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88 吉田咲の歴史論

 楓は布団の中で目を覚ますと、その日も朝から大学へと向かった。火曜日だった。そして夕方からはジャズ喫茶でのアルバイトの予定が入っていた。

 夜の不安に心が摩耗されて、彼が来てくれるという期待が奇妙なほど減退し、楓はすでに失恋したような気持ちになっていた。

 楓は、自転車で大学へと向かった。大学は生徒たちのたまり場である。

 同じゼミに所属している吉田咲が、正門の近くに立っていて、どこかフランス人の映画女優を連想させる丸顔の人形みたいな可憐な顔つきで、茶髪の毛先をくるりと弄り、美しいコートに身を包んで、友人を探していた。

 楓を見つけると中央広場のベンチに誘って、このような歴史論をぶつけてきた。


「わたしたち、歴史の一部だと思わない?」

 楓はその言葉に関心が湧かなかった。歴史同好会に所属している咲は、スローガンとして「歴史意識の復活」を掲げているのだった。

 それが楓には心が汚染されているようにも感じられていた。あの歴史同好会は独自の思想が根付いていて、主張が強すぎる気がしていたのだ。


「そうかな。わたし、そんなこと、思ったことないけど……」

「生きるということは少なからず歴史の一端を担うということ。つまりそれがわたしたちの(せい)だと思うんだよね。だから、わたしたちは歴史に生き、歴史に生かされているんだよ……」

「はあ。うん。それはそれでいいんじゃない?」

 と楓は投げやりな調子で返した。天を突き抜けるような青空には雲ひとつ浮かんでいない。まるで空に色紙を貼ったような眼前の眺めが、楓が今一番美しいと思っていることであった。そして今日またあの青年がジャズ喫茶に訪れるかどうかということが、楓が今一番気になっていることだった。いずれにしても自分と歴史とはそれほど重要性をもって関係していないと思っていた。

「楓も歴史の一部なんだよ」

「そうかもしれないね。でもわたしは……」

 と咲が反論を心待ちにしているようだったから、楓は渋々、自分の考えを述べた。


「わたしの存在理由は過去との関係じゃなくて……。まさに今の心と心のやりとりにあると思うんだ。たとえばナポレオンとか織田信長はもうすでに亡くなっていて、もう心の運動は止まっているよね。そこにいくらわたしが心を寄せてもそれはわたしの一方的な心の関わりでしかないよね。そうじゃなくて、たとえば今生きている人に心を寄せると、その人からの返しがあるんだよ。つまりそれが生きるってことじゃないかな……」

 と史学科の学生としてあるまじき思想を展開する楓の話を聞いて、咲は一度に不満を抱いたらしい。


「それはつまりわたしたちの人生が今という瞬間しかないって言っているようなもんじゃない……。ねえ、今日や明日があるように昨日があるんだよ? そして今日や明日は、必ず昨日や一昨日になっちゃうわけ。失われない今なんてないし、わたしたちが生きていることもすべて過去のものになる。わたしたちは過去に生かされて、わたしたち自身も過去に向かってゆく存在なんだよ。でも、まあ、楓の考えはわかったよ。それじゃこのベンチや、この大学の校舎にだって歴史が秘められているわけだけど、それにも意味がないの?」

 と咲が猛然と自分の意見をぶつけてきたので、楓はすっかり面食らってしまった。そんな難しい話をしたつもりはないのに、咲は猛虎の如く迫ってくるようであった。楓はどう答えるべきか悩みながら、小さく「いやっ」と呟いた。


「いいんだよ。それでいいの。でも、わたしは今、過去のことを考えている余裕がない……」

「うん……。そうだね」

 咲も感情的になったせいで相当疲れたのか、ゆっくり立ち上がった。

「そうだね。ねえ、楓は今、好きな人がいるでしょう?」

 と突然そんなことを咲が言ったので、楓はぎょっとして、ベンチの上で慌てふためいた。

「えっ、い、いや……な、何で……?」

「この前、食堂で会った時にピンと来たんだ……。誰か好きな人探してるなって。だから心と心のやりとりなんて言ってるんでしょ。実はわたしも好きな人が出来たから気持ち分かるんだ……」

 と咲は、よほど開けっ広げな性格らしく、そんなことを言うと笑顔で手を振り、その場をささっと去って行った。


(咲も誰かに恋してるのか……)

 と楓は思いながらも、すぐに関心を失い、まあ他人のことはどうでもいいな、と鞄からロイヤルミルティーの缶を取り出して蓋を開け、一口飲んだのだった。

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