マリアンヌ
マリアンヌは絵を描くことが好きだ。
大体はアトリエで描いているのだが、たまに市井にでかけてスケッチをすることがある。
その日も公園でスケッチをしていると、近くにいた貴婦人方の会話が聞こえてきた。
「先日の夜会でバーンクライン公爵夫妻を初めて見ましたの。噂通り仲がよろしくて素敵なお二人でしたわ。」
「ほんとに。あの女性に関心のなかった公爵様が、ずっと一緒でひと時も離そうとなさいませんのよ。びっくりしました。」
「なんでも一目惚れで、ずっと探してらしたとか。やっと見つかったんですもの。熱々なのもわかるわ〜」
ジェラルドは周囲を欺くために、仲睦まじくしているのだと言っていた。はたして本当に偽装のための演技なのだろうか?
「マリアンヌは器量がいいのだから、きっと可愛がられる。可愛げがある女は大切にしてもらえるから、きっと上手くいく。」
旅立つ日、父親であるメイオール男爵は、当たり前だとばかりにマリアンヌに伝えて、バーンクライン公爵家へ送り出した。
マリアンヌは貧乏男爵家の娘で、14歳の時にバーンクライン公爵家で奉公することになった。
マリアンヌは父親の男爵から、次期公爵になるジェラルドの寵愛を得るように言い含められた。
「何も公爵夫人になる必要はないんだ。愛人になって楽しく暮らせればそれでいい。バーンクライン公爵家に囲って貰えればそれなりのお手当も付いて贅沢ができるし、その中から仕送りすれば娘としての義務も果たせる。良いこと尽くしだ。」
父親はニヤリとした笑みを零した。
貴族の娘である以上、父親は絶対的な存在だ。マリアンヌには、逆らうという選択肢は初めからなかった。
奉公へ上がる直前には父親の愛人から、男性を喜ばせる手ほどきと避妊方法を教えられた。愛人からの怪しい指導の下で、マリアンヌは彼女と父親が行っていた行為を知ってしまった。それは、マリアンヌにとって驚愕の出来事だった。
マリアンヌは奉公にあがった二年目に、父親の言いつけ通りジェラルドを籠絡することに成功した。ジェラルドへの朝のご奉仕が始まり、二人の関係は段々と深くなっていった。
ジェラルドは学園を卒業すると、前公爵に連れられて外国へ赴くようになった。そのたびにマリアンヌにお土産を買ってきた。最初は、その国特有の美しい工芸品だったり、その国でしか手に入らない珍しい特産品だった。
それはやがて、マリアンヌが好きな絵画や宝飾品へと姿を変えていった。月日を重ねる毎に、ジェラルドから贈られる絵画や宝飾品は高価なものになっていった。いつしか、それらは日常的に贈られるようになった。
マリアンヌは、それらの絵画や宝飾品を換金して男爵家へ仕送りした。父親からは美しい自慢の娘だと褒められた。大人しく何の取り柄もなかったマリアンヌが、父親に褒められることは今までなく初めてのことだった。
このまま父親に自慢の娘だと思ってもらうには、公爵邸で働き続けなくてはいけない。公爵邸にいる限りはジェラルドに抱かれ続けるのだろう――ジェラルドとの身体の関係はマリアンヌの立場上、もはやどうすることも出来なかった。
こうして二人の関係が三年を過ぎる頃には、ジェラルドの自室に夜にもこっそりお呼びがかかるようになった。
二人の関係は五年を迎えようとしていた。
「マリアンヌ、わたしといつか夫婦になって欲しい。」
ジェラルドから、大きなエメラルドが輝くペンダントトップを渡された。
マリアンヌはひどく動揺した。そんなことを言われるとは夢にも思っていなかった。
「わたしは男爵家の生まれです。そんなこと出来るはずがありません。それはジェラルド様がよくご存知でしょう?」
男爵家の生まれのマリアンヌと結ばれるなど不可能だ。そんなことは公爵家の嫡男であるジェラルドが知らないはずはない。
「分かってる。何とかする。」
「もし何とか出来て、わたしが妻になったとしても周りの人間は認めません。今まで公爵家で働いていた、ただの一介のメイドのわたしが公爵夫人だなんて。」
「もう少ししたら、マリアンヌにはここを辞めてもらう。もう働く必要はない。全てわたしが取り計らう。時間はかかるかもしれないが、必ず何とかする。だから、それまで待っていて欲しい。」
ジェラルドは頑なに譲らなかった。
ジェラルドが爵位を継ぐとマリアンヌは公爵家の使用人を辞め、街中の小さな屋敷に移り住んだ。家には使用人もいて何不自由なく暮らし始めた。ジェラルドは絵を描くことが好きなマリアンヌのために小さなアトリエも用意してくれた。
マリアンヌは、ジェラルドから告白されたことは嬉しかったし、一縷の希望を抱いたこともある。
しかし、奇跡的にジェラルドと結ばれたとしても現実的には難しい。マリアンヌには公爵夫人としての教養も資質もないのだから。
ジェラルドが娶った妻は、どんな方なのだろう?二人の関係はどんな感じなのだろう?
マリアンヌは、息抜きがてらにスケッチをしようと市井へと出かけた。