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いまさら雅行になんと言えばいいのか。
あたしはトイレの鏡を前に、ボサボサの髪に櫛をいれる。はねたところに水をつけようと蛇口をひねると、指先をすりぬけた水は、排水溝にたまったほかの生徒の髪の毛の間を力なく流れていった。
たった二言、簡単な言葉であるはずなのに、どうしてあたしはそれが言えないのだろう。「好き」とひとこと、あたしはどうして言うことができないんだろう。
すき。そう、二文字。ただ、雅行にそう伝えるだけなのに。言わなくても、雅行は態度で示してくれたのに。
いまさらあたしも好きだなんて、言えるわけがない。
前髪のはえぎわに、ニキビをひとつみつけた。恋をすると女の子は綺麗になるというけど、あたしは恋に悩んで肌や髪がぼろぼろになっている。鏡の中の情けない顔を見て、よけい気がめいった。
なんでこんなに苦しいのだろう。いや、自分で自分の首を絞めていることぐらいわかってる。でも、今更どうすればいいのだろう。
深いため息をつき、あたしはトイレから出た。
廊下に出てまず、学校の変わりぶりに唖然とした。売り子が着る衣装の仕上げを手伝ってから被服室を出て、トイレに行った。そのわずかな時間で、廊下や各教室はパラレルワールドに変わっていた。
肝だめしをするクラスは教室中に暗幕をはりめぐらせ、ゴミ袋でなにやらのれんをつくっている。中華料理の店を出すクラスは、驚くことに入り口に朱色の鳥居をたてていた。
ちなみにあたしたちのクラスはお菓子の家になる。モデルはヘンゼルとグレーテルで、提案したのは意外にも男子たちだった。かわいらしいお菓子を作るのもまた男子の仕事で、あのごつくて大きな手でフルーツパフェやチョコタルトを作るのだというから、想像するだけで笑ってしまう。
すこし時間ができた。教室に戻ろうとして、あたしは足をとめた。クラスのみんなの、詮索を入れはしないけど好奇心に満ちたあの視線。あれが非常にいたたまれない。
談話室に行こうかな。あたしはまたひとつため息をついて、階段を下ることにした。
「――あ、七海」
でもこういうときにかぎって、会いたくない人と会ってしまう。両手にたくさんの模造紙を抱えた雅行が、足取りおぼつかなくのぼってくる途中だった。
「ちょうどいいや。手伝って」
「えーっ」
嫌だ、と言ってしまえばそれだけのこと。けど、あたしはできない。何より雅行がいつもと変わらない様子で話しかけてくるのだから、変に拒んでしまうことのほうがおかしいに決まっている。
「どうしたの、こんなに大量に」
あたしはしぶしぶ、模造紙を受け取った。
「屋上から垂れ幕にするんだよ。生徒会も人手不足だからさ、これ全部俺ひとりでやんの。頼むから見捨てないで」
代々、生徒会執行部は学校祭になると鬼に変わる。両手に道具を抱えた役員を見たら逃げ出したほうがいいと言われていた……こうしてつかまってしまうから。
結局あたしは屋上まで荷物を運ぶのを手伝い、おまけに垂れ幕を取り付けるのも手伝う羽目になってしまった。
「雅行……それ、字、逆じゃない?」
「ああ、本当だ」
変な心構えをする以前に、雅行はもうへとへとだった。二年といえど、生徒会では下っ端になる。こき使われているかと思えば、いやいや三年はもっと重労働だ。
「このままここでさぼりだおしたい……」
「でも仕事はたんまり残ってるんでしょ!」
背の高い屋上のフェンスにしなだれかかる雅行に活を入れ、あたしは模造紙の中から羽生高学校祭の大きな布幕を見つける。そしてその下に隠れていたものを見て、ああなるほどとうなずいた。
「だから雅行はこの係になったわけね」
「それはいいから、ちょっと、こっちおさえてよ」
ふいに吹いた風に垂れ幕をさらわれそうになって、あわてて雅行がしがみつく。あたしも手伝って、二人で屋上にもんどりうった。
