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差し出された手を、私は選ぶ

作者: 福嶋莉佳
掲載日:2026/02/25

「レオン殿下、書類できました」


「ああ、助かる。やっぱり君がいると楽だな」


第二王子レオン殿下はそう言って、次の書類に目を落とした。


婚約してから、こうして一緒に執務をする時間が増えた。

王族の仕事は難しいけれど、彼の隣にいられることが嬉しかった。


レオン殿下は書類を閉じると、思い出したように言った。


「そういえばさ、聖女って知ってる?」


「聖女、ですか?

確か……あらゆる富をもたらすと伝えられている存在ですよね。

王家が繁栄した時代にも、商家が大きくなった逸話にも登場するとか」


「曽祖父が言ってたんだよ。

絶世の美女なんだって。シルビアより美しいのかな?」


「もう……からかわないでください」


思わず笑ってしまう。


そのとき、廊下から足音が近づいた。


「兄上ただいま戻りました、シルビアこんにちは」


「おかえりなさい、ユリウス殿下。遅かったですね」


扉を開けて入ってきた彼は、両腕いっぱいに本を抱えていた。


「図書館に行ってたんだ」


「まあ、勉強熱心ですこと」


抱えているのは歴史書らしい。

分厚い背表紙が何冊も重なっている。


ユリウス殿下はふと目を伏せた。


ユリウス殿下は正妃の御子であり、

生まれたときから王位継承第一位と定められている。


それでもレオン殿下は、特別気にした様子もなく声をかける。


「また難しい本読んでるのか」


「いいでしょう。好きなんです」


兄弟の会話は自然で、

レオン殿下は、いつもユリウス殿下に優しかった。


だから私は、疑ったことがなかった。


この穏やかな時間が、

ずっと続くのだと信じていた。



「……婚約破棄、ですか?」


私の声は震えていた。


国王陛下は険しい顔でこちらを見ている。

ユリウス殿下は俯いたまま。

レオン殿下は神妙に両手を膝に揃えていた。


沈黙を破ったのは、

簡素な服をまとった男――村長だった。


「……我が村に、聖女が現れました」


ざわ、と空気が揺れる。


村長は熱に浮かされたように続けた。


「聖女様のおかげで村は発展し、作物は豊かになり……それはもう、慈悲深く、美しく、まるで天の恵みで……」


村長の言葉を聞くほど、胸の奥が冷えていく。


「シルビア……王家としては聖女を受け入れたい」


国王陛下が重い声で告げる。


「だが年齢的にも、王太子に背負わせるのは酷だ。まだ幼い」


国王陛下はユリウス殿下を一瞥した。

その肩が小さく揺れる。


「よって――第二王子が、聖女を妃とする。

聖女本人も、それを望んでいる」


次の瞬間、レオン殿下が立ち上がり、私の前に膝をついた。


「……すまない。君を傷つけると分かっているのに」


彼は私の手を取る。


「君と別れるのは、つらい。だが……国のためだ」


国のため。

その言葉が出た瞬間、反論は罪になる。


「……承知いたしました」


唇を噛みしめても、涙は止まらなかった。



玉座の間を出た後。

レオン殿下は私を抱き寄せた。


「俺はこの先、王になる。

君の分まで、この国を幸せにするよ」


耳元で低く囁く。


「……幸せになれよ」


レオン殿下の背に回した指先が震えた。

だが彼はすぐに体を離し、背を向けた。


程なくして、背後から小さな足音が近づく。


「……ごめんなさい」


振り返ると、ユリウス殿下が立っていた。

顔は真っ青で、拳が固く握られている。


「僕のせいで……あなたが……」


私は慌てて膝をつき、目線を合わせた。


「違います。殿下のせいではありません」


「僕は……あなたに、幸せになってほしいのに」


「え……?」


ユリウス殿下は言葉を呑み込み、少し頬を赤らめた。


「……いえ。でも、僕も王太子です。

年齢を理由に逃げてはいけない。


兄上に申し上げます。

聖女との婚約は、本来なら僕が担うべきものです」


そう言い残し、ユリウス殿下は踵を返した。


その背に、胸が締め付けられる。

私は反射的に後を追った。


角を曲がった先で、二人が向き合っていた。


レオン殿下が口角を上げて言う。


「悪いな。これで俺の即位が決まったようなものだ」


思わず足を止めた。

ユリウス殿下の目が見開かれる。


「……兄上」


「俺はもともと、相手が誰でも構わなかった。

だが聖女なら話は別だ。


美人で、しかも王位継承の後ろ盾になる。

選ばない理由がないだろ?」


「……シルビアの気持ちは、どうでもいいのですか」


「仕方がないだろ。

だから表向きは、つらい別れにしておいたんだ」


血の気が引いていく。

ふらりと、柱の陰から姿を現してしまった。


「ああ、聞いてしまったか」


「……レオン殿下……今のは、本当ですか?」


レオン殿下は困ったように言った。

けれど、その声にはどこか温度がなかった。


「そういうわけだ。俺のことを思ってくれているだろ? 分かってくれるよな」


その瞬間、ユリウス殿下が一歩前に出て私をかばうように立った。


「兄上、それは……」


レオン殿下は私を見て口元を曲げる。


「君の家は、王家との婚約が初めてだったな?

