差し出された手を、私は選ぶ
「レオン殿下、書類できました」
「ああ、助かる。やっぱり君がいると楽だな」
第二王子レオン殿下はそう言って、次の書類に目を落とした。
婚約してから、こうして一緒に執務をする時間が増えた。
王族の仕事は難しいけれど、彼の隣にいられることが嬉しかった。
レオン殿下は書類を閉じると、思い出したように言った。
「そういえばさ、聖女って知ってる?」
「聖女、ですか?
確か……あらゆる富をもたらすと伝えられている存在ですよね。
王家が繁栄した時代にも、商家が大きくなった逸話にも登場するとか」
「曽祖父が言ってたんだよ。
絶世の美女なんだって。シルビアより美しいのかな?」
「もう……からかわないでください」
思わず笑ってしまう。
そのとき、廊下から足音が近づいた。
「兄上ただいま戻りました、シルビアこんにちは」
「おかえりなさい、ユリウス殿下。遅かったですね」
扉を開けて入ってきた彼は、両腕いっぱいに本を抱えていた。
「図書館に行ってたんだ」
「まあ、勉強熱心ですこと」
抱えているのは歴史書らしい。
分厚い背表紙が何冊も重なっている。
ユリウス殿下はふと目を伏せた。
ユリウス殿下は正妃の御子であり、
生まれたときから王位継承第一位と定められている。
それでもレオン殿下は、特別気にした様子もなく声をかける。
「また難しい本読んでるのか」
「いいでしょう。好きなんです」
兄弟の会話は自然で、
レオン殿下は、いつもユリウス殿下に優しかった。
だから私は、疑ったことがなかった。
この穏やかな時間が、
ずっと続くのだと信じていた。
◆
「……婚約破棄、ですか?」
私の声は震えていた。
国王陛下は険しい顔でこちらを見ている。
ユリウス殿下は俯いたまま。
レオン殿下は神妙に両手を膝に揃えていた。
沈黙を破ったのは、
簡素な服をまとった男――村長だった。
「……我が村に、聖女が現れました」
ざわ、と空気が揺れる。
村長は熱に浮かされたように続けた。
「聖女様のおかげで村は発展し、作物は豊かになり……それはもう、慈悲深く、美しく、まるで天の恵みで……」
村長の言葉を聞くほど、胸の奥が冷えていく。
「シルビア……王家としては聖女を受け入れたい」
国王陛下が重い声で告げる。
「だが年齢的にも、王太子に背負わせるのは酷だ。まだ幼い」
国王陛下はユリウス殿下を一瞥した。
その肩が小さく揺れる。
「よって――第二王子が、聖女を妃とする。
聖女本人も、それを望んでいる」
次の瞬間、レオン殿下が立ち上がり、私の前に膝をついた。
「……すまない。君を傷つけると分かっているのに」
彼は私の手を取る。
「君と別れるのは、つらい。だが……国のためだ」
国のため。
その言葉が出た瞬間、反論は罪になる。
「……承知いたしました」
唇を噛みしめても、涙は止まらなかった。
◆
玉座の間を出た後。
レオン殿下は私を抱き寄せた。
「俺はこの先、王になる。
君の分まで、この国を幸せにするよ」
耳元で低く囁く。
「……幸せになれよ」
レオン殿下の背に回した指先が震えた。
だが彼はすぐに体を離し、背を向けた。
程なくして、背後から小さな足音が近づく。
「……ごめんなさい」
振り返ると、ユリウス殿下が立っていた。
顔は真っ青で、拳が固く握られている。
「僕のせいで……あなたが……」
私は慌てて膝をつき、目線を合わせた。
「違います。殿下のせいではありません」
「僕は……あなたに、幸せになってほしいのに」
「え……?」
ユリウス殿下は言葉を呑み込み、少し頬を赤らめた。
「……いえ。でも、僕も王太子です。
年齢を理由に逃げてはいけない。
兄上に申し上げます。
聖女との婚約は、本来なら僕が担うべきものです」
そう言い残し、ユリウス殿下は踵を返した。
その背に、胸が締め付けられる。
私は反射的に後を追った。
角を曲がった先で、二人が向き合っていた。
レオン殿下が口角を上げて言う。
「悪いな。これで俺の即位が決まったようなものだ」
思わず足を止めた。
ユリウス殿下の目が見開かれる。
「……兄上」
「俺はもともと、相手が誰でも構わなかった。
だが聖女なら話は別だ。
美人で、しかも王位継承の後ろ盾になる。
選ばない理由がないだろ?」
「……シルビアの気持ちは、どうでもいいのですか」
「仕方がないだろ。
だから表向きは、つらい別れにしておいたんだ」
血の気が引いていく。
ふらりと、柱の陰から姿を現してしまった。
「ああ、聞いてしまったか」
「……レオン殿下……今のは、本当ですか?」
レオン殿下は困ったように言った。
けれど、その声にはどこか温度がなかった。
「そういうわけだ。俺のことを思ってくれているだろ? 分かってくれるよな」
その瞬間、ユリウス殿下が一歩前に出て私をかばうように立った。
「兄上、それは……」
レオン殿下は私を見て口元を曲げる。
「君の家は、王家との婚約が初めてだったな?
