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「赤い糸電話」

作者: 河崎ゆう

第1章:引っ越し


その家には、湿り気が染みついていた。

建て付けの悪い引き戸、日に焼けて褪せた畳の色、木造の廊下に広がる独特の匂い。


祖父母の家だったというその一軒家に、私と母は越してきた。父は遠方に転勤となり、しばらくは二人暮らしとなる。

高校二年の春。友人たちと離れ、古い家で新しい生活が始まった。


「まぁ、少しの間だから。我慢してね」

母はそう言って荷解きを進めるが、私はこの家の空気に、どこかひっかかりを覚えていた。


埃っぽい押入れの匂い、廊下の奥にある仏間、ひんやりとした空気。

思い返せば、幼い頃に何度か来た記憶がある。だが、その記憶は、どこか黒い布で覆われているようで、肝心なところが思い出せない。


夜。私の部屋は二階の六畳間だった。

もとは納戸だった部屋で、家具もないが、妙に「人の気配」がある。誰かがまだここに住んでいるような、そんな錯覚を覚える。


寝転がったとき、不意に聞こえた。


――カラン。


押入れの中。

何かが、小さく落ちるような音。湿った木と紙の匂いが立ち込める中、私は恐る恐るふすまを開けた。


暗がりの中。

紙コップと、赤い糸。

それは、かすかに揺れていた。風もないのに、ふる、ふる……と。


その瞬間、コップの奥から、声がした。


「……やっと、見つけてくれたね」




第2章:もうひとつの声


その声は、確かに紙コップの奥から聞こえてきた。

耳を近づけたわけでも、スピーカーのような装置があったわけでもない。

ただ、はっきりと、静かな部屋の空気の中に――耳元に直接、囁くように届いた。


「……やっと見つけてくれたね」


女の子の声だった。幼い、けれどどこか、感情のない、乾いた声。


私は思わず紙コップを手放した。赤い糸がビーンと張り詰め、ピンと床に落ちる。

それでも、糸の先はどこにもつながっていなかった。もう一方の紙コップなど、どこにもなかったのに。


「……お母さん」


私は階下にいる母を呼んだ。返事はなかった。

廊下に出ても、リビングにも、キッチンにも母の姿はない。テレビの音も、照明の明かりも、消えていた。


――まるで、誰もこの家にいなかったかのように。


ぞくりと背筋が凍る。足が震える。

ほんの数分前まで、母は確かにいた。私に「お風呂沸かすからちょっと待ってて」と言っていたのだ。

風呂場を覗いても、誰もいない。湯気もない。水音すらしない。


おかしい。

こんなに急に、家中から人の気配が消えるなんて、あり得ない。


だが、背後でふたたび聞こえてきたあの“音”が、思考を中断させた。


――カラン。

押入れの中、糸電話が転がる音。


私は逃げるように自室に戻った。

赤い糸電話は、またふるふると震えていた。

それはまるで、「話して」と、訴えかけてくるようだった。


恐怖に喉がひくついた。それでも私は、なぜか糸電話に顔を近づけてしまった。

まるで、自分の意志とは無関係に。


「……誰なの?」


問いかけた声は震えていた。

次の瞬間、紙コップの奥から、がりっ――と、何かが擦れるような音がした。

そして、女の子の声が再び届いた。


「ねえ……私、ここから出られないの。ずっと、待ってたの」


声のトーンは変わらない。感情がないのに、不気味な切迫感だけがある。


「……出して、くれる?」


私は震える手で糸電話を投げた。

だがそのとき、ふっと部屋の明かりが消えた。


次の瞬間、私の背後から――

確かに、息遣いが聞こえた。




第3章:封じられた部屋


翌朝、母は何事もなかったかのように台所にいた。

私は恐る恐る尋ねた。「昨日の夜、家に……いたよね?」

母は不思議そうに笑う。「何言ってるの?ずっといたわよ。お風呂も沸かしたじゃない」


だが私は、確かに“家から人の気配が消えた”瞬間を体験した。

