76 滝沢教授
楓にとっては悟りの心などどうでもよかった。それよりも楓は今まさに恋の嵐に巻き込まれているのだ。
次の日の朝、楓は自転車を走らせて、大学へと向かった。楓は駐輪場に自転車を停めると、一目散に駆けて、図書館へと向かった。そして一階から五階までの閲覧席や棚の間を隈なく見てまわり、お目当ての彼がいないことを知るとひどくがっかりしながら、大学の教室へと向かった。
(どこかで会えるかもしれない……)
楓の視線は主に、広場のベンチや長い廊下の先へと向けられていた。そういうところに彼がいるイメージが映像になって脳裏に現れていた。ところが楓はその彼を現実に見つけ出すことができなかった。
(いないのかな……)
楓はひどい不安にかられた。このままもう会えなかったらどうしようとこびりつく不安を払拭することができずにいた。
楓は狭い教室の、銀杏の大木が見える窓際の席に座った。そしてぼんやりとしていると、プリントの束を抱えている太った男性教員がのそのそと入ってきた。
「皆さん、今日も江戸時代の五人組帳を解読していきますよー。それでは、今回は……胡麻さんから……」
「えっ」
楓は驚いて叫んだ。そして前回配られたくずし字のプリントを鞄から慌てて取り出して、机の上に広げた。そこには解読不能なほどに崩されている文字がまるでミミズがのたくっている様の如くずらりと並んでいた。
「はい。それでは前回の続きから読んでいただきましょう」
「あ、いえ……わたしの番でしたっけ……」
「そうだったと思いますね。ええ。胡麻さん。最初の言葉はなんですか」
「切支丹……」
「次は」
「宗門之儀……」
「次は」
「………」
楓は次の漢字がなにか分からず、ぼうっとしてしまった。男性教員は不機嫌そうに唸ると次の生徒の名前を指し示して、答え合わせをさせた。楓はひどく不快な気持ちになりながら、恋にかられて理性を失っている自分の危うさを感じた。
(いけない。わたしらしくない……。予習をしてこなかったなんて……)
そう思いつつも、すぐに愛しの彼のことが頭を掠めた。
(こんなわたしを彼は愛してくれるかな……)
そう思うとまったく自信が湧いてこなかった。この授業は散々で、楓はほとんど内容に集中できず、どこにいるかもわからない彼のことばかり考えていた。
(どこにいけば会えるんだ。本当に……)
もはや授業どころではなかった。楓は一時間半の授業の間、ずっと彼のことを考えていた。そしてチャイムが鳴って授業が終わるとプリントを丸めて押し込み、すぐに鞄を引っ掴んで、お昼休みの間に彼がいそうな場所をすべて見まわるために廊下に飛び出して駆けていった。
「わあっ!」
楓は、女子の三人組とぶつかりそうになりながらも廊下を駆けてゆき、エレベーターに飛び乗った。
「どこ……。食堂? ベンチ? 図書館?」
頭の悪そうな男子学生たちの下品な会話がエレベーター内に響いていた。アイドル歌手の体型の話題をいかにもな上から目線で品評している下賤な輩たちであった。
(わたしの彼とは雲泥の差ね……!)
人間の出来が違うんだわ、と楓はそう思うとすっかり嘲笑ってしまう。
エレベーターから飛び出した楓は、建物からも飛び出し、校舎に囲まれた広場の真ん中に駆け込んだ。
「どこ、どこなの……?」
そう思って振り返ると、禿頭の美しい滝沢教授がこちらに向かって歩いてきていた。
(滝沢教授……。無事だったんだ……)
猿山のニホンザルと呼ばれている滝沢教授は突然の発作で病院に運ばれたものだったが、すぐに退院することができたのか、ゆっくりとこちらに向かって歩いてくるのだった。
(猿みたい……)
楓はそう思いながら滝沢教授が通り過ぎるところをじっと見つめていた。




