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けれど啓一くんは、何事もなかったかのようにあたしから離れた。ここで下手に動けば雅行に感づかれる。こっそりあたしにウインクをして、今度は雅行とハグをした。
あたしたちも何食わぬ顔で、談話室へと入っていった。
○○○
「……ハグ、しないんじゃなかったのか?」
やっぱりというかなんというか、雅行は作業の手を止めずに、あたしにそう尋ねてきた。
学校祭前々日。授業は今日までで、明日は完全に準備時間になる。すでに放課後になり、学校全体がフライングだけれど学祭準備を始めていた。
生徒会執行部は連日作業に追われていて、早くも放課後から会場の飾り付けを始めるらしい。あたしは色とりどりのセロファンを大量に抱えて廊下を疾走する雅行に運悪くつかまり、問答無用で手伝うことになってしまった。
どうやら、廊下の蛍光灯の下にセロファンを貼って、明かりの色を変えるらしい。脚立にのぼって貼り付ける雅行に、あたしはセロファンやテープを渡していた。
職員室の手前まで作業がすすんだので、突然先生たちがドアを開けて出てくるからびっくりする。中には作業中のあたしたちに「頑張れよ」と声をかけたりハグをしてくれる先生もいた。
「聞いてるか? 七海」
「聞いてるけど、このセロファン破れちゃってるよ」
彼に渡すつもりだったセロファンをテープで補修しながら、あたしはついに来たと内心身構えた。
あの『ハグしない』宣言以降も、あたしはハグをしている。雅行とはしていないけど、同好会の子とは普通にしているし、クラスメイトとだってしている。その様子を雅行は見ているわけで、どうも腑に落ちずに今まで悶々としていたのだろう。
いや、本来ならこれでいい。あたしは雅行とハグがしたくないだけで、ほかの人とはしても大丈夫なのだから。でも雅行はあたしが誰ともハグをしないものだと思っているわけで、だからあたしの行動は矛盾していると思っている。
「七海、ハグしないんじゃなかったのか?」
同じ質問を、彼は繰り返す。あたしは答えずに直したセロファンを渡したけど、それを貼る彼は、この話をしないと気がすまないらしい。
「なのに普通に千鶴とかハグしてるし、嫌だったらはっきり言ったほうがいいって」
そしてやっぱり勘違い。
「なんだったら俺から言ってやろうか?」
「いいよ」
居心地の悪さに、あたしはついそっけない返事をしてしまう。自分でもわかるぐらい、胸の鼓動が早くなっていた。
貼り終えたセロファンがはがれないか確認して、雅行が脚立から降りる。真正面に立って顔を覗き込んでくるので、あたしはとっさに顔をそむけた。
「いいよって、それじゃあ七海このままいやいやハグ続けるのか? ストレスたまるぞ?」
「これで全部終わった?」
一階の廊下が全部終わったのを確認して、あたしは脚立をたたんだ。
「七海……」
「じゃあ、あたし模擬店戻るから」
テープと脚立を雅行に渡して、あたしは踵を返す。これ以上話をしていたら、本当に泣き出してしまいそうだった。
「待てよ」
体育館のほうから、女バレのにぎやかな笑い声がしてくる。職員室に用があるみたいで、赤いジャージを着た数人の一年生が、わいわい話しながらこちらに歩いてきた。
「七海。ちゃんと話、しようよ」
雅行に手首をつかまれて、あたしは戻ることができない。振りほどこうとしたけど、できない。力が強かった。
雅行に気づかれないよう、あたしはそっと深呼吸をする。吐き出した息がふるえた。
言えば楽になるだろうか。そう思うけど、どうしても声が出ない。雅行の反応がこわくて、どうしても言い出せない。
口を開けば、別の言葉が出た。
「……あたし、もうハグしないから」
「してたじゃん、ずっと」
「雅行と」
えっ、と。彼はそう言いたかったのだと思う。でもそれは声になりきれず、息づかいだけが聞こえた。
あたしは雅行を振り向き、顔を見ようとして、できずに視線を足元に落とした。近づいてくる女バレの子たち。手にはたくさんのプリントを抱えていた。
「……わかった」
その子達が、こちらに気づく。なにやら不穏な空気を察したのか、話し声がいくぶん小さくなった。
「じゃあ、俺ももうハグしない」
手首をつかむ手に、力がこもる。その痛みに、あたしは涙がにじんだ。
つかまれた痛みではない。いつものあの、胸を刺す痛みだ。
自分から言い出したことだというのに、涙が出そうになる。泣くまいと唇を噛むと、ふいに雅行があたしを引き寄せた。
この学校で、そんなことされるのは当たり前。だから遅れて走ってきた女バレの子も、あたしたちをちらりと見て、驚きもせずに過ぎていった。
あたしは雅行に抱きしめられていた。
驚きに硬直して、あたしは雅行を振りほどくことができなかった。はっと我に返ってみても、腕の力がまた強くて、そう簡単に抜け出すことができない。
今まで、雅行にこんなに強くハグされたことはなかった。千鶴に比べたら全然なのに、息がつまるほど、苦しい。
「俺、七海以外とハグしないから」
ほんの一瞬のことであるはずなのに。雅行が離れるまでの時間が、とても長く感じられた。
「だからもうほかのやつとハグしない。手伝ってくれてどうもな。二階は一人でやるから」
離れた手は、あたしが抱きしめてくしゃくしゃになったセロファンを抜き取る。雅行は何事も無かったかのように、脚立や道具を拾い上げ、いつものゆったりとした歩調で二階へと歩いていった。
しつれいしまぁすと、間延びした声で職員室に入っていく女子たちが、入る寸前、あたしをちらりと見ていた。