end
校舎の端から端まで、フェンスは広くはりめぐらされている。そこにかけられた垂れ幕。羽生高学園祭とか、2Bメルヘンづくしのお菓子の家、とか。
そんな垂れ幕を覆い隠すように、黒い布がいくつもかけられていた。
I HUG YOU !
背の高いフェンスをまるまる使った、遠くから見ても良く目立つ文字。この校門をくぐった人が、一番最初に目につく、迫力のある黒い文字がそこにはあった。
雅行の担当はこれだった。生徒会と並行しながら、この巨大文字を作る。そして当日、垂れ幕を下ろすと一緒に、この文字もとりつけた。たぶんあのはがれかかっているところはゴミ袋だ。
「七海、ほら、早く出して!」
「あ、うん!」
千鶴にせかされて、あたしはバッグからいくつも紙を取り出した。画用紙、スケッチブック、ダンボール。色とりどりのペンで、いろんな言葉をこめて、それを飛び入り参加の人たちに配って歩く。
書いている言葉。それはあたしたちがいつも、駅前で掲げている合言葉。
FREE HUGS
学校祭の活動許可がおりなかったあたしたちFREEHUGS同好会は、こうしてゲリラでFREEHUGS活動することを計画していた。
校門のほかにも、いろんなところで会員たちが活動をおこなっているはず。あたしたちの担当はこの校門前。学校祭に来てくれる他校の人や保護者の人たちに、FREEHUGSを知ってもらうのが狙いだった。
活動をしているうちに、ほかの生徒たちも混じってくれていたらしい。ボードをひったくったサッカー部の男子が、店の看板と一緒に、ボードを掲げている。するとたこ焼きを買ってくれた小さな男の子が興味を示して、部員とハグをした。
そんな光景が、あちこちで見られた。
「I HUG YOU !か……懐かしいね」
「この学校の生徒はみんな、最初にこれを見るからね」
今日の千鶴はソースの香りがする。彼女の言うとおり、羽生高の生徒は入学式のときに、必ずこの文字を目にしていた。
本当はフェンスじゃなく、校門に面した三学年の窓なのだけど、さすがにゲリラで三年の教室に忍び込むのは難しい。来年は三学年の教室にあがったあたしたちが、まったく同じ言葉を窓ガラスに貼り付けて、新入生の歓迎をする番だった。
「……なっちゃん、それ、コスプレ?」
「あ、こわかった?」
啓一くんの活動は、自分や学校のHPで、学校祭の日にFREEHUGSをしますよ! と宣伝すること。同好会の頭は、それぞれ役割を持ってこの日に臨んでいた。
「いいよいいよ、その格好のままハグしようよ」
笑いをこらえながら、啓一くんがあたしに腕をまわしてハグをする。頬にFREEHUGSのペイントをした啓一くんも、いつもより浮き足立っているような感じがした。
千鶴ともハグをして、あたしは彼女の肩ごしに、花壇を見る。いつもは学校の入り口で鮮やかな花壇だけど、今日ばかりはその役目もお休みだった。
そのレンガの上に、腰をかけている人がひとり。手にボードを持って、ぼんやりと、学校祭にやってくる人々をながめていた。
あたしは彼を見て、ぽつりと呟いた。
「……雅行」
雅行はあたしに気づかず、ボードにあごを乗せて、いつものあたしのようにただ人通りを眺めていた。
「もしかして雅行……ハグしてないの?」
「してないよ。誰とも」
そもそもこのゲリラは雅行の計画だったのに。
やりたいやりたいと言いだしっぺだった雅行は、誰よりも大変な仕事を引き受けた。衣装を縫う女子たちが、魔女用の布が少ないと言っていたけど、たぶんあれは雅行の仕業だ。
誰よりも今日を楽しみにしていたはずなのに、雅行はまったく動いていない。てっきりあっちこっちでハグをしまくっているものだと思っていたあたしは、ただただ見つめることしかできなかった。
あたしとしか、ハグをしない。
彼はいまだに、あの宣言を守り続けていた。
本当は活動をめいっぱい楽しみたいはずなのに。うずうずと落ち着かないようで、おしりが動いている。けれど決してその場から立ち上がらず、ボードをかざしたりして、主にお客さんの目を引くことに専念している。
屋台の人たちに協力してもらって、千鶴は昨日あたしとつくった飾りを取り付け終えていた。無地のTシャツに殴り書きしたり、風船にかわいらしくペイントしたりして、とにかくいろんな飾りを用意した。FREEHUGS。その言葉があちこちにあって、みんな興味深そうにしている。
どれも、雅行の提案だった。彼が言わなければたぶんできなかった。その彼がやらないなんて、おかしな光景だった。
もちろんそうなる原因をつくったのはこのあたしで。雅行がしたいことを、彼が生き生きと輝く瞬間を、あたしが抑えさせてしまっているわけで。
みんなと話して笑いあう陰で、雅行がこっそりとため息をついていた。あいかわらず顔も身体もボロボロで、そういえば生徒会はどうしたんだろう。
言わなくちゃ。雅行に、ハグをしてと言わなくちゃ。
好きなことを我慢しないで。
雅行は、好きなことをしているときが一番、輝いているのだから。
あたしはボードを胸に抱えて、彼に近づいた。
近づいてきた黒ずくめの魔女を見て、雅行は一瞬、驚く。けれどそれが仮装したあたしだと気づいて、すぐに立ち上がった。
「七海、その格好……そうか、模擬店か」
