7 再び図書館で
講義室からは続々と生徒たちが群れを成し、廊下に出て行っていた。教授が倒れた今、この講義室にとどまる理由など彼らにはないのだった。楓は、そうした生徒たちの色とりどりの揺れるリュックサックや茶色く染まった後ろ髪を遠巻きに見つめて、しばらく呆気に取られていた。そして戸惑いながらも自分自身、この場所に居続けるのは馬鹿馬鹿しいことだと思っていた。といっても、講義室を後にしたらどこへ向かったらいいのか見当がつかなかった。そこで椅子に座ったまま、ぼんやりと物思いにふけることにした。
(あのニホンザルが倒れるなんて誰も想像していなかった)
そんなこと誰が想像できただろう、と楓は思った。未来は誰にも分からない、そんな分からない未来がわたしをまた幸せにも不幸にもするのだ、と彼女は思う。こうして当然、降ってきたような空き時間をどう使ったらよいのか、楓にははっきりとした考えがなかった。
講義室から姿を消してゆく彼らにはどこか「行く先」があるのだろうかと楓は眉をひそめて考えた。仮に行く先がなかったとしても「会いたい仲間」が外にいるのだろう、と彼女は思い直した。そして自分には「行く先」もなければ「会いたい仲間」もいないから、この突然の空き時間があまりありがたく感じられないのだろうと思った。そのことがわずかに虚しく感じられた。楓は下唇を噛んで、気持ちを誤魔化すように天井を見上げた。
ルームメイトの森永のぞみはどこかで作品制作を行っているに違いない、授業なのだから彼女と落ち合うこともできないに違いない、そうなると一時間半あまり、わたしは本当の自由というものを謳歌できるわけだ、そう思うと楓は、ますます自分の交流の少なさをみっともないことのように感じる。
自由というのは時に残酷だ、自分の意思であらゆる選択ができるということは、贅沢この上ないことかもしれないけれど、今のわたしはリールを手放された犬みたいだ、と楓は思った。どこにでもいける今、わたしはどこにも行かないだろう、と彼女は思った。
(行きたい場所なんてないから……)
しかし、講義室が自分の他に男子生徒がもう一人いるだけになってしまうと、さすがの楓もこうしていることが恥ずかしくなってきた。講義室の静寂はまるで誰かに笑われているようだった。楓はコートを羽織ると、まるで先ほど出て行った名前の知らない彼らを追いかけるように、足早に講義室から廊下へと飛び出した。
楓は隣の講義室から聞こえてくる男性教員の声を聞きながら、ドアの前をいくつも素通りし、階段を飛ぶように降りて、建物の外へと飛び出した。いくつものケヤキが並んだ広場の上に青い空が広がっているのを見て、楓は胸が楽になったように思い、ほっとため息をついた。
それから楓は当てもなしに歩くことにした。楓はサークルに所属していなかったので、こうなってしまうと本当に行く当てがない。楓はただ前進することだけを教わったロボットのように歩き続けた。虚しさは胸の中で耐えられないほど大きくなってきていた。
楓は考えた末、図書館に向かうことにした。よく考えたら、江戸時代の文化に関するレポートをひとつ仕上げなければならなかったのだった。そのためには、今のうちに本の一冊でも借りておかないとまずい。
楓はそのように思ったことがいかにもつまらなく感じた。よりにもよって一番つまらない回答を引き出したように感じた。
図書館に訪れると、楓はカウンターを横目に二階へと向かった。そこに江戸時代の歴史に関する書籍が置かれている棚があることを彼女は知っていた。
楓はその場に訪れると、棚と棚の間を歩いて行った。楓は、そこで「江戸時代の文化史」という分厚いハードカバーの本を手に取って、階段近くにあるテーブル席に向かった。
楓は、明るく広い空間にテーブル席がずらりと並んでいるところに出た。
「あっ」
そこで思わず、本を落としてしまいそうになった。楓は慌てて、本を抱え直すと、こわばった足取りで、横に歩いて、ひとつのテーブルの上に本を置いた。そして棒のように立ち尽くして、正面の奥にあるテーブル席に座っている青年を食い入るように見つめた。
(あの人だ……)
楓は、ジャズ喫茶で見かけた青年がそこに座って、なにか熱心に本を読んでいるのを見つめているのだった。