72 胡麻博士と金剛杵
楓はただひとり、モダンなアパートに戻った。白い壁が、植木の隅に備え付けられた照明によって美しく照らし出されている。階段を登って二階の一部屋に入る。ここで楓はのぞみのいない部屋をじっと見まわして、ベッドに座り込んだ。のぞみのいない部屋の棚には金剛杵が置いてあるばかりである。
(明日は学校か……)
大学のどこかでおそらく彼は授業を受けるはずである。楓はそれを見つけ出そうと考えている。ヒントはただひとつ、自分の父親の本を読んでいたということだけ……。
(図書館で本を読んでいたこともあった……)
あの時間、彼は図書館に現れるのかもしれない。現れないかもしれない。のぞみが言うように橋の上で待つことがもっとも確実かもしれない。
(でも、橋の上で会ったとしても、話しかけられるかな……)
そんな自信はどこにもなかった。それでも楓は彼に会いたいと思っていた。会いたいという気持ちが橋の上に立たないという選択肢を完全に打ち消してしまった。
楓は、布団にくるまるとしばらくそれを抱きしめてうとうとしていた。
(のぞみは今、どこにいるんだろう……?)
楓はのぞみのことをふと思い出した。楓にとってこの悩みを打ち明けられるのは唯一、のぞみひとりだった。そののぞみが今遠く離れた東京にいると思うと楓はわずかに不安を抱いた。
楓は、ぼんやりとした心地で彼のことを考え続けた。愛しているか、愛していないか、という単純な選択肢を彷徨い続けるのみの思考だった。それでも楓は今のところ満足だった。そのことだけが楓の一番気になることだったから。
「わたしはあの人のことが好き…….。だけど彼は……?」
楓は、口に出してそう尋ねた。答えてくれる者はいない。いないはずだった。すると奇妙なことが突然起きた。
「わたしも君のことが好きだよ…….」
しゃがれた低い声が間近で聞こえた。
次の瞬間、ベランダへと通じる引き戸がガラッと開いて、灰色の髪の乱れた年老いた男が顔を突っ込み、にやにやと微笑みながら、部屋に入って来たのだ。
「うわあっ!」
楓は恐怖にかられて、叫び声を上げベッドから勢いよく転がり落ちた。楓は跳び上がり、すぐに棚の金剛杵を手に取ると、その男めがけて投げつけた。
「うっ……」
不審な男は呻き声を上げると、ドッヂボールの如く金剛杵を腹で掴み取りながら床にばたりと倒れた。
「だ、だだだ誰っ!」
楓がそう言って、床をよくよく見ると、そこに倒れているのは自分の父親、胡麻零士だった。
「お、お父さん? いっ、いたのお……?」
胡麻博士は苦しげに痰が絡んでいるらしき咳払いをしながら起き上がった。そして息を整えて、金剛杵を机の上に置くと、青白い表情で楓を見つめて、
「お父さんはいつでも楓のことが大好きだぞ……」
と震える声で言った。
「聞いてないよ、そんなこと……」
胡麻博士は胡座をかいて、天井を見上げながら、
「聞いたじゃないか、だから答えたんだ。玄関を開ける合鍵を持ってなかったからベランダから入ろうと思ってな……」
「普通にインターホン押してよ。てゆうか、急にアパートに来ないでよ!」
「急に来た方が面白いじゃないか。えっ? 何事も予想通りに進むわけじゃないのが世の中だ。それならば予想のつかない生き方をしてみようじゃないかね」
楓は腹が立って仕方がなかったが、父親が来てしまったものはもう仕方ない。そしてこの場にのぞみがいなくてよかった。のぞみはのぞみで父親のことを先生呼ばわりしているから楓にとってはもうどうでもいい話なのだけど。
「楓……。金剛杵は投げつけるものじゃない。これは相手の煩悩を打ち破るものさ……」
と胡麻博士は言いながら、金剛杵を握りしめた。
「そんなの知らないよ。わたしがやりたいようにやるよ……」
「いいや、いかん。金剛杵はインドラの武器だ。それはそもそもがインドラの雷撃のことなのさ。転じて煩悩を打ち破る法具となったのだ……」
そう言いながら胡麻博士は金剛杵を愛おしそうに右手で撫でている。
「わたしの気持ちが煩悩だってゆうの? ほっといてよ」
楓は自分の恋を否定されたような気持ちになってそう叫ぶと、ベッドの上に戻って胡座をかいて、小さく飛び跳ねた。
「楓の今の気持ちはわからぬ。しかし心とは常に煩悩から離れることができないものだ。ところがそれはそのまま悟りの心でもあるのだ。つまり煩悩をそのまま悟りの心でみると、それはまったく清浄なものだね」
と訳の分からないことを胡麻博士は言いながら、愉快そうに笑い声を上げると鞄を開いて、楓に二つほど大きな温泉饅頭を手渡した。
「白緑山温泉の温泉饅頭だ。朝、買ったものだから電子レンジで暖めて食べなさい」
「いやだよ。めんどくさい」
「暖めた方が美味しいのだよ。さて、この金剛杵が何物かわかったかね」
「わからない。だって何も教えてくれないじゃん」
「煩悩の打ち破る法具だということはすでに言った。さて、どうしてこれを君に手渡したかという話じゃが……」
そう言うと胡麻博士はせっかく持ってきた温泉饅頭の包装を破いて、頬張り始めた。
「自分で食べるの……?」
「そう責めるんじゃない。腹が減ったから食べる。それに君のお友達はいないようだしの……。よく聞きたまえ。この金剛杵を手に入れたのはついこの前のことだ。白緑山駅から程ないところにあるとある骨董屋に行った時に見つけたのだ。わしはすぐに直観した。これは平安時代のものでどこか名のあるお寺に伝わる貴重な法具だと。ところがこれほどの骨董品が店頭に並ぶということは到底考えられない。盗品というやつだ。骨董屋の店主はこれに気づいていない様子だった。わたしはこれを江戸時代のものだと説明してうまいこと安く買い取った。そしてこれがどこのお寺のものか調べ始めたのだ。そしてわたしは白緑山寺に伝わる法具だと気づいたのだ……」
「ええっ……そんなものを何故わたしに……」
楓は不気味に思ってそう叫ぶと、机の上に置かれている金剛杵を怪訝な表情で見つめた。