「生徒会は、いいの?」
「いいんだ。俺、これをするために前日までがむしゃらに頑張ったんだし」
眠い目もすっかり冴えているようで、その瞳はらんらんと輝いている。そして彼はあたしがなにか言いよどんでいることに気づいて、「ん?」と首をかしげた。
言わなくちゃ。
でも、ここまで来るともう、何を言っていいんだかわからない。
「……ななみ?」
雅行が近づいてくる。一歩、二歩。どうしようで頭がいっぱいになって、あたしはとっさに、ボードを前につきだした。
おっ、と、雅行が驚く。あたしが使い続けているスケッチブックのハグボード。それを盾のようにして、あたしは雅行と距離を置いてしまう。
ちらりと顔を見ると、雅行はにこっと笑ってくれた。どうして昨日の今日で、そんな表情ができるんだろう。どうして何事もなかったかのように、あたしに接してくれるんだろう。
胸が、つまる。かっと熱くなって、いつもの痛みによく似ている。それをなだめようと一息ついて、あたしは顔をあげた。
「雅行……これ」
「これ?」
意味がわからず、彼はまた、首をかしげる。だからあたしは、もう一度、ボードを突き出す。
どうして素直に言えないんだろう。どうしてあたしはここまで意地っ張りなんだろう。
ふるえる手に力をこめて、あたしはボードを片手に持ちかえる。両手を広げて、文字を見せるように、いつものようにハグのアピールをした。
雅行はようやく、はっとした表情を浮かべた。その鈍さに思わず、あたしは笑ってしまう。そして雅行に一歩、近づいた。
おそるおそるといった様子で、あたしたちは歩み寄る。むしろ雅行はほとんど動いていなくて、あたしの歩幅のほうが大きかった。
戸惑っていた雅行も、ボードを置いて、腕を広げる。でも、自信がないようで、そのままかたまっていた。
あたしは自分から、雅行に腕をまわした。
「七海……?」
ぎこちなく、彼は腕をまわしてくる。まるで、初めてハグをした人同士のようだった。
遠慮がちな弱々しい力を、ほんのすこしだけこめて、雅行を抱きしめる。そしてすぐに離れて、上目づかいに彼を見上げた。
雅行はきょとんとしていた。まるで何があったかわからないようだった。そして真っ赤になるあたしの顔を見るうちに、ようやく理解して、ぱっと笑顔になった。
そして今度は、雅行からハグ。それは控えめではなく、思う存分といったような、そんな力がこもっていた。
ハグと一緒に、挨拶のように頬と頬をすりあわせてくる。そしてまた離れて、目があって、思わずふたりで笑ってしまった。
「あたし、雅行が好き」
彼が口を開く前に、あたしは言った。
「雅行が好きなの」
傷つけてごめんなさい。
雅行、もう、我慢しないで。
言うべきことはたくさんあるはずなのに、はじめに口を出たのはそれだった。
なによりまず、伝えなければ。雅行は伝えてくれたのだから。あたしも伝えなければ。
でも何の言葉よりも、こうして抱き合えることのほうが、気持ちが伝わる気がした。
雅行の腕の中で、また、あの痛みがぶり返す。けれど彼の鼓動を聞くたびに、それがおさまってゆくのがわかる。
どうしてだろう。あれほど落ち着かなかったはずの腕の中にいるのが、一番安心するなんて。
雅行の鼓動が、とても早い。息もふるえている。汗の香りに包まれて、でもそれが嫌じゃない。
痛む胸が次第に麻痺して、心地よくなってくる。ああこれが、好きという感情なんだなとしみじみ思った。
こわかったの。やきもちやいてたの。ずるいことに、あたしの口からはそんな言葉も出てこない。また身体が離れて、あたしたちは手をつないで向かい合う。なんだか照れくさくて、下を向くと、また抱きしめられた。
みんなが見てる。そんなのどうでもいい。だってみんな、ここではハグをしているのだから。
雅行の肩からちょこんと目を出せば、あたしたちのハグを見て驚いた人たちに、ほかの会員が声をかけている。看板を見せて、どうですか? 興味を持っているのは他校の子で、一人の子が勇気を持って飛び出し、ハグをして興奮気味に戻っていった。
長い長い抱擁を続けるあたしたちは、さすがに目立っているようだった。でもそれにつられて、みんながハグをしている。まるでハグの連鎖反応で、気づけば千鶴と啓一くんもハグをしていた。
そのハグを見て、あたしはおやと思う。千鶴が啓一くんの首に腕をまわして、人目もはばからずにキスをした。そうかふたりは付き合っていたんだ。
思わず、ふふふと笑ってしまう。二人に背を向けている雅行はそれに気づかないまま、まるであたしを味わうように、耳元に唇を寄せてくる。
言わなきゃいけないことがたくさんある。
でも、もう少しだけこうしていたい。
七海、と、声になりきらない声でそうささやかれて、あたしは優越感に浸ってしまう。雅行がハグをする人たちはみんな、こんなことされないに決まっている。
雅行がまた、身体を離す。彼もまた何かを言おうとして、でも言葉が見つからないみたいだった。
何か言わなきゃ。そう考えている雅行が、あたしは無性に愛しく思えてたまらない。
「好き」
あたしは雅行の首に手をのばし、すこしだけ背伸びをする。
「あたし、雅行が好き」
ささやきながら、そっと、唇を重ねた。
END