10
千鶴の言うことはそのとおり。彼女はあたしよりもうんと、いろんなことを知っている。
あたしはただの、恋愛臆病者だ。
「雅行がほかの人とハグしないって言ったってことは、七海が特別だってことなんだよ?」
「それは……わかってる」
「じゃあどうして、それを拒むの?」
千鶴の口調は、まるで子供を諭すようだった。七海ちゃん、どうしてそんなにへそまげてるの? みんなと一緒に遊ぼうよ。
「だってあたし、雅行が好きなんだもん」
意味がわからないと、千鶴が首をかしげた。
「あたし、雅行が好きなの」
雅行が好き。なにより、ハグをしているときの雅行が好き。
朝、みんなにハグをする雅行。同好会で駅前に行って、小さな子や他校の生徒や、いろんな人にハグをする雅行。ときには仲間とじゃれあって、ふざけあってハグをする雅行。
ハグをしているときの、あの笑顔が好きだった。身体を離して目があったときの、あの純粋な笑顔が好きだった。見ているこちらまで思わず笑ってしまうような、そんな明るい雅行が好きだった。
「ハグをしてるのが好きなのに、なのにそれをあたしがとりあげるなんて、おかしいもん」
「七海……」
ほかの人とハグするのが嫌。自分が一番じゃないと嫌。でもそれはただのあたしのわがままだ。ハグをしている彼を見て好きになったのに。雅行が何より大事に思っているハグをとりあげてしまうなんて、あたしはなんて矛盾してるんだろう。
「こんなにわがままなのに、雅行と付き合うとか、そういうのが許せないの」
ひどく捻じ曲がった心だと思う。雅行を独り占めしたくて、ほかの子と話しているのも嫌で、それぐらい独占したくて。そんな自分がひどくねじくれている気がしてならない。
うつむくあたしの頭を、千鶴がそっと撫でてくれる。そして何度かあたしの名前を呼び、いつもとはまるで違う、やわらかいハグをしてくれた。
「だいじょーぶ、七海。恋する女の子はみんなそうなんだよ」
「千鶴……」
「チヅだってそうだもん。好きな人には自分のことを見てもらいたいって思うし、誰かほかの子とハグしてるの見るとやっぱり、相手が七海でもむっとしちゃうことだってあったよ。それは普通のことなんだよ」
そういえば、千鶴の好きな人って誰なんだろう。自分のことばかりで、あたしは全然気づかなかった。
「そんなに思いつめなくても大丈夫だよ。チヅから見たら、七海はわがままなんかじゃなくて、恋に悩むかーわいい女の子だから」
ねっ。だからそんな顔しないで。あたしを抱きしめたまま、千鶴は身体を揺らす。まるでゆりかごのようなやさしい揺れに、あたしはそっとまぶたを閉じた。
「……雅行は、あたしの気持ち知ってるのかな?」
「知らないと思うなー。雅行は七海と同じで、不器用で鈍感だからね」
くすくすと笑う千鶴の吐息が耳に響く。これじゃあ本当にあたしは赤ん坊だ。けれど千鶴の腕の中はとてもあたたかくて、あたしは安心して身体をあずけることができた。
「でもあたしは、雅行みたいに明るくないよ」
「そっかなぁ……」
うーんと、彼女はなにやら思案している。これを話すべきか話すまいか。ふっくらとした唇をもごもごさせて、やがてあたしに口を開いてくれた。
「チヅも雅行も、わざわざ遠い中学からハグ高選んだでしょ? 雅行はね、中学校の頃は、今みたいにはつらつとはしてなかったんだよ」
「……そうなの?」
「別に暗かったわけでもないんだけどね。でも絶対、自分からハグするようなやつではなかったんだ。チヅが思うに、雅行、いつだか自分からみんなにハグしたことあったじゃない? あのとき心の中ではすごい緊張してたと思うんだよね」
一年前の、あの朝の日。あのとき交わしたハグがなかったら、あたしはきっと雅行のことを好きにならなかった。
「でも雅行、その前からも千鶴とすごい仲良かったじゃない」
「それは中学が一緒だったからだよ。七海の目にはそう映ったのかもしれないけど、まぁ雅行も知らない人たちの輪に入って、とっさに知ってるチヅに声かけたんだろうね」
雅行が高校にあがってから積極的に動こうとしたことに、千鶴は特別なにかを言うこともなく普通に接していた。彼女の口から中学の雅行のことを聞いたのは、これが初めてだった。
「雅行も雅行なりに、いろいろ考えてたと思うよ。だからきっと、七海にしかハグしないって言ったのだって、ちゃんとした意思があったからだと思うの」
「そう、だよね……」
その雅行を、あたしは拒んでしまった。傷つけてしまった。そのことが何よりも今、心に引っかかってとても辛い。