赤い糸電話と、あの少女の声――それは夢だったのだろうか。


学校が始まるまでの数日、私はその部屋に籠もることが増えた。

しかし、あれ以来、糸電話は沈黙していた。ふるふると震えることも、声を発することもない。ただそこに、黙って在るだけ。


……まるで、待っているように。


数日後、祖母の古い手帳が納戸の隅で見つかった。

そこにはこう書かれていた。


> 「押入れの奥、糸の先には“あの部屋”がある。決して話してはならない。答えてはならない。あれは、ヒトのふりをして、近づいてくる――」


“あの部屋”。

ふと気づく。家の間取り図にあるはずの一室が、今は存在していない。

二階の西側、押入れの裏手に、本来ならもう一部屋あるはずなのだ。


私は、そっと押入れの背板を叩いてみた。

中は空洞になっている。


――カタン。


背板の向こうで、何かが転がる音。

それは、あの日と同じ。


次の瞬間、赤い糸電話が、自らの意志であるかのように――こちらを向いた。




第4章:もうひとつの部屋


私はその日、学校帰りに町の図書館へ足を運んだ。

目的は、祖母の手帳にあった「あの部屋」と、この家について調べること。

手がかりは少なかったが、住宅地図の古い資料を見て、私はある事実にたどり着いた。


二十年前――この家で、ひとりの少女が失踪している。


名前は「ナオミ」。

当時八歳。二階の納戸で一人遊びをしていたところ、姿を消した。警察も入り、家の構造まで調査されたが、結局何も出てこなかったという。

両親は間もなくこの地を離れ、家は祖父母の手に戻された……とある。


そしてもうひとつ、不気味な一文が見つかった。

古い新聞の隅に書かれていた、近隣住民の証言。


> 「あの家の二階の壁はね、昔“塞いだ”のよ。あそこは、良くない。……繋がってるから」


私はその足で、急いで家へ戻った。

二階の納戸に駆け込み、押入れの背板をもう一度調べる。

やはりそこには、違和感がある。

打ち付けられた板の継ぎ目。その奥からは、かすかに“風”のような気配が漏れていた。


私はドライバーと金槌を持ち出し、板を慎重に剥がしていった。

釘は錆び、木は湿っている。打ち付けたのは相当昔だ。


板が外れた瞬間、強い黴の匂いが鼻をついた。

真っ暗な空間。狭いが、確かにそこには「もう一つの部屋」が存在していた。


足を踏み入れると、畳がぬかるように沈む。

閉め切られた空間。空気はよどみ、何かが染みついている。


そしてその中央。

――あった。


もうひとつの紙コップ。

赤い糸の、もう一方が。


そのとき、耳の奥に、何かが囁く気配があった。


――わたしはね、ずっと、ここにいたの。

――誰も、気づいてくれなかった。

――でも、あなたは見つけてくれたね。


床を見下ろすと、畳の一部が歪んでいた。

引き剥がしてみると、その下に――小さな骨のようなものが、無造作に埋められていた。


人骨。

それも、小さな、子どもの。


足元がすうっと冷えていく。背中が硬直する。

そのとき、視界の端で何かが動いた。


部屋の隅に、ひとりの少女が立っていた。

顔は陰になって見えない。ただ、じっと、こちらを見ている。


「……ナオミ……さん?」


震える声でそう言うと、少女はかすかに首を傾げた。

口元が、にやりと歪んだように見えた――


「――ちがうよ」


瞬間、背後の押入れの戸がバンッと閉まった。

私は逃げようとして転び、赤い糸を掴んでしまった。


糸電話が、耳元で鳴った。


――がりっ、がりっ。

それは、誰かが爪で紙を引き裂くような音だった。


そして、耳に直接、声が届いた。


「わたしと、遊んでくれる? ずっと、ずっと、ここで――」




第5章:つながる糸


押入れの戸は、内側からは開かなかった。

私は暗闇の中でうずくまり、息を殺す。少女の気配は、まだすぐそばにあった。動けば気づかれる気がして、声を出すこともできない。


