鳴る。頭の中で言葉の意味を何度も反芻はんすうし、それから兄の様子を窺った。

 癖のない黒髪に黒い瞳。やや目つきは厳しく、口元は引き締まっている。その表情は意識してのものではなく、妥協を許さない生真面目な性格を端的に表していた。


「……どういう、こと、ですか?」


 かろうじて出た言葉に、シャーロは頷いた。


「ずっと前から決めていたんだ。リーザが十五歳になったら、そうしようって」


 回りくどい言い方を、シャーロは好まない。だが、このときのシャーロは慎重に言葉を選んでいるようだった。

 長い付き合いであるリーザは、兄が本気であることを悟り、心の不安は加速的に増大した。


「エルは八歳、メグは五歳になった。自分の面倒くらいはみられるし、料理は俺たちでも作れる。家のことは心配いらないよ」


 寒々と更けゆく夜。リビングには静寂だけが満ちている。ただ、暖炉の中で燃え尽きようとしている薪だけが、ときおりぱちりと音を立てて、リーザの思考を現実に繋ぎとめていた。

 家のことは、心配いらない?

 なにを、言っているの?

 直感的にその答えにたどりついたリーザは、我知らず肩を震わせた。


「わ、わたしは、必要ないん……ですか?」


 つらいことがあっても家族の前では泣かない。いつも笑顔を絶やさず、明るく元気でいること。四年前にシャーロと交わした大切な約束を、このときリーザは危うく破りそうになった。

 落ち着き払った態度でお茶を飲んでいたシャーロが、ごほっと咳き込む。


「あ、違うんだ。ごめん。俺の言い方がわるかった」


 珍しく慌てたように、言葉をつけ加えた。


「リーザがいなくなったら、きっとエルとメグは泣くよ。料理だって、今の俺じゃリーザのようには作れない。レパートリーも少ないしね。だから、リーザがいなくなるとこの家は本当に困る。その、そうじゃなくて」


 シャーロは意外な台詞を口にした。


「リーザだけじゃないんだ。他のみんなも、いずれ家を出てもらおうと思ってる」

「……え?」


 かろうじて、リーザは涙をこらえていた。突き放されたわけではないという安堵感よりも、戸惑いのほうが大きかった。

 昔からこの兄は、突拍子もない行動をとることがあった。だが、そこには必ず理由があることを、リーザは知っていた。

 三年前の秋。シャーロが野葡萄からワインを作ろうと言い出したときも、子どもしかいないのに何故お酒を作るのか、リーザには理解できなかった。今なら分かる。自分たちが作るワインを毎年楽しみにしてくれるお客が増えて、貴重な収入源となっているのだ。

 だから今回も、何か理由があるのだろう。

 リーザが落ち着くのを見計らうように、シャーロは説明した。


「ただ生きていくだけなら、この場所でも十分だけど、ここでは経験できないことも多い。分かるかい?」


 リーザは首を振った。


「普通の家庭で育った子どもは、学校でみんなと一緒に勉強したり、近所の友だちと遊んだりするだろう? でも、ここには家族はいても、そういった仲間はいないんだ。特にリーザの場合、家の仕事があるから、外へ出る機会も少ないしね」


 その理屈はリーザにも分かった。だが同時に、友人よりも家族のほうが大切だとも思う。

 リーザの心の葛藤を見透かしたように、シャーロは予言じみたことを口にした。


「エルやメグだって、いつまでも子どもじゃないよ」

「……はい」

「みんなが大人になって、それでも、この家で一緒に暮らせると思うかい?」

「それは――」


 反射的に答えようとして、リーザは口ごもった。

 シャーロの言っていることは、十年後、十五年後の話だ。そんな先のこと、考えたこともなかった。目の前の日々を生きるだけで精一杯で、考える余裕すらなかった。


「ひとは住み慣れた家を出て、知らない誰かと出会い、結ばれて――新しい家庭を作る。じゃあ、もし家を出なかったら? もし出会いがなかったら、どうなると思う?」


 不安に押し潰されそうな眼差しで、リーザはシャーロを見つめ返した。


「大人になってからでは、できないこともある。ここを出るのは今しかないんだ。それに、エルやメグにしたって、親離れは早いほうがいいと思う。特にメグだな。ちょっとリーザに甘えすぎ」

「で、でも、メグはまだ五歳だから」

「君がいたら、いつまでもあのままさ」


 口調こそ穏やかだが、その台詞には容赦がない。

 すべての退路を断たれたかのような、そんな絶望感がリーザの胸を締めつけた。

 なんとなくではあるが、兄の言いたいことは分かった。自分の将来を思って、あえて旅立たせようとしていることも。

 だからこそ、余計につらかった。


「ここを出て、他人ひとのいるところに住んで……」


 服の胸の部分をつかみながら、リーザは搾り出すような声で聞いた。


「結婚しろ、ということですか?」


 もしそうだと頷かれたら、絶対に泣く。

 大切な約束を破って大声で泣き、初めて――兄に逆らうことになるかもしれない。

 そんなリーザの心を知ってか知らずか、シャーロは困ったように頭をかいた。


「深刻に考えすぎだよ。外の世界へ出て、友だちや知り合いをたくさん作って欲しいってことさ。でも、まあ。もしそこで好きなひとができたら、そういう話も出てくるかもしれない。これは俺の勘だけど、リーザだったらよりどりみどりじゃないかな」


 褒められたのだとは思うが、ちっとも嬉しくはなかった。

 ひとつ、現実的な問題があった。

 街で暮らすには、それ相応の収入が必要になってくる。食べ物がなくなったからといって、森の中で木の実を探すことはできないのだ。相場はよく分からなかったが、部屋を借りるだけでもかなりのお金がかかるだろう。定期的な収入を得るために、働く場所を探さなくてはならない。


「でも、シャーロ兄さん。わたし、なんのとりえもないから。街へ出ても、働かせてくれるところなんてないと思うわ」


 正直に話すと、まるで面白い冗談でも聞いたかのように、シャーロは笑った。

 いつも無愛想な兄だが、ごくまれに見せる笑顔は子どものように無邪気だ。普段が普段だけに、がらりと印象が変わってしまう。深刻な話をしているにもかかわらず、リーザはつい見とれてしまった。


「本人が一番分かってないんだな。まあ、それがリーザのいいところか」


 ひとりで納得し、シャーロは残りのお茶を飲み干した。


「実はうちのお客に、ハルムーニの繁華街にある料理屋の店長がいてね。人手が足りなくて困ってるみたいなんだ」

「料理屋さん、ですか?」

「うん、住み込みもできるって話だし。今度、自由市場に行くときに、挨拶しようと思ってる」


 ハルムーニはユニエの森の北方、馬車で三日ほどの距離にある大きな街だ。主要街道が重なり合う交通の要所に位置しているため、様々なひとや物資が集まり、年中賑わっている。

 王都とは比べるべくもないだろうが、東部地方では比較的名の知れた街といってよいだろう。

 年に三回、この街では自由市場が開かれる。

 シャーロたちは森から得た木の実やキノコ、燻製肉、革製品、希少価値のある花などをこの市場で売り、お金に換えていた。


「ハルムーニは少し法令が厳しいけれど、その分治安は安定してるし、住むにはわるくない場所だと思うよ。自由市場が開かれるときには、俺も会いにいけるしね」


 最後の言葉を聞いて、ほんの少しだけリーザは安心した。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