第一章 雪どけの旅立ち (1)
――この家を、出て行ってもらうよ。
雪どけの季節が近づきつつあった、その日の夜。なんの前触れもなく、リーザはシャーロにこう告げられた。
一瞬、何を言われたのか、リーザは理解することができなかった。
みなが寝静まってから、二人分のお茶を入れて、いつものように“騎士遊戯”で対戦した。これはマス目のついた盤上で騎士や兵士の駒を動かす陣取りゲームで、庶民の娯楽として人気がある。
一勝一敗となったところで、その日の勝負は終了。お茶のお代わりを入れた。目の前の兄がティーカップに口をつけて、それからおもむろに切り出された言葉。
「春の自由市場が開かれたら、リーザにはこの家を出て行ってもらうよ」
空色の瞳をいっぱいに見開いて、リーザは硬直した。
思わず呼吸が止まる。ついで、鼓動が高鳴る。頭の中で言葉の意味を何度も反芻し、それから兄の様子を窺った。
癖のない黒髪に黒い瞳。やや目つきは厳しく、口元は引き締まっている。その表情は意識してのものではなく、妥協を許さない生真面目な性格を端的に表していた。
「……どういう、こと、ですか?」
かろうじて出た言葉に、シャーロは頷いた。
「ずっと前から決めていたんだ。リーザが十五歳になったら、そうしようって」
回りくどい言い方を、シャーロは好まない。だが、このときのシャーロは慎重に言葉を選んでいるようだった。
長い付き合いであるリーザは、兄が本気であることを悟り、心の不安は加速的に増大した。
「エルは八歳、メグは五歳になった。自分の面倒くらいはみられるし、料理は俺たちでも作れる。家のことは心配いらないよ」
寒々と更けゆく夜。リビングには静寂だけが満ちている。ただ、暖炉の中で燃え尽きようとしている薪だけが、ときおりぱちりと音を立てて、リーザの思考を現実に繋ぎとめていた。
家のことは、心配いらない?
なにを、言っているの?
直感的にその答えにたどりついたリーザは、我知らず肩を震わせた。
「わ、わたしは、必要ないん……ですか?」
つらいことがあっても家族の前では泣かない。いつも笑顔を絶やさず、明るく元気でいること。四年前にシャーロと交わした大切な約束を、このときリーザは危うく破りそうになった。
落ち着き払った態度でお茶を飲んでいたシャーロが、ごほっと咳き込む。
「あ、違うんだ。ごめん。俺の言い方がわるかった」
珍しく慌てたように、言葉をつけ加えた。
「リーザがいなくなったら、きっとエルとメグは泣くよ。料理だって、今の俺じゃリーザのようには作れない。レパートリーも少ないしね。だから、リーザがいなくなるとこの家は本当に困る。その、そうじゃなくて」
シャーロは意外な台詞を口にした。
「リーザだけじゃないんだ。他のみんなも、いずれ家を出てもらおうと思ってる」
「……え?」
かろうじて、リーザは涙をこらえていた。突き放されたわけではないという安堵感よりも、戸惑いのほうが大きかった。
昔からこの兄は、突拍子もない行動をとることがあった。だが、そこには必ず理由があることを、リーザは知っていた。
三年前の秋。シャーロが野葡萄からワインを作ろうと言い出したときも、子どもしかいないのに何故お酒を作るのか、リーザには理解できなかった。今なら分かる。自分たちが作るワインを毎年楽しみにしてくれるお客が増えて、貴重な収入源となっているのだ。
だから今回も、何か理由があるのだろう。
リーザが落ち着くのを見計らうように、シャーロは説明した。
「ただ生きていくだけなら、この場所でも十分だけど、ここでは経験できないことも多い。分かるかい?」
リーザは首を振った。
「普通の家庭で育った子どもは、学校でみんなと一緒に勉強したり、近所の友だちと遊んだりするだろう? でも、ここには家族はいても、そういった仲間はいないんだ。特にリーザの場合、家の仕事があるから、外へ出る機会も少ないしね」
その理屈はリーザにも分かった。だが同時に、友人よりも家族のほうが大切だとも思う。