そのとき、背中にひんやりとした指が触れた。


「ここにいるとね……全部つながっちゃうの」


声は、私の耳のすぐそばで囁いた。

引き裂かれそうな恐怖に、私は咄嗟に赤い糸を引いた。

すると突然、戸がガタンと開いた。


外から、誰かが覗き込んでいた。

母だった。


「なにしてたの!?探したのよ!」


私は夢中で母に抱きついた。

もう一度戻ってみても、“もうひとつの部屋”は、跡形もなく消えていた。

板も、糸も、紙コップも、少女も――すべて、無かったかのように。


ただ、押入れの中にぽつんと残っていたのは、古いお札だった。

黄ばんだ半紙に、見慣れない筆文字。

裏面には、こう記されていた。


> 「口をつけてはならぬ。糸を通じ、此処ここは彼岸とつながる」


私は、お札を町の古い神社へ持ち込んだ。

対応してくれたのは、社務所の老神主だった。年季の入った白装束に身を包んだその人は、お札を見るなり顔色を変えた。


「これは、“結び御霊むすびみたま”の札だな……今でも残っていたとは……」


老神主の話によれば、この地にはかつて「間戸まど」と呼ばれる風習があったという。

家々には“もうひとつの間”が存在し、それは現世と“あちら側”をつなぐ“口”だった。


赤い糸電話――あれは、口寄せの道具だった。

本来は神職が扱うはずのもので、死者の魂を一時的に現世へ呼ぶための呪具。

しかし、誤って子どもが遊びに使い、戻れなくなったのだ。


「呼んだ者は、“つながった相手”に引かれる。

それが、“赤い糸の呪い”じゃよ」


ナオミという少女が、二十年前に失踪したのも、押入れを通じて“あちら”へ連れていかれたから。

それ以来、家は“封じ”られ、誰もそのことを語らぬようになった――そう老神主は語った。


私は尋ねた。「彼女は……まだ、あそこに?」


神主は目を伏せて言った。


「すでに“彼女”では、なかろうて。

長くあちらにいると、ヒトのカタチのままではおられん。

魂が、“向こうのことわり”に溶けるのじゃ」


その言葉が、私の胸に刺さった。


じゃあ、あの声は――笑顔は――もう、あの少女ではない。

“何か別のもの”が、赤い糸の先で、誰かが来るのを待っていたということなのか。


その夜、私はふと気づいた。

糸電話の紙コップ――私の部屋にあった方が、机の上に戻っていたのだ。


赤い糸は、また――ぴんと張られていた。




第6章:結びのむすびのほこら


赤い糸は、再び張られていた。

まるで、呼ばれているかのように。

私の机の上に置かれた紙コップの奥からは、微かに“吐息のような音”が聞こえる。


その夜、眠りにつこうとしたとき――


「……来て、ね……また、一緒に、あそぼ……」


その声は、もう明らかに“人間のもの”ではなかった。

たどたどしく、どこか壊れかけた玩具のような響き。


私は決意した。

終わらせなければならない。ナオミという少女のためにも、自分自身のためにも。


再び押入れの板を剥がし、“もうひとつの部屋”へ足を踏み入れる。

そこは、かつてと変わらぬ薄暗さ。ぬかるむ畳、染みついた匂い、そして――


部屋の奥に、小さな“石の祠”があった。

見落としていた。黒ずんだ木の覆いの中に、それはひっそりと置かれていた。

祠の上には、赤い糸が結ばれたまま、ぴんと張られていた。


神社の神主の言葉が蘇る。


> 「元々あの家には“祠の間”があったんじゃ。

死者の声を一夜限りで聞き届け、朝になる前に“結び直す”。

それを怠ると、魂は此方に居つき、やがて“形”を持つようになる」


――ナオミは、誰かに呼ばれた。

しかし、朝までに“結び”が戻されなかった。


だから、彼女は帰れなくなったのだ。

そして今、赤い糸は、私へと“次の結び”を求めている。


祠の前で、私は静かに紙コップを持った。

そして、声をかける。


「ナオミさん……あなた、まだそこにいるの?」