屋上で重ねた唇の感覚は、やわらかいというよりも、あたった歯の痛みのほうが強かった。唇も切れていたようで、今は乾いたところからかすかに血の味がする。
あんな雅行見たことがなかった。あれほど感情をむき出しにして、傷ついた表情もあらわにすることなんて今までなかった。いつも笑っているから柔和に見えるけど、本当は鋭いまなざしを秘めていたことを知った。
あの、泣き出しそうな瞳。それがまぶたに焼き付いて離れない。
「雅行にあやまらなきゃ……」
「あやまる? どうして?」
「だってあたし、雅行のこと傷つけちゃった」
そうかなぁ。千鶴は呟きながら、あたしから身体を離した。
「だって七海だって、傷つけたくて傷つけたわけじゃないんでしょ? 別にあやまることじゃないと思うけど」
「でも……」
「まぁ、これはチヅと七海の考えかたの違いかな?」
肩をすくめて、千鶴が身体を離す。複雑な表情を浮かべるあたしの顔を覗き込んで、両手で肩を叩いた。
「んじゃ、作業の続きしようよ。明日までにいっぱい作らなきゃ」
そして最後にひとつ、ハグ。
そのハグは彼女らしい、力強くて優しい抱擁だった。
4
ついに学校祭当日になり、開け放たれた校門から他校の生徒や保護者がたくさんはいってくる。いつも授業中はしんとしているはずの廊下が、今日はとてもにぎわっていた。
わが2Bの模擬店は、そこそこに繁盛していた。
とにかく客層を若い女の子に絞ったおかげで、店の内装も外装もお菓子の家ととにかく甘い雰囲気で統一されている。さらに店に出すデザートも甘くしたら、なぜだか体重を気にする女子よりも、疲れた身体に栄養補給する男子たちがたくさん集まってしまった。
前売り券のぶんをのぞいた当日売りも好調で、午後の部での完売も見込めそうだ。
あたしは午前の部の売り子担当で、ようやく交代を終え、つまみぐいしすぎてお腹いっぱいになった身体をずるずると引きずって教室を後にした。
店がお菓子の家なら、やっぱり売り子はヘンゼルとグレーテル。でも多すぎてもいけないので、魔女もいる。あたしの衣装は魔女用で、サテン生地の真っ黒なマントを頭からすっぽりとかぶっていた。
ちなみに中はいつもの制服だけど、あえてマントは脱がない。そもそも学校祭当日は私服OKで、気合を入れて浴衣を着てきたクラスメイトもいた。でもあたしがこうして魔女の格好のままでいれば、いやがおうでも目を引いて、お菓子の家の宣伝にもつながるのだから脱がない手はない。
千鶴とは開会式まで一緒にいたけれど、各クラス・部活ごとの活動になったところで別れた。女バレの屋台で、たしか千鶴も午前の売り子担当だったはずだ。
啓一くんのオークション監視も午前中で、もう交代したはず。みんなで時間を合わせていた。雅行はさすがに生徒会で無理だろうけど、どうせやるならみんなでやりたい。
リノリウムの廊下を歩くたびに、マントがひきずられて衣擦れの音がする。魔女の手には赤いりんごが入ったカゴを持たされたけど、これじゃあ白雪姫の世界だ。それと一緒にあたしは大きなバッグを肩に下げ、途中で前売り券を買っていた商品をもらいながら、玄関へと向かった。
靴を履き替えていると、体育館からベース音が響いてくる。スケジュールだとたしか今はバンド発表とカラオケ大会だけど、あたしはそれには目もくれなかった。ローファーのかかとを直すのももどかしく、校舎から出た。
まず玄関に、学校祭のポスター。それから校門までの道に、各部活動の屋台。女バレは焼きそば屋台で、サッカー部のたこ焼き屋のも入り混じって、ソースの香りが校庭に広がっていた。
さすがに校舎から出ると、魔女を見てみんなが驚いていた。でもあたしは気にしない。きょろきょろとあたりを見回して、約束の目印を探していた。
「――いた」
校門近くの千鶴に、大きく手を振る。千鶴は魔女のままのあたしを見て笑ったけれど、頭上にボードを抱えてぴょんぴょんと飛び跳ねていた。
「七海、後ろ、見てみて!」
「後ろ?」
言われて、あたしは振り向く。けど、屋台やお客さんのほかには何もない。首をかしげると、「もっと上!」と言われた。
上。なんだろう。風にはためく学校祭の垂れ幕を見て、あたしはすぐに、気づいた。
「――さすが、雅行」
思わず、口からこぼれる。千鶴を真似して、あたしも両手を上にあげた。
フェンスの根元に取り付ける垂れ幕は、当日におろされる。その役目も雅行の仕事。だから雅行はそのときに、このゲリラを敢行したのだ。