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雅行はじっとあたしを見つめていた。けれど、あたしはその顔を見返すことができない。何とか腕を振りほどこうと試みているうちに、雅行の影があたしを覆った。
唇を押し付けられて、歯がぶつかりかちりと鳴る。あっという間に抱きすくめられて、また唇をふさがれた。
「……!」
首をよじって、キスから逃れる。抵抗しようとして、力の差をありありと感じた。
「はなして……!」
今までの雅行は、とてもやさしくハグをしていてくれた。あらためて、それに気づいた。
「そんなに……嫌か?」
低く、絞り出すような声。耳元に息が当たって、あたしは背中がかっと熱くなる。
胸が強く痛んだ。こうして雅行の腕の中にいることが、とても嬉しいはずなのに。それ以上に、痛みのほうが強い。
抱かれている痛みじゃない。抱かれることで感じる、心の痛み。胸を鋭くとがった爪の先で、何度も何度も刺されているような、そんな痛み。
この痛みが消えない限り、あたしは雅行を受け入れることができない。
受け入れたいと思っているのに。わかっているのに。でも痛みだけが、どうしても消えてくれない。
「嫌なの!」
叫びながら、あたしは自らの胸をかきむしった。
「嫌なの嫌なの嫌なの! ハグするの、嫌なの!」
まるで子供みたいだった。何度も何度も繰り返すと、そのたびに雅行の力が増して、あたしの声が次第にかすれていく。
「七海……」
「嫌! 嫌なの!」
どうしてこんなに痛いんだろう。ハグをしても、それを拒んでも、どうしてあたしの胸はこんなに騒いでばかりなんだろう。
どうしてあたしは、素直に好きと言えないんだろう。
「……わかった」
雅行が、離れる。それに安堵の息をついたはずが、あたしの胸はいぜん苦しいままだった。
「ごめん。もう、しない」
名残惜しそうに、ゆっくりと肩から手が離れる。踵を返そうとする雅行の表情を、あたしはようやく見上げることができた。
「まさ……」
「じゃあ、俺、戻るな」
一瞬、目が合う。その雅行の表情。疲労困憊で、今にも泣き出しそうで、ふとした拍子に崩れてしまいそうな、そんな弱々しい表情。
唇を噛みそうで、それをこらえるような。ふるえる身体をおさえるような。瞳が揺らいで、まぶたにたまる涙をこらえるような。
「雅行……」
彼は決して振り返ろうとせず、屋上から出て行った。バタンと扉の閉まる重い音がして、あたしは力が抜け、その場に膝をついた。
――痛い。
苦し紛れに、あたしはリボンをはずす。でも痛みは消えない。そんなのわかってる。
不思議と涙は出なかった。むしろ、今自分がしたことに呆然としていた。
雅行を傷つけてしまった。
その事実に、今になってようやく気がついた。
彼はあたしを好きといってくれたのに。
あたしはそれを拒んでしまった。
「……もう、やだ」
コンクリートの上にぺたりと座り込んで、あたしは呟いた。頭をかきむしって、両手で顔を覆う。ようやく目頭が熱くなってきたけど、やっぱり涙は出てくれなかった。
どうして自分はこうなんだろう。
タイムマシーンで戻りたい。
ううん、そんなことしないでいい。
戻ったって、いずれはこうなってしまうことだったから。
○○○
「どーして七海は、それをチヅに相談しないかなー!」
「だって、お互い忙しかったでしょ」
まぁそりゃそうなんだけどと、千鶴は呟きながらカレーのじゃがいもをほおばった。
「はんははへぇ……」
「食べるか喋るかどっちかにしようよ」
最後の一口を豪快に流し込み、千鶴はごちそうさまと手を合わせる。そして牛乳を飲み干してから、あらためて「なんだかねぇ」と言った。
「七海は、本っ当に不器用だよね」
「そうだね……」
あたしは食欲がなくて、残した。小さな折りたたみテーブルの上には、二人ぶんのカレーと牛乳と、サラダの入ったお皿が並んでいた。
