68 のぞみん
「恋は勝手に落ちるものですね。たしかに……」
と祐介は言った。ラーメン屋の何故かメンマの匂いがするコップの水を飲みながら、ちらりと壁に貼られたメニューを眺める。
「霧深い山の中でわたしは地蔵菩薩を拝んでいました。その時に現れたのが彼女です。彼女も物憂い表情をしていました。わたしも同じだった……。ふたりは迷妄の中にいたのです。わたしはだからすぐに彼女の悩みが分かった……。わたしは「あなたは今、自分がどこにいるのかもわからないのでしょう」と言葉をかけました。何故ならば、わたし自身が自分がどこにいるのかわからなかったのですから……」
そう言って、円悠もメンマの味のする水を一口飲んだ。不思議そうにコップの内側を覗き込み、また深刻そうな表情を浮かべる。
「すぐにそれが恋だと気づきましたか?」
と祐介はメンマの匂いを嗅ぎながら言った。
「いいえ。その時は恋なんてものじゃなかった。ひとつの共感ですね。ただ、どちらがどちらを助けるというのではなくて、なんと言いますか、お互いに救いになったんです。わたしは彼女に仏教について尋ねられているうちに、わたしというものを頼りにしてくれている存在というのが、とても励みになっていったのです」
「それで恋に落ちたと……」
「いえ、そんな理屈っぽいことでは……。彼女の微笑みが、ただ好きだったんです。それは煩悩だと思って打ち消していたんです。でも、打ち消そうとすればするほど、日に日に気持ちは深まってゆくばかりでした。ある時、壁という壁に彼女の美しい顔が浮かび上がって見えてきたんです……」
「それは一種の幻覚ですね。オカルトですよ」
と祐介は不気味に思いながら、円悠に言う。
「これはもののたとえです。壁だけじゃない。天井を見たって、彼女の顔が浮かんできて、わたしの心を離さなかったのです。わたしはすっかり、恋に落ちてしまったことを悟りました。そうしたら、多くの不安はわたしを支配してしまった。彼女がいつもどこか遠くに行ってしまう気がしたのです……」
そういうと円悠は冷や汗をかいたように額を手で拭った。
「味噌ラーメンお待ちぃ!」
と女将さんが山盛りになった味噌ラーメンの器を二つ、二人の前に並べる。
「これはすごいですね。麺が絡んでいて……。いえ、羽黒さん。わたしの話を聞いてください。わたしは彼女を我がものにしたいという気持ちを強めていきました。彼女が寺に訪れるのをずっと楽しみにしていた。そして会えない時には寂しくて、不安でたまらなかったのです。わたしは座禅をして、過ごしました」
祐介は割り箸を割ると、味噌ラーメンの麺を掬い出そうとするも、スープが絡んで、なかなか出てこない。
「分かりますよ。恋とはそういうものです。座禅はしませんが……」
「わたしはくたびれてしまいました。かと言って、旅に出ようとも思わない。そこに彼女がいないからです。つまり森永のぞみさんが……。のぞみんが……」
のぞみん、と祐介は口の中で繰り返した。
円悠ははっとして顔を上げる。
「この場で、のぞみんと叫んでもいいですか」
「やめてください」
と祐介はすかさず言って、麺を啜る。
円悠はおもむろにスマートフォンを取り出して、画面をちらりと見ると、あっと叫んで、
「のぞみんから画像が送られてきている……!」
と言った。そして円悠は、まじまじと画面を見つめて、
「か、可愛い……」
とため息混じりに語尾を強めながら言った。
祐介は、その画像を見せてもらった瞬間、麺を吹き出しそうになった。
(この子は……!)
それは上野の博物館の前で茶髪混じりの女の子が自分の顔を撮影している写真だった。そして、それは若宮食堂で、胡麻楓と一緒にいたあの女子大生だった。




