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そもそも同好会ができたのだって今年の春。結成わずか数ヶ月なのだから、地域にも学校にも、浸透するにはもう少し時間が必要だ。
「……ねぇ、千鶴」
「なぁに?」
話しかけると、千鶴は興味を示している少年に、腕を広げてアピールしていた。あの学ランは近くの中学校だ。FREEHUGSの存在を知っていたようで、行こうか行くまいか悩んでいるらしい。千鶴は視線をおくるあたしにちろりと舌を出して、そっと彼に近寄っていった。
少年は千鶴に、不安と期待が入り混じった顔でなにやら訊いている。たぶん、この活動が自分の知っているものと同じなのか確認しているのだと思う。そしてそれに千鶴は大きくうなずいて、ふたりは両手を広げてハグをした。
学校ではいつも見慣れている光景だけど、それこそ今は本物の公衆の面前。突然のハグを見て驚く人もいれば、冷たい視線を向ける人もいて、そして中には微笑んでくれる人もいた。ほかの場所では学生たちみんなでハグするから、まるで人だんごのようになってしまっている。
晴れ晴れとした笑顔で戻ってきた千鶴は、あたしの表情のひどさに肩をすくめて、同じように隣にしゃがんだ。
「そんな顔してたら誰もきてくれないよ?」
「今はそんな気分じゃないの」
じゃあなんで今日の活動に参加したのか。こうして千鶴と話をしたかったからだ。
「ねぇ、千鶴」
「だから、なぁに? どうせ雅行のことでしょ?」
とうの雅行も、同好会の会員だ。けれど本日はお休み。学校祭前なので、本業の生徒会の活動で忙しそうだった。
同好会はほかの部活にはいっていてもできるから、千鶴や雅行のようにかけ持ちしている人も少なくない。会員は地道な呼びかけで少しずつ増えてきているけど、学校のハグと外のハグは違うもの。そんなに多くは集まらなかった。
ちなみにあたしは、同好会以外に何もやっていない。
「まぁ、そうなんだけどさ」
「いいじゃん。七海がああでもしなかったら、たぶん卒業するまであのまんまだったと思うよ?」
千鶴は前から、あたしの気持ちを知っていた。一年の冬休みに彼女の家に泊まったときに、『七海って雅行のこと意識してるでしょ』と言われていた。そのときあたしは否定しなかったし、千鶴もそれ以上何も言わなかった。その後も、変に仲を取り持とうとしなかった。
お互い今までそれについては深く触れてこなかったから、いざ話をするとなると、どうしていいのかよくわからなくなってしまう。
「雅行はにぶいからねー。告白するなら七海からじゃないとだめだね、きっと」
「告白、かぁ」
だめだ、ぴんと来ない。ついにあたしは頭を抱えた。
雅行のことは好きだ。それだけは確信している。だからといって、それでどうこうするつもりはない。告白して、ふられて、お互い気まずくなるなんて絶対嫌だった。
だからこのまま卒業まで、仲良く友達をして、ハグをして、話ができればよかったはずなのだけど。
「なんであんなことしちゃったんだろう……」
「やきもちでしょ」
ずばり。千鶴の言葉はど真ん中だった。
「雅行がほかの人とハグするのが嫌だったんでしょ? それと同じように自分もされるのが嫌だったんでしょ?」
そう。まさしくそのとおり。
だからといって、あたし以外の人とハグしないでなんて言えるわけがない。そんなのあたしのわがままで、雅行に押し付けるべきことではない。
そもそもあたしは、雅行の彼女でもなんでもない。ただのクラスメイトで、ただの友達。あたしもそれを望んでいた。
「……頭がぐちゃぐちゃになる」
「やってしまったことはもうどうしようもないんだし、前向きに考えようよ?」
ねっ、と千鶴があたしを立ち上がらせる。そしてひとつ、ハグ。やわらかくて力強い腕に包まれて、千鶴の香りでいっぱいになる。彼女の腕の中にいると、あたしはいつも心にエネルギーをもらえるような気がした。
「ねぇ、千鶴」
「なぁに?」
「FREEHUGSやってて、変な人に触られたこととかないの?」
「あるよ」
