6 猿山とポテトチップス
翌朝、楓は自転車に乗って白緑山大学に向かった。今、楓にとって最大の興味は、あのジャズ喫茶に訪れた青年にあったから、大学で彼にばったり出会えるかも知れないと思うと、楓のペダルを漕ぐ足は不思議な力を得たように、軽く感じられた。
楓は風を切って、白緑山大学に向かう。古めかしい洋風な校舎が見えてきた。白緑山大学には、モダンアートのような最新の建物と、明治時代の洋館のような歴史的建造物が混在しているのだった。
(素敵な建物だ。ガラス張りの建物とはまた違う趣を醸し出している)
楓は、史学科の生徒で、日本史を学んでいる身であるから、古びたものには好ましい印象を抱いている。
楓が昨日と同じ駐輪場に自転車を停めると、びゅっと風が吹いて、傍らに植えられている巨大なブロッコリーのようなクスノキが大きく揺れて、自転車の一つががしゃんと嫌な音を立てて倒れた。
楓ははっとしてその自転車のある方向に振り返った。しかしそれが自分に関わりのないことだと思うとその場を離れることにした。それでもなにか心残りがあるような気持ちだった。
(わたしとは関わりのないこと)
一限目の講義に向かわなければならなかった。まだ講義の始まらないこの時刻には、校舎と校舎との間を多くの学生が行き交っていた。この中にルームメイトであるのぞみの姿が見えてもおかしくないのだが、楓の視界に入ったのはみんな知らない生徒の姿ばかりだった。
楓は生徒の間を駆け抜けて、六号館のある方向に向かっていった。ただ白い豆腐に長方形の窓を並べたような味も素っ気もない六号館の建築は、青空に向かって伸びている石柱型の墓石のように思えた。
(お父さんだったら、きっと墓石の話だけで二、三時間は喋ることだろう)
そんなことを連想して、楓はやれやれとため息をついた。一度に心が疲れてしまったようだった。楓は仏教がらみのことに触れると、どうしても民俗学教授の父親を思い出して、こんな気持ちになってしまうことに悩んでいた。楓は決して父親のことを嫌っていないし、楓が専攻している歴史は、江戸時代の文化史なのだから、そんなに毛色が異なっている内容ではない。それでも楓は時々、好きとか嫌いとかいう概念では説明のできない複雑な感情に心が支配されてしまうことに悩んでいた。
(お父さんは、変人扱いされることも多いし)
こうして史学科に在籍していると、あの風変わりな父親が神格化されていて、ほっと安心することがある。
楓は思い出した。自分はまだ十歳だった。家族旅行をして、父親が旅館の主人に、東北地方の特殊な埋葬法と儀式について熱弁し始めて、変な空気になった挙げ句、最終的に冷たくあしらわれた時のことをありありと思い出した。
そんなことはよくあることだ。そう思うことはできる。しかし、楓はひどくそのことを気にした。常識的に生きなければいけないんだ、と幾度となく思った。
(今はそんなこと関係ないじゃない……)
と楓は自分の気持ちを立て直そうとした。時々、楓は自分の気持ちを何ものかに奪われてしまう。そういう時は何も見えてないのだと思う。はっと息を吐くと、白い床と灰色の壁がまっすぐ続く廊下がようやく目に入った。
楓は講義室に入って、いつもと同じく、壁際の席を探した。そこには確かに空席がいくつもあった。名前の分からないがいつも見かける丸々と太った黒縁めがねの男子生徒が左手でスマートフォンを弄りながら、右手でポテトチップスを食べていた。楓はその生徒の背後に隠れるようにして座った。
楓はポテトチップスの油の匂いを嗅いで、登校時の寒さもあってか、ひどく気持ちが悪くなった。もう少し離れた席にしようかと考えているうちに空席も埋まってきて、講義室は若々しく、狂乱に満ちた声に包まれていった。
(騒がしい。みんな所詮、猿なんだ……)
ここは猿山なんだ、と楓は思った。そう思わざるを得なかった。歴史を学ぶことにより、楓はその考えを深めていった。人間は猿なんだ、と。私たちの住む社会は猿山に過ぎないんだ、と楓は繰り返し思った。
(気持ち悪い……)
そう思ったとき、ニホンザルのような顔をした年寄りの教授が講義室にゆっくりと入ってきた。
「ええ、皆さん。授業を、始めますよ……」
(もう本当に猿山じゃん!)
