ライラック
夕暮れどきの銭湯に行くのは心が弾んだものだ。
当時貧乏学生だった僕は、『風呂ナシ、共同トイレ、四畳一間』という部屋 に住んでいて、銭湯を使っていた。しばらくして銭湯の女将と顔見知りになっ た。気前の良い、思わず大将と呼びたくなるような性格の女将だった。よくその女将に頼み込んで、風呂を洗う代わりにタダで風呂に入れてもらったものだ。それ以来、せまい台所のシンクで身体を洗う機会もなくなった。
板塀に囲まれた脱衣所。ほのかな風にゆらめく湯気と、温泉印ののれん。
今日のようにとても寒い日だったと記憶している。
もう何十年前だろう。それすらおぼろげな記憶だ。
この街に戻ること自体が数十年ぶりだ。思い出せなくて当然だった。
いつのまにかブロック塀にかわった家々の板塀。未舗装だった道路はいつの間にか舗装されている。この銭湯だけがかろうじて、昔の面影を留めていたけれ ど、記憶の中の色あせたのれんは既に姿を消していて、新しい色合いののれんがかかっていた。仕方のないことなのだけれど、時間は確実に流れ、この景色を蝕んでいた。
きっと、時間が蝕んだのは景色だけではない。僕もまた、時間に蝕まれている。あの当時には感じなかった、粘性の液体に包まれているようなけだるさを覚える。そんな僕もまた、時間に置いていかれることなく、この街と同じように錆びついてしまったのだろう。
それは単なる時間の経過によるものだろうか? 日常生活にうみ疲れたせいだろうか?
全身を覆う、粘性のけだるさは、僕の身体に侵入する隙を狙っている。毛穴から、指の切り傷からでも、中に入り込もうとしている。僕は辛うじてそれを食い止める。白血球がウイルスの侵入を拒むように、時間を体の外に押しやろうとする。
ふと、顔を上げると、小さな花が咲いているのが見えた。
まだここに咲いていたのか。
僕はそんなことを思って微笑んだ。
◆◆◆
夕暮れどきの銭湯に行くのは心が弾んだものだ。
友人たちが片手に桶を持って集まっていた。脱衣場にたむろしていて、湯上りには腰に手をあてて、フルーツ牛乳を一気に飲んだものだ。夜になると親爺連中が現れて脱衣場にうみ疲れた空気が蔓延するのだけれど、夜8時までは僕らの時間だった。それなりにいい年をしているはずなのに、皆訳もなく騒ぎ、たまに濡れたまま脱衣場を走って、籐の床敷きに滑って転ぶヤツもいたくらい だ。
番台に座った爺さんには、よく大きな声で注意された。この爺さんは自分の耳が遠いので余計大きな声で叫んだ。爺さんは、僕等にとって要注意人物だった。捕まって耳をひっぱられながら耳元で説教されたら、しばらく耳が使い物にならなくなるからだ。
よく待合室で巨人戦を見ながら煙草を吸った。
番台の爺さんが大の巨人ファンだったのだ。
ある日テレビに故障中と張り紙がしてあったから、修理でもしてやろうかとしたら、番台の爺さんに止められた。
「今日はラジオだよ」
いつもとは違う、爺さんの小さめの声に妙に納得して、今日はテレビで巨人戦の中継をしていないことを思い出した。爺さんは少し罪悪感を感じていたらしい。
ステテコ姿に腹巻という格好で、爺さんは故障しちまったもんは仕方ねえ、と自分に言い訳するようにとぼけた。頭は潔く丸めたらしい。ツルツルした頭に短い白髪がまばらに生えていた。
爺さんに捕まって説教されるのはごめんだったけれど、僕らはどこかとぼけた爺さんが好きだった。
◆◆◆
ある日唐突に、爺さんが番台から姿を消した。
爺さんの代わりに、番台に若い女性が座っていたのだ。
あの日のことは本当によく覚えている。
竹久夢二の絵にいそうな、色が白くほっそりとした女の子だった。二つのおさげが、薄い肩に力なく乗っていて、僕の好みだった。
歳だけに、爺さんの行方も勿論気にならないという訳ではなかったが、年頃の綺麗な女性に惹かれて、僕は話し掛けた。
「酒井の爺さんは?」
「ギックリ腰。家で寝てるわ」
「君、はじめてみるね」
「今は夏休みだから、孫の私が代わりに番台にいるの」
