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80 現在利益論争

「先生は、何だか知らないけど、お悩みのようですね」

 と楓は微笑んで言った。そしてさらに付け加えてこんなことを言った。

「確かに、感情があるとそれだけ辛いんです。たとえば人を好きになるとやっぱり辛いんです。でも、心が通い合うとその分、最高の幸せが訪れるんですよ」

「人を好きになる。しかしそれは幻にすぎない……。なぜなら心とは幻のようなものだから……」

 と即座に相馬は楓の恋愛至上主義的な主張を否定した。

「人を愛する自分も幻のようなものなら、愛している相手も幻のようなものなのだから……。たとえば、君のどこに君という存在があるんだ」

「たとえば、この手は「わたし」です」

「それは君ではなくて、君の「手」にすぎない。その手を所有しているものは幻のような自我だけだ。実体はどこにもない。心もまた(うつろ)な幻のようなものだ」

「わたしは幻のような恋心に溺れられれば本望ですね。だってそれ以上に人生で幸せになる方法はありませんもの」

「いや、恋心などは……」

「先生。先生は今、失恋されているんですか。だからそうやって恋愛を拒否してるんじゃないですか」

 楓は我ながら意地悪な質問だと思ったが、自分の恋愛が上手くいっているという自惚れもあって、無遠慮にもそんなことを言った。


「いや、先生は生に固執する人間が嫌いなだけだ……。そういう生き方がね……」

 と相馬は苦い笑顔を浮かべてそういうと、椅子から立ち上がった。

「まったく気に食わんな。この十一面観世音神呪経は……」

 そう言って書籍を握って突然、震え出した。

「何が気に食わないんですか」

「これこそ現世利益ばかり願う、生に固執した信仰の代表じゃないか……」

「十一面観世音神呪経が、ですか……?」

「ああ、胡麻も読んでみるといい」

「えー」

 楓はめんどくさく思いながらも、その書籍を手に取って、目次を目にした。

 そのまま、ページを乱暴にめくってゆくと、そこにはどうやら護摩祈祷(ごまきとう)の方法などが詳細に記され、真言を唱えると、無病息災や治癒、敵を服従させたり、水に溺れても死なない、焼け死ぬこともない、などそういう呪術的な御利益がいくつも記されているようだった。


「でも、これに限らず、観音信仰ってそもそも現世の苦難から逃れるためのものじゃありませんか? それが日本人の信仰の本質なんじゃないか?」

「いや、違う!」

 相馬は不機嫌そうに怒鳴った。

「観音信仰にはもう一面ある……」

 と言いかけて、なにかに気づいた様子で、いや、と小さく呟き、書籍を取って、棚に押し戻すと、

「先生はついつい我を忘れて興奮してしまったようだ。次の授業までに調べものをしなければならないからもう行くよ。胡麻も予習をしておきなさい」

「辻先生は……」

「辻先生に会うのは明日にしなさい……。今日は来ないよ」

 そう言って相馬は、急いでいる様子で資料室から飛び出して行った。

(先生、失恋したのかな……。いや、でもなんだか死にとらわれているみたいだった。それになんだか……白緑山寺の事件に意見があるみたいだったな……)

 その時、楓はふと、相馬先生と白緑山寺の殺人事件は関わりがあるんじゃないか、という気がした。だけれど、そんな失礼な考えを捨ててしまわないと、とすぐに思い直した。そして楓はロイヤルミルクティーを一口飲んだのだった。

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