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ある日の放課後、下校しようとしていた彼女は、校門の手前で急に立ちどまった。校門の陰に、一人の温厚そうな中年の男の人が立っていた。
「あの人」
彼女は目を見開いて言った。
「里にいた人だわ。私を追ってきたんだわ」
私たちは向きを変えて裏門から出た。
「お願い、うちまで一緒に来て」
それで私は彼女をマンションまで送っていったのだけれど、あの男の人が安藤氏や彼女の話していたような人物だとはとても思えなかった。
でも安藤氏は、話を聞くと顔色を変えた。
「そうか。宮田さん、わざわざありがとう。章子、早く奥へ行って」
帰ろうと向きを変えた私の後ろで、慌ただしく鍵をかける音が聞こえた。
それから四日間、彼女は学校を休んだ。四日目の放課後、私は彼女の家へ行った。階段をのぼりおえると安藤氏の怒鳴り声が聞こえてきた。
「出ていけ! 二度と章子の前に姿を現すな!」
突きとばされてドアの向こうから転がり出てきたのは、校門にいたあの男の人だった。
「安藤くん、そんなことをしたら君のためにも章子のためにもよくないことだよ。さあ、章子、おいで、帰るんだ」
「うるさい! さっさと帰れって言ってるのがわからないのか!」
彼女は安藤氏の背中につかまって震えていた。安藤氏が真っ赤な顔をしてもう一度突きとばすと、中年の男の人は私の足元に尻餅をついた。彼は私を見ると慌てて立ちあがり、「失礼」と言ってそそくさと行ってしまった。
翌日、私は校門のところでその人に呼びとめられた。
「私、こういう者です」
と言って渡してきた名刺には、〈風祭工業株式会社専務取締役・風祭章吾〉と記されていた。
私たちは近くの喫茶店に入った。
「私は章子の伯父にあたる者でして」
コーヒーをすすりながら章吾氏は言った。
「ちょっとご相談に乗っていただきたいことがあるのです。ほかでもありません、章子のことなのですが」
章吾氏の話のあらましはこうだった。
彼の弟の章平氏は、若いころ家出したきりずっと音沙汰がなかった。何年か経って結婚したという便りがあった。それからしばらくして、金を貸してもらえないかという手紙が届いた。父親は言われた額を送ってやった。だがそれが数回に及ぶと、父親は怒って知らないふりをした。
すると何か月もしないうちに、こんどは警察から連絡が入った。章平氏がガスで一家無理心中をしたというのだ。奇跡的に一命をとりとめた一人娘の章子を、章吾氏が引き取った。
だが彼女は、そのときのショックで精神的に不安定になっていた。締め切ったところを極度に恐れ、しょっちゅう窓から飛び出そうとした。両親と同じぐらいの年齢の人を見ても逃げようとした。妄想にとりつかれ、妙なことを口走った。章吾氏はやむをえず彼女を外に出さないようにした。
そんなある日、彼女の母親の甥にあたる風来坊の安藤氏が風祭家を訪れ、彼女を連れて逃げてしまった。どうやら彼女を気に入ったらしかった。そのときから二人と章吾氏の追いかけっこが始まったのだ。
話を聞いて、私は頭を一発殴られたような気がした。安藤氏と彼女の親密な様子を思い出し、なるほどと納得した。とするとあれは全部、私をぺてんにかけるための作り話だったのだ。
帰るように彼女を説得してくれないかという章吾氏に生返事をし、私はふらふらと喫茶店を出た。
私はひどく傷ついていた。あれほど信じていた彼女に裏切られたという気持ち、そしてそれ以上に、あのまじめそうな安藤氏にだまされたという気持ちが、私をすっかり打ちのめしていた。
何日か学校を休み、寝床の中でずっと考えにふけった。そしてふと、初めて彼女に会ったときのことを思い出した。彼女は風に乗って、ふんわりと私の前に降り立った。まるでメリー・ポピンズのように、鳥のように、木の葉のように。
私は起きあがり、服を着替えて彼女の家へ向かった。ところがマンションのドアには、〈入居者募集〉と書かれた貼り紙が拒絶するように貼ってあった。それきり私は、二度と彼女に会うことはなかった。
◆ ◆ ◆
今となっては、彼女たちの話が本当だったのか、章吾氏の話が本当だったのか、確かめるすべはない。でも私は、風に木の葉が揺れているのを見るたび思うのだ。今でも二人は、いっしょにあちこち逃げ回っているのだろうか、と。
そして思い出す、風の強かったあの朝の情景、からっぽの部屋――どうしても思い出せない、彼女の顔。
【完】




