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声を奪う囁き

玲美は鏡の前に立ち、髪を整えていた。

夜明け前にようやく眠りについたせいで、目の下には薄い隈が浮かんでいる。

だが、スタジオに行かないわけにはいかなかった。夢を掴むための一歩であり、逃げるわけにはいかない現場だ。


台本をカバンに入れるとき、ページの隙間から「かすかな囁き」が聞こえた気がした。

振り返っても、部屋には何もない。

胸の奥でざわつく恐怖を無理やり押し込め、玲美は家を出た。


スタジオ行きの電車の中、玲美は窓際に立ち、台本をめくった。

周囲のざわめき――会社員の談笑、車内アナウンス、ブレーキ音。

そのすべての中に「昨夜の声」が溶け込んでいるように感じられた。


――声は、音の迷宮に迷い込んだ。


脳裏に響いたその囁きが、何度もリフレインする。

玲美は思わず耳を塞ぎ、視線を窓の外へ逸らした。

ビルの壁に映る自分の顔が、どこか別人のように歪んで見えた。


「おはようございます!」

スタジオに入ると、いつもの明るい挨拶が飛び交っていた。

受付の女性に台本を見せると、「玲美ちゃん、今日は顔が少し暗いわね」と心配そうに言われる。

玲美は「寝不足なだけです」と笑顔を作ったが、笑いは頬に張り付いているだけで、自分でも不自然だとわかった。


ブースに入ると、既に遥と真司が準備していた。

遥は小柄な身体でマイクに向かい、台本を握りしめている。

しかし、その顔色は青白く、唇も震えていた。


「玲美ちゃん……昨日の収録、覚えてる?」

遥の声はかすれ、今にも泣き出しそうだった。


「覚えてるって、どういう意味?」

問い返した玲美の手に、嫌な汗が滲む。


遥は台本を差し出した。

紙の上の文字が、かすかに揺れているように見える。

いや、違う――文字そのものが声を発している。

「読まれていない台詞」が、確かに玲美の耳に届いていた。


『……声は、まだ迷いの中にいる』


「聞こえる……でしょ?」遥の声は震えていた。

玲美は息を呑む。自分ひとりの錯覚ではなかった。


真司がそのやりとりを見て、苦い顔をした。

「やっぱり……始まったか」


「始まった? どういうことですか?」玲美が詰め寄る。


真司は深くため息をつき、低い声で語り出した。

「昔、このスタジオで収録していた声優が一人、突然消えた。現場にいた仲間は皆、彼の『声』を最後に聞いたと言っている。だが姿はどこにもなく、警察にも行方は掴めなかった」


玲美の背筋が冷たくなる。

遥は両手で耳を塞ぎながら、「やめて……そんな話、聞きたくない……」と泣き出した。


だが真司の瞳は真剣そのものだった。

「俺も信じたくはなかった。でも……あの日、俺自身も聞いたんだ。文字から漏れる、誰のものでもない声を」


突然、ブースの照明がぱちん、と音を立てて消えた。

非常灯だけが赤く点滅し、機材のモニターにノイズが走る。

耳を劈くような音が鳴り響き、玲美は思わずマイクにしがみついた。


複数の声が重なっている。

老女の声、子供の笑い声、男の呻き声――どれも不協和音のように混ざり合い、スタジオを満たしていく。

遥は台本を落とし、床に膝をついた。

「いやだ……いやだ! 返して、私の声を返して!」


真司が玲美の肩を掴み、叫ぶ。

「玲美! お前も巻き込まれるぞ!」


だが玲美は――恐怖に震えながらも、なぜか目を逸らせなかった。

まるで、自分の声もまたこの「音の迷宮」に引き込まれかけているかのように。


(つづく)

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