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66 円悠の大切な人

「温泉街を散歩するのは心地よいものですからね」

 と言って、円悠はシャツの襟を正し、のんびりと立ち上がる。あれほど高度な仏教論を朗々と語っていた円悠が、ロック歌手が愛用するような着古しのジーンズを履いていることに、祐介はあらためて違和感を抱いた。

(休日のお坊さんというやつは……)


 ふたりは松浦旅館から出ると、山の斜面に沿って延々と続いている眺めの良い坂道をゆっくり下っていった。左手には眩しい青空の下に山並みの連なりが見えている。右手には崖の斜面に隠れているような地蔵菩薩像がぽつりぽつりと祀られている。

「殺人事件が起こりましたね。円悠さんは事件の真相をどのようにお考えですか?」

 と祐介は尋ねた。

「わたしにはなにも分かりません」

「あの観音菩薩像が呪われているなどという噂が、SNSなどでは騒がれていますが……」

 と僧侶の自尊心に意図的に動揺を起こさせようとして、あえて祐介は仏教の神仏を汚すような際どいことを匂わせる。


「観音様が呪われているというよりも、観音様の呪いですね。もしあるとしたら……」

「観音菩薩像に人を呪い殺すような力があるとお考えですか?」

「古来より「のろい」と「まじない」は紙一重でありまして、人々の願いを叶える現世利益の力と恐ろしき祟りの力は共に神仏に備わっているものであります。神仏とは常に畏敬の念を持って接しなければならぬものです。少なくとも日本人の信仰においては……」

「なるほど……。つまり、今度のことは観音様の呪いの可能性もあり得ると……」

「そうは申しません。なにしろ信仰の弱まった現代社会においては迷信と片付けられてしまう類の話です。ただ、そういう古来からの信仰になぞらえて何者かが殺人を犯すということは充分に考えられるでしょう」

 と円悠はぎりぎりのところで観音像の面目を保つようなことを言う。


 ふたりは付近の山並みを一望できる見晴らし台のようなところで、鉄の手すりに掴まって横並びになった。

 祐介は、会話を取りやめて、しばし景色を眺めた。山の緑に包まれて、銀と灰色が混じったような街が遠くに見えているのは、まるで小さな模型を連想させるものだった。

 あそこに胡麻博士の娘、楓さんの大学がある、と祐介は思った。


「つまり人間が殺したということですね」

 と突然、元の会話に戻る祐介。

「勿論その通りです」

「犯人は仏教関係者だとお思えですか?」

「さあ、わたしには分かりません。なにしろあの日、わたしはあなた方と会った後にすぐに白緑山寺を出てしまったのですから……」

「寺を出た? 何のために……」

「わたしの大切な人にあるものを届けるために、です」

「それは誰ですか。何を届けたのですか?」

「羽黒さん。それはあなたにお話しするわけにはいきません。拙僧も出家の身とはいえ、いまだ心は凡夫。心の底では抗いようのない煩悩に苛まれているのです。そのため、汚泥に咲いた蓮華をわたしは時々夢にまで見るのです……」

 祐介は円悠の話を聞いて、すぐに(ははあ、このお坊さん、恋をしているな……)と思った。


 円悠はなにかを思い出したように、スマートフォンをポケットから取り出すと指先でいじっている。

「おや、大切なあのお方から連絡が来ております」

「連絡が……?」

 祐介は円悠の顔をまじまじと見つめた。

「これほど嬉しきことは他にありません。どれどれ……。な、なんとっ……。羽黒さん。東京上野の美術館に赴いたわたしの大切なお方が、仏教の真理を突き止めたと連絡してきたではありませんか……!」

 祐介は、隣の若い僧侶を見つめていた。円悠が輝きに満ちた瞳をこちらを向けたので、祐介は視線に耐えきれず、狼狽した。

「どんな内容ですか?」

「こちらです……」

 と円悠はスマートフォンの画面を見せてくれた。



『円悠。わたしはついに真理を見つけた。大日如来がただ一つの真実で、他のはすべてそのさざなみだということを。』



 差し出し人は「のぞみ」と記されている。



「これが、その……」

「あの美しい方がついに連絡をくださった。それも真理を見つけたとおっしゃる。なんと素晴らしいことでしょう……」

 と円悠は、スマートフォンを自分の額に当てると、何事かぶつぶつと呪文を唱えているようだった。


「えっと、この方は、お知り合いですか?」

 と祐介は当たり前のことを尋ねた。

「森永のぞみさん、わたしの最愛の人です……」

 と円悠が言ったのを、祐介は(どこかで聞いた名前だな)と思ったが、思い出せなかった。

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