 なら――弟と婚約すればいい」


私の目が見開かれた。


「王家は婚約破棄による賠償をせずに済む。

聖女で国を潤し、君の家には王家との縁を残す。

誰も損をしないだろ。

君の家にとっても、悪い話ではないはずだ」


「兄上……なんと言うことを……!」


言葉が出なかった。


ユリウス殿下は唇を震わせながら、私に振り返る。


「……僕は」


小さく息を吸う。


「僕に、あなたを……守らせてください」


差し出されたのは、小さな手だった。


「……婚約してください。僕と」


「ユリウス殿下……」


その手が、わずかに震えているのを見て、

胸が痛んだ。


何が正しいのか分からなかった。


ただ、このまま一人になれば、

きっと立っていられない。


私は震える手を伸ばす。


触れる直前で、指先が止まる。


けれど――そっと、その手を取った。


「……はい」


ほとんど息のような返事。

ユリウス殿下の肩が、わずかにほどけた。


レオン殿下は、いつの間にか去っていた。



数日後、

聖女の謁見の日。


玉座の間は、いつもより騒がしかった。


レオン殿下の家臣たちは落ち着かず、扉を見つめている。

国王も、どこか期待を隠しきれていない。


ユリウス殿下の隣で、私は目を伏せて立っていた。

殿下は気づいたのか、そっと体を寄せてくれる。


重い沈黙が、玉座の間を満たす。


やがて――


扉が開いた。


聖女が現れた瞬間、空気が止まった。


玉座の間の全員が、息を吸ったまま固まった。


聖女は――


ブロンドの髪。

つぶらな瞳。

丸っこい鼻。

柔らかな頬。


そして。

ふくよか……という言葉で足りるのか迷うほど、

豊かな体つき。


「……え」


想像と違いすぎて、反応が遅れるほどの衝撃だった。


思わず隣を見る。


ユリウス殿下は目を見開いたまま固まっている。


……かわいい。


レオン殿下は口を開けたまま止まった。

家臣も、貴族も、近衛も、全員が動かない。


国王が、ようやく声を取り戻す。


「……その者は?」


胸を張って一歩出た村長が、言い放った。


「聖女でございます!

神殿にも正式に認められております!」


聖女はにこりと笑った。


「わたくし、前世の記憶を持っておりますの」


玉座の間がざわめきかけ、また止まる。


「前世でも国を治めておりました。


戦争も税も改革も、だいたい全部やりましたわ。

ですから、この国も必ず豊かにしてみせます」


聖女はレオン殿下へ視線を向ける。


「あなたが、わたくしの婚約者?」


「……え、いえ……私は――」


「まあ! ラブレターありがとうね」


レオン殿下の口角が引きつる。


「熱烈にアプローチしてくださるんだもの。

とっても嬉しかったわ」


玉座の間の空気が、別の意味で凍る。

――なるほど。私との婚約破棄の前から、動いていたのね。


聖女は指を折りながら続けた。


「子どもは前世で十六人産んだの。けれど、今の年齢を考えると……七人くらいかしら?」


「……い、いや……私は……第二王子で……」


レオン殿下の声が震える。


国王が、ためらいなく指をさした。


「いや、こいつだ」


家臣たちが一斉に頷く。


レオン殿下は青ざめた。


「私には、本当は、愛する婚約者が――」


その瞬間。


ユリウス殿下が、私の前に一歩出た。


「兄上。彼女は、僕の婚約者です」


レオン殿下が振り返る。

だがユリウス殿下は視線をそらさない。


私の手を握ったまま。


気づけば、聖女はレオン殿下の背後に立っていた。


「よろしくお願いしますわ、レオン殿下♡」


レオン殿下がぎこちなく振り返る。

口元が完全に固まっていた。



謁見が終わったあと。


廊下の柱の陰で、ユリウス殿下は息を吐いた。


「……実はね。

聖女の美醜については、昔から記録が曖昧なんだ」


「ご存じだったのですか?」


「うん。あまりにも有能で崇拝されすぎて、

本来の姿が誇張されて、伝わったと考えられているそうだ」  

   

少し困ったように笑う。


「兄上は、曽祖父から話を聞いて……

ずっと、そう信じていたみたい」


そしてユリウス殿下は静かに続けた。


「……どちらにせよ、聖女と婚約した兄上が

王位継承を担うことになると思う」


私は静かに姿勢を正す。


ユリウス殿下は目を伏せ、言葉を選ぶように続けた。


「婚約だって、まだ正式ではない。

君が首を振るなら、それで――」


私は、そっとユリウス殿下の唇に指を当てた。


ユリウス殿下が息を止める。


「私は、自分の意思でここにいます」


ユリウス殿下の目が、わずかに潤む。


「……ありがとう」


握った手に、少し力がこもった。

私は、その温もりを離さなかった。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます!

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連載中/後宮政治×転生

『シウアルマ』

メインの長編はこちら

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