楓は忌々しく思った。
年寄りの教授はふらふらと黒板の前に歩み出ると、平安時代の貴族の生活について話し始めた。平安時代の祈祷仏教がどうだとか、その言葉を聞くたびに父親の微笑みが脳裏に浮かんで、左右に揺れ動いているように思えるのだった。
この老教授の講義は、声が小さくてよく聞き取れないし、聞こえたところで大体、面白みのないことを繰り返しているばかりなので、生徒の中にはずっと私語を続けている者がいた。老教授は時々、虚しい咳払いをするのみで注意もしないのが常なので、いつのまにか私語は大きな波音のように講義室に響いていた。
すると老教授は難しい顔をして振り返り、生徒の顔をひとりひとり、じろじろと見つめたのだった。
「生徒諸君」
読経のように響いていた私語は、途端に静まりかえった。この老教授がこんな顔をしているところを今まで誰も見たことがなかった。
老教授は空咳をして、重々しく話しはじめた。
「皆さんは一体何のために歴史を学ぼうとしているのか、それももう一度、よく考えねばなりません。いいですかな。何のために我々は歴史を学ぼうとしているのか……」
それはかすれた小さな声であったが、異様な凄みが満ちていた。
「我々が、過去の奴隷だからです」
老教授はそう言って、なぜかじろりと楓のいる方向を睨んだ。
「もう一度言いましょう。我々は「過去」というものの奴隷なのです。我々が自由に判断していると思っている「現在」も、自由に思い描けていると思っている「未来」も、みな「過去」の経験の集積の結果に過ぎないのであります。我々が日頃「自由」と感じていることは「過去の習慣」が許している範囲内の自由の意志に過ぎないのであります。それなのに我々はそのことに気づかない。奴隷であることを知らない。何故か。それは我々にとっては「過去」に経験したことのないことは想像することも難しいからであります。そして我々人間というものは「過去」から逃れることの難しい存在なのです。十年経っても、二十年経っても、我々は過去の出来事から完全に自由にはなれない。我々は過去を選択することで、未来を選択しているのであります。我々は日本人であり、日本文化のその習慣の中で育ち、今日まで生きてきました。われわれがそれに従い、日本文化の中で、日本人をまっとうするのも、それを打ち壊して鳥のように自由に空を飛びまわろうとするのも、すべて「過去」を理解した上でできることで、すべての物事は「過去」を深く知ることから始まるのです」
そう老教授はそう言うと、深くため息をついた。
「それなのに君たちは……! そんなに流行歌手や漫画の話が大切ですか。そんなに話したいのならこの教室にいてもらわなくて結構。ここは歴史を勉強する場所であります。ごほっ! わたしはあなた方がいなくても、構わないのですよ!」
老教授はそう言いながら、唸り声を上げて、楓に向かって足早に歩いてきた。
(いやいや、なんでこっち来るの!)
楓が焦って、椅子の上でジタバタしていると、老教授は楓の前の席の太った男子生徒に迫っていった。
「なんだね! 授業中にこんなものを食べて! わたしの授業がどうでもいいと思っているのかね」
太った男子生徒は困ったように頭をかきながら、老教授から逃れようとして、わずかに背中を後ろに反っていた。
「あ、あの、いえ、すいません、お腹が空いちゃって、すぐにしまいます」
「こんなものを食べているから君は太るのだよ! これだから現代人は。平安時代にはこんな食べ物はなかった。いいかね。この教室は時を流れる箱船だよ。今、この教室は千年前に旅立っているのだと思いたまえ。窓から見えるのは清水寺に比叡山だよ。そこには僧兵がいるね。そうだろう。広まっているのは浄土教だよ。最先端の教えは源信の「往生要集」にあると思いたまえ。それなのに君はポテトチップスなど食べるのか!」
そう叫ぶと、老教授はひどく咳き込み始めた。しばらくもがいていると胸を押さえてどたっと倒れてしまった。口から泡が垂れて、静かになった。生徒たちは驚いて立ち上がり、口々になにか言って、結局、隣の講義室に走ってゆくものがあって、しばらくして救急隊が到着。老教授はすぐに運び出されていった。