会話が途切れた。僕は新しい話題を探したけれど、それ以外の話題も特に見つからず、手にした桶をポンポンと叩いた。とりあえず目に付いたからこんなことをしたのだけれど、余りの手持ち無沙汰に、僕は少し情けなくなった。
そうこうしているうちに、何人か新しい客が来て、小銭を番台に置き、脱衣場に消えていった。僕が余計に焦って娘を見ると、娘は小さく首を傾げたままでこちらを見た。
「お見舞い、行った方がいいかな」
「喜ぶんじゃないかな。退屈してたもの」
言ってしまってから、僕は後悔した。爺さんとは顔見知りで、少し話す程度だ。それほど親しい仲でもない。
「家、どこ?」
聞かなければいいのに、沈黙に耐えかねて聞いてしまう。僕は自分を心の中で呪った。
「この裏。白いライラックの咲いてる家」
「そう。じゃ、今度、お邪魔するよ」
慌てて脱衣場に逃げると、僕は大きく溜息をついた。先に脱衣場にいた仲間がそれを見つけて、にやにや笑っていた。
◆◆◆
後日、饅頭を持って、爺さんのお見舞いに出かけた。
ライラックという花がどんな花なのかはわからなかったけれど、白い花だというのですぐにわかった。表札を確かめて、ごめんくださいと声をかけると、引き戸から出てきたのは、あの番台に座っていた娘だった。
「こんにちは。爺さんのお見舞いに……」
「ああ、ありがとう。どうぞ入って」
縁側に面した部屋に通されると、爺さんは布団の上に起き上がった。いつものどこかとぼけた様子で、けれど少し嬉しそうに、よく来たと告げた。
お茶を入れに孫娘が台所に去ったのを確認して、爺さんはにやにやと笑った。それは僕があの女の子に初めて会った日、脱衣場で仲間がした笑いにとても似ていた。全てお見通しといわんばかりのその笑みに、僕は困って、膝も崩さないままうなだれた。
「学生さん、名前なんて言ったかねェ」
「福島です」
爺さんは縁側を眺めながら、団扇をゆっくりと扇いだ。しばらくの間、時間が、その団扇の動きと同じように、ゆっくり流れた。
遠くで湯の沸く音がした。
「惚れたかね」
爺さんが余りに唐突にそう言ったので、僕はうろたえた。
「いや、あの……」
「隠さんでもええ」
普段からは想像もつかない、カラカラという笑いをして、爺さんは饅頭をほおばった。
ふすまが開いて、孫娘がお茶を持ってきた。聞かれたのではないかと焦って、僕は饅頭を口に押し込んだ。
「おじいちゃん、あまり人をからかってると、また退屈するようになるわよ」
僕は口に押し込んだ饅頭を喉に詰まらせてむせた。孫娘が慌ててお茶を入れて僕に渡す。
「うちはボロだし、狭いもんでなあ」
僕の様子を横目で見ながら、爺さんは散々笑った。
縁側から見える庭には、白いライラックが咲いていた。
◆◆◆
それから夕暮れ時の銭湯には通わなくなった。
女将が番台にいる時間帯を狙って行くようになった。
娘に会うのも、爺さんに会うのも恥ずかしかったのだ。
今思えば、あれは恋だったのだろう。
大学を卒業し、就職し、この街を引っ越してから、ますます距離は遠くなった。
職場で事務をやっていた妻との間に子供も二人でき、その子供たちも成長して独立した。定年間近になって、ためこんだ有給休暇を使ってこの街にやって来た。
懐かしい街を歩くと、記憶が蘇る。
ブロック塀から白いライラックの花がのぞいている。昔は垣根だった。
酒井家の玄関前を通る。僕より少し若いらしい歳の女が水をまいている。
表札の名前は変わっていて、女にはあの孫娘の面影もない。
恐らく引っ越したのだろう。あの子とは関係のない別人だろう。
携帯電話が鳴って、僕の感傷は打ち破られる。
携帯電話の音は、急に僕を現実に引き戻した。
娘と買い物に出かけた妻からだった。そろそろ食事をしようという妻に、旅館に戻るから少し待っていてくれと返事をして、電話を切った。
先ほどまで感じていた粘性のけだるさを、感傷と共に忘れ、僕は路地を後にした。
白いライラックだけが、いつまでも記憶の隅に残っていた。
<おわり>