なら――弟と婚約すればいい」
私の目が見開かれた。
「王家は婚約破棄による賠償をせずに済む。
聖女で国を潤し、君の家には王家との縁を残す。
誰も損をしないだろ。
君の家にとっても、悪い話ではないはずだ」
「兄上……なんと言うことを……!」
言葉が出なかった。
ユリウス殿下は唇を震わせながら、私に振り返る。
「……僕は」
小さく息を吸う。
「僕に、あなたを……守らせてください」
差し出されたのは、小さな手だった。
「……婚約してください。僕と」
「ユリウス殿下……」
その手が、わずかに震えているのを見て、
胸が痛んだ。
何が正しいのか分からなかった。
ただ、このまま一人になれば、
きっと立っていられない。
私は震える手を伸ばす。
触れる直前で、指先が止まる。
けれど――そっと、その手を取った。
「……はい」
ほとんど息のような返事。
ユリウス殿下の肩が、わずかにほどけた。
レオン殿下は、いつの間にか去っていた。
◆
数日後、
聖女の謁見の日。
玉座の間は、いつもより騒がしかった。
レオン殿下の家臣たちは落ち着かず、扉を見つめている。
国王も、どこか期待を隠しきれていない。
ユリウス殿下の隣で、私は目を伏せて立っていた。
殿下は気づいたのか、そっと体を寄せてくれる。
重い沈黙が、玉座の間を満たす。
やがて――
扉が開いた。
聖女が現れた瞬間、空気が止まった。
玉座の間の全員が、息を吸ったまま固まった。
聖女は――
ブロンドの髪。
つぶらな瞳。
丸っこい鼻。
柔らかな頬。
そして。
ふくよか……という言葉で足りるのか迷うほど、
豊かな体つき。
「……え」
想像と違いすぎて、反応が遅れるほどの衝撃だった。
思わず隣を見る。
ユリウス殿下は目を見開いたまま固まっている。
……かわいい。
レオン殿下は口を開けたまま止まった。
家臣も、貴族も、近衛も、全員が動かない。
国王が、ようやく声を取り戻す。
「……その者は?」
胸を張って一歩出た村長が、言い放った。
「聖女でございます!
神殿にも正式に認められております!」
聖女はにこりと笑った。
「わたくし、前世の記憶を持っておりますの」
玉座の間がざわめきかけ、また止まる。
「前世でも国を治めておりました。
戦争も税も改革も、だいたい全部やりましたわ。
ですから、この国も必ず豊かにしてみせます」
聖女はレオン殿下へ視線を向ける。
「あなたが、わたくしの婚約者?」
「……え、いえ……私は――」
「まあ! ラブレターありがとうね」
レオン殿下の口角が引きつる。
「熱烈にアプローチしてくださるんだもの。
とっても嬉しかったわ」
玉座の間の空気が、別の意味で凍る。
――なるほど。私との婚約破棄の前から、動いていたのね。
聖女は指を折りながら続けた。
「子どもは前世で十六人産んだの。けれど、今の年齢を考えると……七人くらいかしら?」
「……い、いや……私は……第二王子で……」
レオン殿下の声が震える。
国王が、ためらいなく指をさした。
「いや、こいつだ」
家臣たちが一斉に頷く。
レオン殿下は青ざめた。
「私には、本当は、愛する婚約者が――」
その瞬間。
ユリウス殿下が、私の前に一歩出た。
「兄上。彼女は、僕の婚約者です」
レオン殿下が振り返る。
だがユリウス殿下は視線をそらさない。
私の手を握ったまま。
気づけば、聖女はレオン殿下の背後に立っていた。
「よろしくお願いしますわ、レオン殿下♡」
レオン殿下がぎこちなく振り返る。
口元が完全に固まっていた。
◆
謁見が終わったあと。
廊下の柱の陰で、ユリウス殿下は息を吐いた。
「……実はね。
聖女の美醜については、昔から記録が曖昧なんだ」
「ご存じだったのですか?」
「うん。あまりにも有能で崇拝されすぎて、
本来の姿が誇張されて、伝わったと考えられているそうだ」
少し困ったように笑う。
「兄上は、曽祖父から話を聞いて……
ずっと、そう信じていたみたい」
そしてユリウス殿下は静かに続けた。
「……どちらにせよ、聖女と婚約した兄上が
王位継承を担うことになると思う」
私は静かに姿勢を正す。
ユリウス殿下は目を伏せ、言葉を選ぶように続けた。
「婚約だって、まだ正式ではない。
君が首を振るなら、それで――」
私は、そっとユリウス殿下の唇に指を当てた。
ユリウス殿下が息を止める。
「私は、自分の意思でここにいます」
ユリウス殿下の目が、わずかに潤む。
「……ありがとう」
握った手に、少し力がこもった。
私は、その温もりを離さなかった。
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