揺れる心
夜。
玲美は布団に横たわりながら、天井を見つめていた。
眠りに落ちようとしても、あの声が頭の中をよぎる。
――ここから出られると思うな。
「……やめて」
思わず声に出した。
自分の声なのに、自分のものじゃないような感覚に震える。
喉に触れても確かに声帯は自分のものなのに、響きが他人のように感じられる。
「私の声は……私のもの、でしょ……」
そう言い聞かせながらも、胸の奥に疑念が残る。
翌朝、養成所。
玲美は少し遅れて教室に入った。
既にみんな台本を手に練習を始めている。
しかし、その輪の中に遥の姿はなかった。
「遥ちゃん、今日も休みだって」
受付の女性が明るく言った。
だが、その声の軽さが余計に不自然に響く。
玲美の胸に冷たいものが流れ込む。
昨日のあの恐怖を思えば、休むのも当然だ。
けれど――戻ってこられないのではないか、そんな予感が離れなかった。
教室の隅に、真司が座っていた。
窓の外をじっと見ている。
「……真司さん」
玲美が近づくと、彼はちらりと視線を寄越した。
「玲美。……昨日のこと、誰にも言ってないな?」
「うん……でも、遥ちゃんは?」
「来ないだろうな」
「そんな……」
玲美は思わず声を荒げる。
「どうしてそんな風に言えるの? 遥ちゃん、声優になりたいって……ずっと努力してたのに!」
真司の瞳がわずかに揺れる。
だが、彼は静かに告げた。
「努力だけじゃ、届かないものもあるんだ」
「それって……夢を諦めろってこと?」
「そうじゃない」
真司は苦笑し、額に手を当てた。
「俺は……玲美には残ってほしいんだよ。声を、失ってほしくない」
玲美は息を詰めた。
それは優しさなのか、それとも彼自身の恐怖を押し付けているだけなのか。
判断がつかない。
授業が始まる。
講師が読み合わせを指示し、仲間たちが一人ずつ声を出す。
その声はそれぞれ個性を持ち、夢を追いかける熱がこもっていた。
「玲美、次は君だ」
講師に呼ばれ、玲美は立ち上がる。
台本を持つ手が汗で滑る。
胸が高鳴り、呼吸が浅くなる。
――出せる、よね? 私の声。
深く息を吸い、セリフを読み上げた。
だが、教室に響いた声は――濁り、低く歪んでいた。
「……え?」
自分の声なのに、自分の声じゃない。
まるで、別の誰かが口を動かしているようだった。
「大丈夫か?」
隣の生徒が心配そうに覗き込む。
「ご、ごめんなさい……ちょっと喉の調子が悪くて」
必死に誤魔化し、もう一度声を出す。
今度はいつもの声が出た。
ほっとした瞬間――背後からひそひそ声が聞こえた。
「玲美ちゃん、最近ちょっと変じゃない?」
「さっきの声……ゾッとした」
玲美の背筋が凍る。
笑い声や囁きが混じり合い、どれが現実でどれが幻聴なのかわからない。
授業後。
玲美は足早に養成所を出た。
外の空気は涼しいはずなのに、胸の奥は重く熱い。
「玲美」
背後から声をかけられ、振り返ると真司が立っていた。
彼もまたどこか疲れた顔をしていた。
「……ついてきたの?」
「放っておけない」
玲美は俯いたまま、思わず問いかけた。
「ねえ、真司さん……私の声、変だった?」
「……」
真司はしばし沈黙し、それからゆっくり頷いた。
「でも、それでいいんだ」
「いいって……どういう意味?」
「声ってのは、自分だけのものじゃない。誰かに届いて、誰かに響いて、初めて意味を持つ。玲美の声は……まだ、届こうとしてる途中なんだ」
玲美はその言葉に、胸が熱くなった。
けれど同時に――昨日の囁きが蘇る。
――声の行方は、決してお前のものじゃない。
彼女は震える唇で呟いた。
「……でも、私の声の行方は……私が決めたい」
真司はわずかに目を見開き、それから柔らかく笑った。
「なら、その覚悟を忘れるな」
夕暮れの街。
二人の声が混じり合い、騒がしい雑踏の中でも確かに響き合っていた。
その行方がどこに向かうのか、まだわからないまま――。
(つづく)




