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「……なっちゃん?」
突然黙り込んでしまったあたしを、啓一くんが不思議そうに見つめてくる。それに曖昧に笑ってみせるけど、彼だって千鶴からある程度聞いているはずだった。
「僕でよければ、話、聞くぐらいはできるよ? あまり参考にはならないだろうけどね」
そう謙遜して笑う啓一くんに、あたしはありがたく甘えることにした。雅行がどうのとか込み入った話じゃなくて、このぐるぐると巡る思考をどうにかして止めたかった。
「……啓一くんは、どうして羽生高に行こうと思ったの? やっぱり、ハグしたかったから?」
予想した質問とは違ったのだろう、啓一くんはきょとんと目を丸くする。でもすぐにあたしの意図を察してくれたのか、キーボードから手を離してこちらを見た。
「僕は家に近いから羽生高にしたんだよ。なっちゃんと同じ」
啓一くんの答えは意外だった。同好会を作るぐらいなんだから、てっきり千鶴や雅行と同じく、ハグが大好きで入学したと思っていたのに。
「ハグするのとか、抵抗なかった?」
「最初はあったよ。でも、慣れたらむしろ大歓迎だったかな?」
彼の言葉に、何か裏がある。それを察してしまったあたしが深く訊こうか迷っていると、啓一くん自ら話してくれた。
「正直、最初は下心だったんだよね。女子とハグしたら、やわらかかったりいいにおいがしたり胸があたったりするから。……なっちゃん、僕も男なんだよ」
ぽかんと口をあけるあたしに、啓一くんが苦笑する。そんなことわざわざ言わなくてもいいのに、と思う心は彼も知っていて言ったわけで。
「でもね。そういう人がいるっていうことも、知っておいたほうがいいよ。実際、チヅだってそういう人に会ったりしたから」
「あ……」
この間のFREEHUGSのとき、千鶴が言っていた人のことだ。あのとき真っ先に千鶴を助けたのは啓一くんで、彼もやはりそのことを覚えていたのだった。
「もちろん、すべての男がそうじゃないからね。雅行を見てたらわかるでしょ? 純粋にハグしてくれる人のほうが多いんだよ。僕もいろんな人とハグしたり、ハグするの見てたりして、それに気づいたんだ」
残りのコーヒー牛乳をすすって、啓一くんは一息つく。登校する生徒が続々と作業を始めだしたのか、廊下の賑わいが聞こえてきた。
「で、偶然見たテレビでFREEHUGSを知って、ネットで調べてさ。動画の中でハグしてる人たちが、みんなすごく幸せそうにしてて、それで僕もやってみたいと思ったわけ」
その動画は、あたしも見せてもらった。
もとは、アメリカの一人の青年がはじめたのがきっかけだった。
彼の母親は、たくさんの人々を抱きしめてどんなに『あなた』が大切であるかを伝える素敵な人だった。そんな母を亡くし、大切なことに気づいた青年が、『FREEHUGS』と書かれたボードを持ってマイアミの海岸を歩いたのがはじまり。そしてその輪は今、世界中に広がっている。啓一くんのように、動画を見て影響を受けた人は多い。かくいうあたしだってその一人だ。
「もともと学校ので、ハグの楽しさは知ってたからさ。チヅとか雅行とか、ハグが好きそうな人に声かけたら二つ返事でOKしてくれたんだよね」
「へぇ、知らなかった」
また一粒チョコをもらって、あたしはかりかりと食べる。パソコンの画面で時刻を知った啓一くんが「戻ろうか」と立ち上がったので、結局あまり作業はできなかった。
「チヅとか雅行がハグしてるの見てたら、なんかこっちまで楽しくなるんだよね。ハグする自分も楽しいしさ。なっちゃんもそう思う?」
「思うよ」
そっか、と啓一くんはまた笑う。本当に彼は落ち着いていて、よく気がつく。あたしが考えていることを、それとなく察してくれていた。
談話室を出て、先に啓一くんと別れて。自分の教室に戻ろうとして、あたしは雅行が先を歩いているのに気がついた。
「――はよー、雅行」
誰かが雅行を呼ぶ声。それにおはようと返しながら、雅行が教室に入ってゆく。あたしが教室に入るのをためらっていると、後ろから誰かに猛烈なタックルをされた。
「おはよう! 七海」
「あ、千鶴……」
「啓一と談話室で作業してたんだって? 言ってくれたらチヅも行ったのに」
いつもどりおはようのハグをして、あたしは千鶴のあとに続いて教室に入る。うつむいて教室を見まいとするあたしの様子に気づいたのか、友達とハグを交わしている千鶴が首をかしげた。
おはよう、おはよう。いろんなところで声がする。それはいつものことで、挨拶なんて誰もがすること。雅行もそれにこたえている。
けど、ハグはしていない。この目で見ていないけど、空気でわかる。教室が戸惑いの空気に満ちている。そりゃあそうだ、雅行がハグをしないなんておかしなことだから。
「おはよー、雅行」
「はよ、千鶴」
千鶴がハグをしようと動いて、あたしはようやく顔をあげた。先に自分の席につこうとしていた雅行に、千鶴が腕を広げてハグしようとする。
「わり、遠慮しとく」
けど彼は、それを拒んだ。
千鶴もそれに戸惑っていた。そしてはっとした様子で、あたしと雅行を見比べた。
「おはよう、七海」
「……おはよう」
あたしに気づいた雅行が、近づいてくる。ハグをしようとする前の、ただの挨拶の時点なのに、あたしは彼の顔を見ることですらできなかった。のばされた手からも逃げた。
それだけで、クラス中が事態を察したようだった。
ざわめくでも視線を交わすわけでもなく、ああなるほどかと納得したような、安堵の息のようなものが口々に漏れる。なにがあった、ではなく、そういうことか。ハグをめぐる色恋沙汰は珍しくないし、それでいちいち騒ぎ立てることをみんなはしない。
雅行は無理にハグしようとせず、あきらめて席についた。あたしも大人しく自分の席に座った。
背中に、視線を感じる。もしかしたら見ていないのかもしれないけど、雅行がいると思うと、どうも見られているような気がしてならなかった。
「七海……」
後輩から聞いたのかもしれない。千鶴が声をかけてくる。
あたしはそれに、ただ曖昧に笑うしかなかった。