学校祭の前日準備もどうにか終わり、あたしの家には千鶴が泊まりに来た。電車でけっこうな時間がかかるところに住んでいる千鶴は、明日の朝早くからのハードなスケジュールを考えて、学校に近いあたしの家に泊まることになったのだ。
もちろん明日の朝だけではなく、今日も夜通しする作業がある。それをふたりで片付けるためにも、缶コーヒーとガムをたくさん買い占めて、今日は徹夜を決め込んでいた。
「今日は雅行、啓一のとこに泊まるはずだよ」
「そっか。啓一くんも家近いもんね」
あちらではあちらの作業がある。はたして男子二人で徹夜となると、一体どんな会話が生まれるんだろう。
「これから行ってみる?」
「今日は作業をするんでしょうが」
空になったお皿を台所にさげ、あたしたちはそれぞれ手に道具を持ち、あーでもないこーでもないと討論しながら作業を開始した。
ただし。テレビはつけっぱなしで魅惑のお菓子もならべ放題だから、作業効率はあまりよろしくない。
「……ねぇ、七海」
「なに?」
「七海は、雅行のこと嫌いなの?」
訊かれて、あたしは手を止める。手に持ったマジックが乾いてしまわないよう、ふたを閉めた。
「嫌いじゃないよ」
「嫌いじゃないなら、どうして拒むの?」
手の甲にも平にも指先にも、いたるところについた色とりどりのインク。それをティッシュでこすりながら、あたしは必死に言葉を探した。
テレビ画面の向こうでは、バラエティ番組の笑い声が聞こえてくる。とっさに会話をそちらにずらそうとしたら、勘のいい千鶴に消されてしまった。
「七海としかハグしないって言ったってことは、雅行は七海のことが好きって言ったってことなんだよ?」
「それは……わかってる」
うつむくあたしを覗き込むように、千鶴が顔を近づけてくる。さっき食べたカレーと一緒に、やっぱり、たんぽぽの香りがした。
「七海も、雅行のことが好きなんでしょ?」
「好きだよ」
その答えに迷いはなかった。あたしは雅行のことが好き。それはどんなにこらえたとしても、あふれ出てきてしまう感情だった。
「好きなのに、どうして?」
「あたしも、よくわかんないの」
もしあたしが千鶴だったら。きっと迷わずに自分の気持ちを伝えることができたのだと思う。
じゃああたしは、どうして言えないんだろう。どうして拒んでしまうんだろう。
「七海は、ハグするの、嫌いなの?」
「嫌いじゃないよ。最初は苦手だったけど、今は羽生高にきてよかったなって思ってる」
もし違う高校を選んでいたら、あたしはハグをすることもなかったし、千鶴という友達もできなかった。FREEHUGSという活動も知らなかった。
なにより、雅行と出会うこともなかったんだから。
「ただ、雅行とハグするのが、なんかだめなんだ……」
「だめって、どんなふうに?」
「こうね、ここらへんが、すごく痛くなる」
自分の胸をとんと指さして、あたしは苦笑した。
痛みの原因はわかってる。これは雅行のことが好きな気持ちだった。
「最初はさ、ここがきゅんってなってたの。ハグしたときとか、話したときとか、目があっただけでもそうなって、すごく嬉しかったの」
でもね。あたしは言葉を切る。千鶴は唇を変な形にまげて、何か言いたそうなのをこらえていた。
「そのうち、雅行がほかの子とも……千鶴とハグしてるのを見てるだけでも、ここがざわつくようになったの。きゅんっていうのをとおりこしてさ、痛くなって、その痛みがどんどん強くなって、自分とハグするときもそうなるようになったの。それで、我慢できなくなって……」
「だからそれは、雅行がほかの子たちとするのが嫌だったんでしょ?」
「自分にされるのも嫌なの」
「自分もほかの子と同じなのが嫌だったんじゃない? やきもちやいて、自分が特別になりたかったんじゃないの?」