しばらく沈黙が続いた。

そして、紙コップの奥から――小さな泣き声が漏れた。


「……さむい……まっくら……かえりたい……」


その声は、あの“もの”の声ではなかった。

確かに、子どもの、かすれた涙声だった。


私は、もう一方の紙コップを祠の前に置いた。

赤い糸を、強く、両手で握る。


「帰ろう。もう、ひとりじゃない。

私が、あなたを戻す」


その瞬間、祠が鳴った。

重く、ずしん、と地鳴りのように。

周囲の空気が渦巻く。押入れの裏に“風”が吹いた。


そして、私は見た。

祠の前に、ぼんやりと立つ少女の姿。


ナオミ。

けれど、その顔は――穏やかで、静かに微笑んでいた。


「ありがとう。

わたし、もう……つながれなくて、いいんだね」


赤い糸が、すぅっと解けていく。

宙に浮かび、祠の上でゆらりと揺れ、やがて、ふわりと崩れ落ちた。

それは、朝露のように消えていった。


次の朝。

押入れの裏にあった“もうひとつの部屋”は、完全に塞がれていた。

板も、畳も、祠も、すべて――存在の痕跡ごと、消えていた。


赤い糸電話も、消えていた。

ただ、部屋の隅に小さな折り紙が落ちていた。


それは、赤い鶴だった。

器用に折られており、羽には小さくこう書かれていた。


> 「ありがとう。

おわかれの糸、ちゃんと、ほどいてくれて」




最終章:おわかれの糸


春の朝。

引っ越しのトラックが家の前に停まっていた。

あの夜から数日が経ち、母は急に「この家を出よう」と言い出した。理由は聞かなかったが、きっと、何かを感じ取ったのだろう。


私も、もう後戻りはできないと思っていた。

この家は好きだった。けれど、“何かを閉じ込めていた家”であり、

同時に、“誰かを助けてしまった家”でもある。


荷物を運び出したあと、最後に部屋を振り返った。

押入れも、机の上も、がらんとしている。


だけど、ひとつだけ変わっていなかったものがある。

それは、部屋の隅――柱の影。


誰かが、立っていた。


……ナオミ?


私は思わず名を呼んだ。

けれど、そこには誰もいなかった。

ただ、空気がやわらかく揺れていた。


ふと気配に導かれ、押入れを開けてみた。

奥の板は完全に塞がれ、もう開かない。

だけどそこに、ぽつんと紙コップが置かれていた。


赤い糸は――もう、結ばれていなかった。


私は、その紙コップを手に取り、そっと耳を当てた。

もう、何の音もしなかった。

ただ、遠くから鳥の鳴く声と、朝の風の音だけが届いていた。


トラックが動き出し、私は振り返る。

古い家は朝日に照らされていた。

その姿はまるで、長い時を経てようやく“眠りについた”ように、静かで穏やかだった。


私はそっとポケットの中を確かめる。

そこには、小さな赤い鶴。

羽の文字は、すでに消えかかっていた。


でも私は、はっきり覚えている。

あの声。あの手のぬくもり。

そして、赤い糸の重み。


それは恐怖ではなく、哀しみの名残だったのだ。




結び


人は皆、見えない糸でつながっている。

だがその糸が、いつも温かなものとは限らない。

時には、絶たれた想いが、時を超えてなお誰かを呼び寄せる。

そして、それに気づいた者だけが、

その糸をほどき、静かに終わらせることができるのだ。


“赤い糸電話”――

それは、つながるための道具ではなく、

さようならを言うための道具だったのかもしれない。


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糸電話の謎から息つく暇もないほどに物語の世界に引き込まれていきました。 押し入れに閉じ込められたときは私まで恐怖で縮み上がり、ゾッと鳥肌が立つほど。 物語全体が綺麗にまとまっており、一つの映画を見終わ…
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