垂れ幕は当日垂らすらしく、準備は丸めた状態のものを紐でくくって設置するだけ。それでも各クラスの宣伝文句や部活動のPRなどなど飾るものも多く、ひとりでは本当に大変な作業のようだった。
「あー、よかった七海がいて。昨日に引き続き、協力に感謝します」
「そんなお化けみたいな顔されてたら、誰だって手伝うと思うよ」
深々と頭を下げる雅行にひらひらと手をふって、あたしはフェンスから校舎を見下ろした。思いのほか疲れる作業に汗をかいているので、すこしここで風にあたっていたい。
学校祭準備は着々と、校舎外にもすすんでいた。校門には雅行がポスカまみれになって作った看板が。校門から玄関へと続く道では、部活動の屋台が並び始めている。グラウンドの真ん中にはキャンプファイヤーの場所取りでロープが設置されていて、そのまわりでは出来上がったクラスから順に、行灯の土台を組みたてはじめていた。
明日はついに学校祭。去年は初めてのことだらけでいっぱいいっぱいだったけど、二年目の今年ならすこしは楽しめそうな気がする。
「あの窓から風船出てるクラス、あたしたちのとこじゃない?」
屋上から見下ろしていると、どこがどの教室かわからない。けれど開け放った窓から色とりどりの風船が紐につながれているのは間違いなくあたしたちのクラスで、そういえば朝に男子たちが顔を真っ赤にしながら空気を入れていたのを思い出した。
「どれどれ?」
「すぐそこの……あ、飛んだ」
つないでいた紐が切れたらしく、風船がボロボロと外にこぼれだした。かすかに、悲鳴が聞こえてくる。風にあおられて、ヘリウムが入っていなくても風船は空を舞った。
「あーあ、どうするんだろう、あれ」
フェンスに指を絡め、あたしは深く校舎を見下ろす。もたれかかっていたフェンスがふいにきしんで、はっと気づけばもう遅かった。
「ちょっと、雅行!」
「なに?」
「なにじゃなくて!」
フェンスにもたれるあたしを逃がすまいと、雅行はあたしに覆いかぶさるかのように、両腕を突き出してフェンスに手をついていた。
彼は腕が長いから、あたしがいるスペースもそれほど狭くはない。けれどまるで後ろから抱きしめられているようで、あたしの身体は自然とこわばっていた。
「どいてよ」
「やだ」
「やだじゃなくて」
「だってハグしてないじゃん」
あたしは身体をぴったりとフェンスに預けて、できるだけ雅行から離れようとした。もちろん顔なんて見れるわけがない。ただうつむいて、風に揺れるスカートの乱れるプリーツを見つめていた。
「別にハグしないったって、近寄るなって言われたわけじゃないし」
まるで耳元でささやかれているような気分だ。あたしはフェンスに絡める指の力をいっそう強くして、あとがつくんじゃないかというぐらい頬を押しつけた。
こんなときでも、胸の鼓動は高鳴る。どきどきしている自分に腹が立つ。赤くなる頬に、身体は正直なのだなと思い知った。
「じゃあ……近寄らないでよ」
「どうして?」
「嫌なの」
「なんでさ」
「嫌なの!」
半ば怒鳴るような声をあげたあたしに、雅行の手が緩んだ。
「なんでだよ。今まで普通に、ハグだってしてただろ」
「してたよ」
「なのにどうして突然……」
「嫌だったの」
雅行の手が離れる。それを確認してから、あたしはようやく、彼を振り向いた。
「嫌だったの、雅行とハグするのが」
「じゃあどうして今まで……」
「言えなかったの!」
瞳が泳いで、顔を見ることができない。彼のネクタイ、ワイシャツの襟、ズボン、ブレザーのボタン。視線が動いて定まらない。
「言えなかったの。ずっと、黙ってたの」
雅行のこぶしは強く握られて、ふるえている。そしてふいに動いたかと思うと、あたしは肩をつかまれた。
「離してよ……っ!」
「いやだ」
「離してってば!」
助けを呼ぼうにも、屋上には誰もいない。普段は立ち入り禁止で、しかも鍵を持っているのは雅行ひとり。どんなに叫んでもこの声は誰にも届かない。グラウンドからも、あたしたちの姿は何をしているかわからない。