さらっと言って、千鶴はあたしから離れた。
そしてそのまま、ボードを掲げて人の波に飛び込んでゆく。ボードに興味を示した人がいたようで、その場で膝をついて大きく手を広げ、相手が来るのを待った。
ややあって、腕の中に小さな女の子がとびこんできた。
前に見た動画もこうだった。ハグをする人同士がみんな笑顔で、あたたかくて、見ているこっちまで胸がほっとするような、そんな優しい気持ちでいっぱいな光景。それが今、あたしの目の前に、たしかに存在している。
女の子は満足したようで、お母さんのもとに戻ってゆく。それにばいばいと手をふって、千鶴もまた、あたしのもとに戻ってきた。
「今みたいに無邪気にしてくれるならいいんだけどね。あったよ、離してくれないこととか」
「そのとき、どうしたの?」
「啓一と一緒だったから、助けてもらっちゃった」
えへっと千鶴は舌をだす。あっけらかんと、実に彼女らしく全然気にも留めていなかった。
「だってそれ以上に、楽しいんだもん。ありがとうとか言ってもらったらもう、胸触られたこととかどうでもよくなっちゃう」
かといって千鶴は、あたしにFREEHUGSを無理強いしてくることはない。同好会に引っ張ってきたのはまさしく彼女だけど、あたしが自分からできるようになるのを見守っていてくれた。
「――あ、啓一だ」
おーい、と千鶴がボードを持った男子に声をかける。すると彼はこちらに気づいて、人の波をかきわけ駆け寄ってきた。
そしてそのままの勢いで千鶴を抱き上げ、ラブロマンス映画のワンシーンみたいにくるくるとまわる。さすがにこれには、あたしも周囲の人たちも驚いていた。
本家本元。彼――啓一くんこそが、この同好会の会長だ。
「よ、なっちゃん」
「こんちわ」
同級生のわりに、啓一くんには妙な落ち着きがある。銀縁眼鏡に長めの前髪を斜めにたらして、きっちりブレザーを着ていると、雅行と同じものを着ているとは思えないぐらいに大人びていた。
啓一くんはあたしを見て、ちょっとためらう様子を見せた。だからあたしは、自分からハグをする。もちろん千鶴がしていたような熱烈なものではなく、軽く腕をまわすハグだ。
同じハグ高の生徒には、駅前でも、学校の延長のような感じで、気軽にすることができた。
こうしてハグしてみると、やはり雅行は背が高いのだなと思う。ハグする力も、啓一くんは遠慮がちだった。身体もすぐに離れた。
「なっちゃん、今日、誰かとハグした?」
「七海と学校の子たちと、啓一くんだけ」
それに、啓一くんは笑うだけだった。そっかそっかと笑って、きてくれてありがとうと言う。礼儀正しい彼はパソコン部に所属していて、たまにFREEHUGS活動の様子を動画や写真に撮ってはネットで公開しているようだった。
「チヅたち、そろそろ帰るね」
「気をつけろよ」
同好会の主な顔はこのふたりだ。その補佐にあたしと雅行がいるような形になっている。一年生はまだ学校になれたばっかりだし、三年生は受験が待ち構えているので、同好会をまとめる余裕がなかった。
「チヅのクラスは学校祭どうすんの?」
「チヅたちは模擬店だよ。でもチヅは女バレのほう行くから、詳しいのは七海のほう」
一年生の宿泊研修が最近終わった。そうしたらもう次の行事は学校祭。だから雅行も忙しいし、同好会の集まりだって悪い。そもそも千鶴だって、高体連の練習はどうしたんだろう。
いくつか会話をしたあと、啓一くんはそれじゃあとあたしにお別れのハグをした。
そして、千鶴にハグ。
じゃあねと手を振って、あたしたちはそれぞれ、ボードをスクールバッグの中にしまいこんだ。
「――おっす、おつかれ」
「あ、雅行」
生徒会が終わったらしい。雅行もご帰宅のようで、あたしたちに気づいてやってきた。
「どう? 執行部、順調?」
「微妙だな」
苦笑しながら、彼は千鶴にハグをする。ボードはもう片付けてしまったけれど、同じ学校の生徒なら、校外でもハグをするのは珍しくなかった。
「今日はなにもなかったか?」
あたしにハグをしようとして、雅行は寸前で止める。朝のあの発言を思い出して、舌を出してごめんと笑った。