リーザの心の葛藤を見透かしたように、シャーロは予言じみたことを口にした。
「エルやメグだって、いつまでも子どもじゃないよ」
「……はい」
「みんなが大人になって、それでも、この家で一緒に暮らせると思うかい?」
「それは――」
反射的に答えようとして、リーザは口ごもった。
シャーロの言っていることは、十年後、十五年後の話だ。そんな先のこと、考えたこともなかった。目の前の日々を生きるだけで精一杯で、考える余裕すらなかった。
「ひとは住み慣れた家を出て、知らない誰かと出会い、結ばれて――新しい家庭を作る。じゃあ、もし家を出なかったら? もし出会いがなかったら、どうなると思う?」
不安に押し潰されそうな眼差しで、リーザはシャーロを見つめ返した。
「大人になってからでは、できないこともある。ここを出るのは今しかないんだ。それに、エルやメグにしたって、親離れは早いほうがいいと思う。特にメグだな。ちょっとリーザに甘えすぎ」
「で、でも、メグはまだ五歳だから」
「君がいたら、いつまでもあのままさ」
口調こそ穏やかだが、その台詞には容赦がない。
すべての退路を断たれたかのような、そんな絶望感がリーザの胸を締めつけた。
なんとなくではあるが、兄の言いたいことは分かった。自分の将来を思って、あえて旅立たせようとしていることも。
だからこそ、余計につらかった。
「ここを出て、他人のいるところに住んで……」
服の胸の部分をつかみながら、リーザは搾り出すような声で聞いた。
「結婚しろ、ということですか?」
もしそうだと頷かれたら、絶対に泣く。
大切な約束を破って大声で泣き、初めて――兄に逆らうことになるかもしれない。
そんなリーザの心を知ってか知らずか、シャーロは困ったように頭をかいた。
「深刻に考えすぎだよ。外の世界へ出て、友だちや知り合いをたくさん作って欲しいってことさ。でも、まあ。もしそこで好きなひとができたら、そういう話も出てくるかもしれない。これは俺の勘だけど、リーザだったらよりどりみどりじゃないかな」
褒められたのだとは思うが、ちっとも嬉しくはなかった。
ひとつ、現実的な問題があった。
街で暮らすには、それ相応の収入が必要になってくる。食べ物がなくなったからといって、森の中で木の実を探すことはできないのだ。相場はよく分からなかったが、部屋を借りるだけでもかなりのお金がかかるだろう。定期的な収入を得るために、働く場所を探さなくてはならない。
「でも、シャーロ兄さん。わたし、なんのとりえもないから。街へ出ても、働かせてくれるところなんてないと思うわ」
正直に話すと、まるで面白い冗談でも聞いたかのように、シャーロは笑った。
いつも無愛想な兄だが、ごくまれに見せる笑顔は子どものように無邪気だ。普段が普段だけに、がらりと印象が変わってしまう。深刻な話をしているにもかかわらず、リーザはつい見とれてしまった。
「本人が一番分かってないんだな。まあ、それがリーザのいいところか」
ひとりで納得し、シャーロは残りのお茶を飲み干した。
「実はうちのお客に、ハルムーニの繁華街にある料理屋の店長がいてね。人手が足りなくて困ってるみたいなんだ」
「料理屋さん、ですか?」
「うん、住み込みもできるって話だし。今度、自由市場に行くときに、挨拶しようと思ってる」
ハルムーニはユニエの森の北方、馬車で三日ほどの距離にある大きな街だ。主要街道が重なり合う交通の要所に位置しているため、様々なひとや物資が集まり、年中賑わっている。
王都とは比べるべくもないだろうが、東部地方では比較的名の知れた街といってよいだろう。
年に三回、この街では自由市場が開かれる。
シャーロたちは森から得た木の実やキノコ、燻製肉、革製品、希少価値のある花などをこの市場で売り、お金に換えていた。
「ハルムーニは少し法令が厳しいけれど、その分治安は安定してるし、住むにはわるくない場所だと思うよ。自由市場が開かれるときには、俺も会いにいけるしね」
最後の言葉を聞いて、ほんの少しだけリーザは安心した。